君という人
あの頃、俺にとって世界はとても黒くて、とんでもなく残酷だと思っていた。
残酷で、卑劣で、醜悪で。
その中にいる自分は、それより残虐で強くなければ生きていけないのだと思っていた。
「バノッサぁ?」
間の抜けた声。とりあえず無視。
「バノッサー」
うるさい。
「バノッサーー!!」
俺は屋根の上で寝転がっていた体を面倒くさそうに起こした。
ここ、スラムは当然ながら治安が悪い。
取り仕切っているのは俺だが、かといって乱暴を働かないヤツラが住んでいるわけじゃない。
あいつは自分で気づいていないんだろう。
狼の群れに飛び込む獲物と大して違わない行動を取っているなんて。
「なんだってんだ、てめえ。うるせえよ」
屋根から軽快な音を立てて地面に着地し、睨みつけてやる。
たいていのヤツはこれでビビるかなんかするっていうのに、こいつは恐れない。
……それどころか笑いやがる。
「あはは、凄んだってだめー。慣れるっつの。今日はね、商店街の帰りにちょっと寄ってみた」
ちょっと寄ってみる所じゃないんだよ、ここはっ!!
馬鹿かと言って背中を向け、歩いて行こうとすると腕をつかまれた。
「面倒がらずに相手してよ、折角来たんだからさ」
「……おい、てめえはフラット側の人間で、俺からしたら敵だろうが。馴れ馴れしくすんじゃねえよ、はぐれ女」
「名前で呼ばないとしばくよ。前も言ったでしょ」
「うるせえ」
茶色の髪を持つこの女はと言う。
はぐれ男と一緒にこの世界に来た女。
こいつが住んでいるフラットという場所と、俺のいるスラムは敵対関係にある。
それなのにこのバカ女は、笑顔でほいほいと会いに来る。
本物のバカだ。
スラムにいる荒くれに襲われて怪我しても、俺のところに来る。
遊びに来たとかなんとか言って。
腕を血だらけにしてまで遊びに来る価値のある場所か? ここは。
俺はそう思えない。
「あー、お土産あるんだった。はいこれ」
差し出したのは、冷えた果物。
「いらねえよ」
「うるさい、食え」
……おい、女ってのはもっと貞淑なもんじゃねえのかよ。
別にそれが悪いってんじゃねえが。
それでも手を出さない俺を見てなにを思ったか
「食べないと毎日安眠を妨害してやる」
本気でやりかねないので、奪うように果物を取って口の中に放り込む。
甘酸っぱい。
別にマズかないな。
「ようし、えらいぞバノッサ」
「犬コロみたいな言い方してんじゃねえ! ぶっ殺すぞ」
「死にたくないよ。まだ若いし」
……なんかおかしくないか? その返事。
すっかり果物を二人で平らげてしまうと、女は立ち上がった。
「それじゃ、帰るねー」
「なにしに来たんだよ……」
「え? だからちょっと寄っただけだってば」
「バカ女」
「そういうアンタも相当バカだって」
「どこがだよ」
「いろーんなトコ」
「明確に言えねえんじゃねえか」
「明確に言ったら、きっと傷つくし」
「バカか。そんな性格してると思ってんのかよ」
「いーや、全然、全くこれっぽっちも思ってない」
思考を挟む間もなく口をついて出る言葉、言葉、言葉。
軽快なリズムで言い交わされる言葉。
普段なら切り捨ててしまう言葉。
面倒になって言わない言葉。
でも、俺は喋ってる。
面倒がらず。
「ま、とにかく帰るから」
「…二度とくんな」
「やーよ」
じゃね、と軽く手を振って薄汚れた道を、なんでもなさ気に歩いて行く。
野獣の如き目をしている男にすら、ばいばいと手を振りながら。
どんな女って、あんな女だ。
だから俺のペースが崩される。
あの頃、俺にとって世界はとても黒くて、とんでもなく残酷だと思っていた。
残酷で、卑劣で、醜悪で。
その中にいる自分は、それより残虐で強くなければ生きていけないのだと思っていた。
でも。
あいつが来ると、ほんの少しだけそれが揺らいでた。
「バノッサ」
バカな女のあの声が――が俺の名を呼ぶ声が――俺の薄汚れた世界にほんの少しだけ光を差し込ませた。
バカな女。
強い女。
優しい女。
一度死んで、また俺として蘇ってきた俺をほっぽって、護衛獣とやらと旅に出た女。
帰ってきたら言ってやる。
「お前はどうしようもないバカ女で、無責任だ」と。
多分、
「アンタもそれに近いものがあると思うけど?」
と切り返されるんだろうけどよ。
バノ夢です。何処ら辺がだと突っ込みを入れたい自分。変換すら殆どない。
時軸としては2連載終了後です。
2004・6・15
back
|