黄昏よりし者 肌にまとわりつく嫌な湿気を含んだ空気が、一体を取り巻く森――禁忌の森の、そう深くもない場所に、彼はいた。 吟遊詩人レイム――いや、今や吟遊詩人ではなく、デグレア顧問召喚師、レイム、だ。 ともあれ、彼は鬱蒼とした森の中で、一人、目を閉じて、静かに呼吸を繰り返していた。 「…世界に、魔王のカケラが満ちている…」 静か過ぎる森に、彼の声が吸収される。 ゆっくりとまぶたを開き、眼前に迫るようにして立ち並んでいる木々を抜け、小さく、いびつな円形状の場所で、彼の足は止まった。 いつしか彼は、口の端を上げ、それにしては賢そうな表情で笑っていた。 声は、立てず。 美しい銀髪が、木々の間から流れ込んでくる風になびいた。 「…彼女の力は実に大きいが、扱いきれてはいないようだ…」 彼女――とは、レイムが気にしている人間のうちの一人、の事だ。 まだ気づいていないのだろう。 自分の恐ろしい力に。 もし、それを認識したのなら彼女は途方もない力の持ち主となる。 それこそが、レイムの求めている物。 ――だが、気づかせるには、一つの問題を解決しなくてはならなかった。 レイムは、彼女の心に座を占めている、一つの<想い>に気がついていた。 ”無色の派閥の乱”で、彼女が手にかけた人間。 バノッサ。 彼を自らの手で殺めてしまった事が、心の引っかかりとなり、必要以上に、自分の力を締め上げる事になっている。 では、その死を偽りにしてしまったら、どうだろう? レイムはニヤリと笑い、地面に手を触れず、瘴気を振りまく魔方陣を書き上げた。 「彼女の力は、我々悪魔にとっては憎むべきものだが…使い方を知らないのであれば、格好の獲物だ」 彼は薄ら笑いを浮かべたまま、魔方陣に向かって、手をかざした。 綺麗な銀髪に、魔方陣から派生した紫色の光が映える。 土くれが、ボコリと盛り上がっては、また元に戻る。 木々が恐ろしげな声を上げ、周囲にこだました。 「魔王の片鱗を掴み、死を受け入れた従順な人間よ。お前の名を名乗るが良い」 土くれが盛り上がり、木々が代わりと言う様に、名をざわめかす。 バノッサ。 バノッサ。 木霊が教えたとおりの名を、満足げに耳にしたレイムは、手の平から、土くれに、魔力を与えてやった。 だが、彼の魔王の片鱗はそれを受け入れたが、半分――人間として生きていた部分は、レイムの魔力を受け入れるどころか、吐きだしたようだった。 「…ふむ、では」 レイムは作戦を変え、悪しき悪魔としての魔力ではなく、神聖な力を持つ悪魔の能力を拝借し、彼に植え付けてやった。 彼はそれを、受け入れた。 木霊が、恐ろしげな音を立てる。 それは、木霊の声ではなく、ただ一人の―――人間として生きた男の、声だった。 『俺に、手を出すな』 だが、レイムはその言葉を無視して、儀式を続けた。 土くれを盛り上げさせ――、その形は、いつしかヒトガタになっていた。 口の端を上げ、レイムの代わりに禁忌の森の木霊が、最後の呪文を言った。 現世へ帰還せよ 土くれだったものの中から、人間が現れた。 その人間は、かつて、バノッサと呼ばれた者だった。 「………ここは何処だ」 バノッサは、混乱した思考を元に戻すかのように、頭を振った。 肌寒さを感じ、身震いする。 それで、今自分が裸なのだと知った。 「……なんだってんだ」 「気づかれましたか、バノッサ」 「あぁ?」 バノッサは、声をかけられて初めて自分が見知らぬ男の前にいる事を知った。 レイムはパチンと指を鳴らし、彼に旅装束と真っ黒なマントを、一瞬のうちに着せてやる。 なにをどうされたのかと、不思議そうに自分にあてがわれた服を見ていたバノッサだったが、少なくとも寒さからは解放されたと知ると、礼の変わりに「ふん」と鼻を鳴らした。 普通の人間であれば不快感を持ったかもしれないその行為は、悪魔であるレイムには、むしろ好意的に見える。 「さて、アンタが誰なのか言ってもらいたいね。てめえは俺の名前を知ってる。だが、俺は知らない」 「そうですね。自己紹介しましょうか。私はレイム。デグレアという国の、顧問召喚師です」 「召喚師……あいつらと同じかよ」 あいつら。 きっと、多分――や、リンカーとその仲間の事を言っているのだろう。 