ばしゃ、と自分の顔に冷えた水をかけ、顔を洗う。
 勢いよくかけたせいで、前髪から水が滴っていた。
 鏡の向こうにいる自分はまだ少し眠そうで、リンクは無意識に目を擦る。
 タオルで乱暴に水気を取りながら、窓から下を眺めると。
 ――お隣さんが、エポナにじゃれ付かれていた。



それは息をするのと同じ



 リンクはまだ若干15歳ではあるが、自分がこの先どういう人生を送るのか、ある程度は理解していた。
 幼馴染のイリアは村長の娘で、ほんの小さな言い争いをすることもあるが、基本的には仲がいい。
 このまま定められた――誰に決められた訳でもないが――路を進めばきっと、自分はイリアとつがいになり、ゆくゆくは村長職に就く。
 村人の信頼も厚く、働き者だと評判のリンク。
 在る者は口にして、また在る者は雰囲気で、彼がいずれは村長になることを斡旋し、そして理解していた。
 リンク自身も、それに苦言を呈したことはない。
 誰かに頼られるのは嫌いではない。
 イリアのことを好ましく思っているのも事実。
 なによりリンクは、トアル村が大好きだ。
 ――けれど。
 数ヶ月前にやって来た隣人、元貴族のと出逢って、リンクは度々、不思議な想いに駆られるようになった。
 ちょっとした変化といってもいい。
 それが何か、未だ理解できない。
 理解してはいけない気がした。

