名の違うその人




 無色でのの側付きであるレイエルが、一人の女性を連れて部屋へやって来たのは、正午も間もなくすぎた頃だった。

 床に腰を落とし、ベッドの淵に体を預けたままのは、傍目から見て確実に力をそがれていた。
 うつろう視線の前に、レイエルと女性が立つ。
様……」
 レイエルに声をかけられ、は小さく頷いた。
 聞こえてはいる。
 けれど――うまく体を動かす事ができない。
 自身は自覚していない、ディエルゴの内面侵蝕、そしてオルドレイクが飲ませている呪薬の効果。
 それらが作用して、彼女は今、小さな自分の心のカケラを留めることに必死で、自身の内面以外に意識を向けるのがとても難しい。
 それでも、目の前にいる女性が何者かぐらいは分かる。
「……ヘイゼルさん……」
 小さな声で名を呼ぶ。
 ヘイゼルはを見て――語りかけた。
「あなたはこのままでは、自身を失ってしまう。自分でいたいなら、早くオルドレイク様に協力した方がいい」
 無言。返事がない彼女を、ヘイゼルはじっと見やっている。
 は暫くしてヘイゼルに笑いかけた。
 儚くて、直ぐに消えてしまいそうな笑顔だったなんて、当人は思わないだろうけれど。
「自分でいたいから、オルドレイクなんかに屈したくないの……」
「やせ我慢をしているように見える」
「それでも。……私には……あの男に……嘘であれ、協力するなんて……言えない」
「自身の命が危ぶまれてもか」
 は少しの間考える素振りを見せ、それから口を開いた。
「死んでもいいなんて……私には言えないけど……でも……待ってる仲間がいるから。待ってる人が……いるから」
「助けにも来ない奴らのことか」
 辛らつに言う。

 は頭がぼうっとするのか、始終辛そうで。
 しかしヘイゼルは言葉を止めない。
 何度か対峙した抜剣者やその生徒たちの実力を考えれば、隙をついて一人ぐらい助けられそうなものだ。
 けれど、それをしに来ない。
 勿論、実力があろうと無色の船に乗り込んでくるなんていうことは、危険が伴うことではあるし、下手すれば見るに耐えない状況になるだろう。
 それでも――あれだけ仲間だ何だと言う者たちだから、彼女のこの状況を放っておくとも思えなかった。
 だが、現実には助けに来る様子もない。
 彼女自身も、それを認めているように見えて――。
 ヘイゼルの方がなぜか閉塞感を感じてしまう。

「助けに来ない奴らを、いつまで支えにしていられるの」
 ヘイゼルの言葉にはベッドに寄りかかったままで、彼女を見上げ、しっかりとその目を見る。
 意識の混濁を示すように、の視線はひどく頼りなさ気だ。
 最初に戦闘の場で見たときの彼女とは、別人ではないかと錯覚させる。
「……私を助けに来ないのは……この状況では最善のことだし、私をよく知ってる奴がいるから……だから、来ない」
「よく知ってる……?」
「そう……私が今助けられても、ここに居残る可能性の方が高いって、分かってる奴がいる。だから」
 大きく息を吸い――吐く。
 深呼吸というよりは、何か胸につかえたものを吐き出すみたいに。
「だから……助けは、ないの……」
「……どうした?」
 急にの全身から力が抜けた。
 だらりと手を床に降ろし、持ち上げることもしなければ動かすこともしない。
 後ろに控えていたレイエルが慌てて近寄ってきた。
様!?」
 答えはないけれど、視線だけは動いているようだ。
 といっても頭を上げることすらできず、床を見つめている状況ではあるけれど。
 は小さく笑むと、独り言のように――言った。
「パッフェルさん……」
「!!??」
 ヘイゼルが驚いたような顔を彼女に向ける。
 レイエルは訳が分からないというように二人を見やるが、説明がないだろうということは分かっているようだ。
「どうしてその名前を……」
 膝を折り、と同じほどの目線の高さにしゃがむヘイゼル。
 力なく微笑み、彼女はヘイゼルと何とか視線を合わせる。
「……あなたはヘイゼルなんていう名前じゃない……パッフェルさんなの……」
「……何故」
「分かるもん……パッフェルさんだよ……明るくて元気で優しいパッフェルさん……」
 小さく小さく、どんどん消え入るような声になりながら――それでも言葉を紡ぐは、ヘイゼルに喋りかけるというより、単に音を空気に乗せて
 伝えようとしているだけに見える。
 実際、今のは意識の殆どを失っていた。
 ただ伝えたい思いだけを、何とか口に出しているだけに過ぎない。
 優しい、と言われたヘイゼルは少しだけ――ほんの少しだけ語気を強めた。
「人違いだ」
「だって……私は知ってる……。ずっと先の時の向こうに……私の時代には……あなたがいるから……」
「先の……時?」
 問いかけには答えず、は言葉を口に出す。
「それでね……私と一緒に……ケーキ屋さんでバイトするの……」
様!!」
 かくん、と体から完全に力が抜け、ベッドに預けていた背中から床へとずり落ちていく。
 レイエルは慌てての体を支えると、四苦八苦しながらベッドに寝かせた。

「……彼女はどうして、こんな風に」
 ヘイゼルに問われ、レイエルは眉根を寄せた。
「こちらへ来てからずっと……オルドレイク様は彼女に圧力をかけています。利用しようとなさって……それでこんな風に」
「……薬のせいね」
「はい……」
 申し訳なさそうに言うレイエルに、ヘイゼルは背を向け、出入り口へと向かった。
「ヘイゼル様?」
「……彼女を、お願い」
「は、はい……」
 廊下に出たヘイゼルは、大きくため息をついた。
 何故のことを、レイエルに『お願い』などと言ったのか、自分自身よく分からなかった。
 は自分と何ら関係のない人物だ。
 無色が利用しようとしているのなら、それはオルドレイクにとって必要なことなのだろう。
 自分が何か口を挟む余地などない。
 己は使われる身――暗殺者なのだから。
 でも……でもなぜかは知らないが、彼女を失ってはいけない気がしたのだ。
 関係のない人物であるにも関わらず、ヘイゼルはを失ってはいけないと、本気でそう思っている。
 あの人物を失うと――何かが歪んで行ってしまう気がしたのだ。
 失うわけにはいかないと、何かが警告を発していた。
 その<何か>は分からないけれど、無視していいとも思えなくて。
「……どうして彼女は私の本名を知ってるの……」
 先の時。
 それは一体なんなのだろうか。
 疑問を胸に、ヘイゼルは思考を切り替え――廊下を歩き出した。






時間一杯一杯状態であれこれやってるので、後で修正箇所が出てくるかも。
…特にタイトル(泣)

2004・9・17

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