表情が複雑になっているのを見て、バノッサがなにかを考えているのは分かったが、内容まではさすがに分からない。 バノッサは、一時的とはいえ魔王と同化した。 死してもなお、魔王の片鱗は彼の内にとどめられたままだった。 だからこそ、こうして復活できたのだが……。 だが、今の彼に――復讐心はない。 残念な事だが。 「俺は死んだはずだ。てめえが余計な事をしたんだろう? また、リィンバウムの地を踏んでるって事はよ」 バノッサは立ち上がり、レイムと対峙した。 レイムの方は、微笑みを湛えたままだったが。 「余計な事とは、心外ですね…。蘇りたくはなかったと?」 「……俺は、はぐれ女――に止めを刺せと言った。あいつの手で、俺は『人間』になれたんだ。静かに眠っていたかった」 「それはそれは…仮にも魔王の片鱗を持つ人間の言葉とは…思えませんね」 「魔王の片鱗――今でも俺の中にあるのは、判る。だが、それを面に出して、また世界を混乱させるのは御免こうむるね」 レイムの眉根が、寄せられる。 ……この男、魔王の欠片に、翻弄されない――? 憎しみが、増殖しない……。 付け入る隙はあるものか? 自主的に彼が動かないのであれば、考えなければならない。 「世界を混乱させるつもりはない――貴方は復讐を忘れたのですか」 「復讐だと? そんなもの、とっくの昔に決着がついてる。オルドレイクはもういない」 「違います。リンカーと、その一味に対して、ですよ」 バノッサは、呆れたようにレイムを見た。 「トウヤの奴やフラットの面子、それとに対して、恨みなんぞ持っちゃいねーな」 これは、本格的に参った。 レイムは自分の考えが、思い切り計算違いをしていた事に、気づいたのだ。 バノッサの中には、確かに魔王の一部が存在する。 強い、残り香だ。 けれど、彼には以前持っていたような復讐心はなく、誰かを憎悪する気持ちもない。 通常であれば、魔の力の一部を与えられた人間は、耐え切れずに発狂するか、魔物になるか――悪魔の配下になる事もしばしば。 この世のものでなくなったとしても、魂は<人間>として転生できず、年を経て憎悪と苦痛を蓄積させ、悪霊としてこの世界をさまよう。 無論、生き返らせれば、それまで持っていたよどんだ心も生き返る。 世界を怨んで死んだなら、それもそのまま。 だが彼はそれが全くない。 半分は魔王だが、半分は純粋に人間だ。 純粋な人間の部分が、これほどまでに強いとは……。 レイムとて、蘇らせてしまったものをチリとは出来ない。 バノッサの中にある魔王が、邪魔をするからだ。 「……では、君はどうして蘇ってこれたんでしょう?」 「…知るかよ」 「何か、あったはずですよ。貴方が気にする、何かが」 ぴくり、と彼の肩が動いた。 目線が定まらなくなり――それを隠すように、目を閉じる。 「あるんですね」 レイムがニヤリと笑った。 この男は、やはり――使える。 付け入る隙が、あった。 それも、かなり――大きな隙が。 瞬間、レイムはバノッサの額に手を押し当て――呪いをかけた。 目を閉じていたバノッサは瞬時に行動できず、その呪いを全く反応できないままに受けてしまい――。 額に紋章が浮かび上がり、そして、消えた。 「バノッサ、私がいう事に従いますね?」 「………ああ」 バノッサのが、ゆっくりと頷いた。 目に生気はない。 彼は――操り人となった。 「キュラー、良い人材ですよ」 「…この男は…」 平原に駐屯しているデグレア軍のテントの一室で紹介され、キュラーは素直に驚きを表し――そうしてから、笑い始めた。 「この男を蘇らせるとは!」 レイムも口の端を上げて笑った。 「しかし、どうやって…」 「簡単な事ですよ…。彼が気にしている『人間』を、引き合いに出してやっただけです」 「人間?」 ええ、とレイムが笑った。 バノッサは相変わらず無表情のまま、テントの隙間から見える平原を見据えている。 「この男も、人だったって事でしょう。深い罪悪感、そして、彼女への想いが、操り人へする隙を開けた」 「…彼女、とは?」 キュラーの疑問に、レイムは意気揚々として答えた。 「彼女ですよ。。バノッサは――死してなお、彼女に罪悪感と愛情を抱いていたんですよ」 出しちゃいました〜バノッサ〜。 …また収拾が…(滝汗) 2003・4・12 back |