 牧場の手伝いを終えて村に戻ったリンクは、川べりでが弓をしまっている所を見つけて駆け寄った。

「リンク、もうお仕事終わったの?」
「今日は早かったんだ。はどうしたんだ?」
 うん、と頷きながら、彼女は弓と矢を手に持つ。
「子供たちが見せてっていうから」
 だからまたお披露目したのだと告げる彼女は、弓が物凄く上手い。
 以前タロに技を見せて以来、こうしてしばしば子供たちに弓技を見せてあげている。
「大変だな」
「結構楽しいよ。訓練にもなるし」
 通りがかった村人がの姿を見、軽く挨拶をしながら、手に持っていた野菜を分けた。
 が感謝してお礼を言うと、村人は大きく手を振り、その場から立ち去る。
「もらっちゃった。今度何かお礼しなくちゃね」
「重いだろ、持つよ」
「ごめん、ありがとう。じゃあこっちね」
 人から折角もらったのだからと、野菜一式ではなく、弓を渡される。
 リンクはの大事な武器を抱えた。
 2人、どちらともなく歩き出し、家へと向かう。
 帰りがけに、何人かの村人に声をかけられた。
 は笑顔で応対し、その度に荷物が増えている。
 家へつくころには、両手が目いっぱい塞がっていて、結局、リンクも彼女のもらい物を運ぶ手伝いをしていた。
 躊躇せずにの家に上がり、荷物を保管場所に置くリンク。
 彼女に聞かずとも、家のどこに何があるのか、たいてい分かっていた。
 も、リンクの家のどこに何があるのかを、粗方知っている。
 お互いの行き来が激しいと、自然に覚えるようになるものだ。
「にしても……随分と馴染んだな」
 お茶を用意しているの後ろ姿を見ながら、そんな感想を漏らしてみる。
 彼女は、旅商人から分けてもらったというお茶を淹れ、リンクにも渡した。
 テーブルを挟んで向かい合わせに座った彼女は、軽く肩をすくめる。
「そうだと嬉しいんだけどね」
「もう立派にトアル住人だろ。自信持てって」
 言っても、苦笑するだけだ。
 何ヶ月か前、がトアル村へやって来たばかりの頃は、大人も子供も彼女の扱いに困っている節があった。
 ゼルダ姫の親類。元――ではあっても貴族。
 先入観とは恐ろしいものだ。
 貴族は召使いを使い、高圧的で、他者と交わらない、という印象があった。
 リンクは、最初にの姿を見たその時に、先入観が猛烈に間違っていることを理解したけれど。
 今では村人もすっかり、のことを認めている。
 彼女はよく人を手伝い、よく働き、高圧的ではないからだ。
 正直、リンクは村人がをちやほやするのを、心から嬉しく思えない。
 良くは分からないが、彼女が誰かにとられたみたいな気持ちになるのかも。
 ――変な話だよな。は俺のものじゃないのにさ。
 リンクはお茶を口にしながら、彼女の右耳についているピアスを見て、知らず、顔を緩ませる。
 元はリンクの持ち物。今はの持ち物。
 互いが繋がっているようで、嬉しい。
 ふいに、リンクは問うてみたくなった。
「……なあ。婚約者がいたんだろ?」
 暗い顔をされたらどうしようかと思ったが、は表情すら変えず、
「いたねえ」
 けろりと答えた。
「あっさり言うのな」
「解消されてるはずだし、過去でしょ、既に」
 どんな奴だか知っているのかと問えば、知っているような、知らないような、微妙な顔をされた。
「会ったことはない。伝聞だけ」
「嘘だろ!? 結婚したかも知れない相手のことだぞ」
 驚くリンク。
 は手をヒラヒラさせた。
「だってついこの間まで、婚約者がいることすら知らなかったんだし。16歳になったら結婚しなさい、なんておかしいじゃないよ」
 現在、はリンクと同じ15歳。
 自分の身に置き換えて考えてみて、首を振った。
 ある日突然、お前は16になったら結婚するんだぞと言われても、実感がないだろうし、恐らくと同じく、拒否することだろう。
「聞くところによると、容姿端麗、性格良好、有能で将来立派になるだろうって。凄いよね」
「……なに褒めてんだよ。結婚したくないって逃げ出した相手だろ」
 呆れたようにリンクは言う。
 確かにその通りだと頷く
「でも、普通に聞いたらいい人っぽいよね。将来有望で」
「…………結婚、したいのか?」
「まさか! ここでリンクやイリアたちと一緒にいる方が好き」
 は大きく胸に空気を入れ、ふぅ、と吐き出した。
「私にとっては、ドレスを着て静かにしているよりも、馬に乗って駆け回ってる方が自然みたいなんだよね、これが」
 堅苦しい貴族の生活に、いかにうんざりしているかといった表情で、リンクは思わず苦笑する。
 彼女がごてごてした絹の装飾を身に着けて、人形みたいに座っているサマは、全く想像がつかない。
 そんなのはきっと、リンクの知るではないし、彼女らしくない。
 それに、
が貴族っぽっかったら、俺とこうやって向かい合わせで、お茶なんて飲んでないんだろうな」
 接点だってなかったかも知れない。
 貴族らしいは、トアル村に来ることなど、おそらくなかっただろうから。
 もし、自分の目の前に彼女がいなかったら――。
 つい何ヶ月か前までは、実際、は傍にはいなかった。
 それなのに、もう既に何年も一緒にいるような気になる。
 が傍にいるのは自然で、いないのは不自然。
 リンクにとって、彼女が自分の傍らにいなくなる日は、いっそ恐怖であるような気さえした。
「そういえばリンクって、次の村長なの?」
「え!? あ……いや、そうと決まった訳じゃないさ」
 どこから聞いてきたんだと問えば、周りのみんなが、と。
 そうでなくとも、村の雰囲気で分かると言われる。
 そんなに分かり易い雰囲気なのか……?
「もし村長になるなら、やっぱりイリアと結婚するのかな」
「……多分な」
 は首を傾げる。
「じゃあ、リンクとイリアって付き合ってるんだ。私と2人でお茶とか、やばいんじゃない?」
 そわそわし出す彼女。
 リンクは立ち上がり、既に空になったお茶のカップをふたつ、台所に戻した。
「俺たちは付き合ってる訳じゃないし、が気にすることも何もない」
「でも」
「それよりさ、エポナの世話、少し手伝ってくれないか」
「それはいいけど」
 玄関に向かって歩くリンクの裾を、が軽く引く。
 振り向けば、彼女はまっすぐこちらを見ている。
「リンク。私、リンクとイリアが険悪になるのとか、いやだ」
「ばか。そんな風になったりしないから、大丈夫だって」
「……2人とも大事なの。だから、幸せになって欲しい。私に何か気兼ねしてるなら、そんなのいらない。私とばかり一緒にいたら、イリアとの時間が減るでしょ」
 真っ直ぐな視線のまま、彼女は続ける。
「私なら、もう独りでも――」
 独りで。
 言った彼女の口唇を、リンクは己のそれで塞いでいた。
 口唇は思ったよりずっと柔らかくて、いつまでも触れていたくなる。
 リンクがやんわり離れると、は目を瞬いた。
 微かに指先を合わせて、それから、絡ませる。
 抵抗はない。
 リンクに、恥ずかしいという思いはなかった。
 いけないことをした、という思いも。
 にそうすることは、まるで呼吸をするのと同じぐらい自然なことのように思えた。
「……独りになんてさせない。俺はいる。が嫌でないのなら」
 彼女はほんの一瞬、苦しそうな顔をした。
 けれど直ぐにそれは、溶けて消える。
「ありがと……リンク」
「うん。……それと、いきなり、ごめんな」
 別にいいと、は首を振る。
 ホッとした次の瞬間には、もう一度重ねたいという衝動が駆けてきて。
「もう一回、して、いいか?」
「だめ。今度は殴っちゃうからね」
 くすくす笑いながら、は右耳のピアスに指先を触れさせていた。


 リンクは自分の人生の先を、ある程度は理解していた。
 いずれはイリアとつがいになって、村長職に就く。
 かくあるべしと、村人の多くも思っている。
 けれどリンクは今、そこに向かう路を大きく逸れているであろう自分に気付いていた。
 きっと、元の場所に戻れないであろうことも。
 時折かられた、不思議な想い。
 理解してはいけなかったのに。
「リンク? エポナの世話、しなきゃ」
「ああ、そうだな」
 指先を彼女に触れさせたいと訴える自分の想いを、リンクは理解してしまった。



……手が早いなあうちのリンク。ぐだぐだとまた続けてまいります。
2007・8・13