凍るダイヤ 9





 学校の授業は平常通りに行われた。
 も勿論、きちんと出席している。
 昼食も終わり、皆も集中力が欠く頃‥‥は何の気なしに、あの手紙を取り出した。
 ‥‥何だか、凄く‥‥読まなくてはいけない気になっていた。


「シゲさん、大丈夫かい?」
 茂は少し遅めの昼食を摂っていた。
 啓介も一緒の仕事だったため、二人で味気ないカップラーメンをすすっていた所‥‥いきなり茂がよろけたため、啓介は慌てた。
「ここの所‥っていうか、ずっと無茶し過ぎだよ‥‥」
「大丈夫だ、これくらい‥‥」
 しっかり座り直し、お茶を飲んでから流し込むようにしてラーメンを空ける。
 あきらかに過労、働き過ぎだ。
 それなのに、彼は仕事の手を休めない。
 それどころか、必要以上の仕事をしている。
 鬼の編集長が、心配する程だ。
「‥ちゃん、帰ってきたんだろ?」
「‥‥優美ちゃんちにいるよ。まだ‥‥顔も見てない。弘樹の話では、渡した手紙も開けてないとさ」
「‥‥シゲさん‥大丈夫だよ、ちゃんは多分、勇気が出ないだけだろうから‥‥」
「さぁな‥‥もう、俺を見限ったのかもしれんぞ」
 自嘲気味に笑う茂。
 ‥以前のユーモアたっぷりな姿は、どこにもない。
 一人の女が、茂を廃人のようにしてしまった。
 啓介にも、それに近い経験がある。
 沙夜香と別れて、しばらくはそれに近かったが‥‥ここまで酷くはない。
 恋愛とは、恐ろしいものだ。
 天国にも、地獄にも近い。
「‥‥バカ言うなよ、ちゃんだって悩んでるはずだ。もし本当に見限ったなら‥‥戻って来たりはしない」
「‥‥五十嵐‥‥」
「大丈夫だよシゲさん、罪は一生消えないけど‥許されない事じゃない。少なくとも、今回は」
 啓介の言葉に少しだけ立ち直った茂に安心したのもつかの間、例の女性‥‥が、休憩室に入って来た。
 一瞬で空気が重くなる。
「茂さん、こちらだったんですね」
「‥‥ああ、何だ?」
 は茂の側に寄ると、色香を乗せた声で話しかけた。
「編集長がお呼びです、第三会議室に‥‥」
「わかった」
 構いもせず、返事だけして啓介と立ち去る。
「‥‥絶対、諦めないから‥‥」
 一度とはいえ、体の結びつきがある。
 心の結びよりよりは緩いけれど、それでも強固なもの。
 が帰って来ているというのを立ち聞きしたの中には、彼女を憎む心と嫉妬が渦巻いていた。
 どうしても、茂を自分のものにしたい。
 ――自分以上に茂を愛する者なんていないのだと、心の底から思っている。
 彼を手に入れるためなら、体だろうが心だろうが、彼女はいくらでも捧げるだろう。
 ‥‥茂に、何もかも。


 は、何かに駆られるようにして、二ヶ月間開く事がなかった手紙の封を切った。
 ゆっくり手紙を取り出し、広げる。
 隣で勉強している弘樹は、が手紙を開けた事を知ったが、何かを言う事もなかった。
 何の飾り気もない白い紙に、見慣れた茂の字が置いてある。
 凄く字の汚い彼だが、信じられないぐらい丁寧に書いてあった。
 ‥‥無論、茂にしては、だが。
 目をつむり、息を整えて、最初からゆっくりと目で追った。




俺が正面きって話しても、多分きちんと耳には届いてくれないだろうから、
古典的だが手紙にした。
ここから先の内容は、お前にとって気持ちいい物じゃないと思う。
それでも、と…可能なら、また一緒にやっていきたいから、書くことにした。
できれば、最後まできちんと読んで欲しい。』


『‥茂‥。』
「片山さん、この問いは?」
「え、あ、はいっ!!‥‥ええと‥」
 いきなり当てられ慌てたが、弘樹が隣から答えを教えてフォローしてくれたので、特に問題は起こらなかった。
 小声で礼を言うと、文面に戻る。


 ――手紙には、が新入社員である事。
 自分の目‥茂の目には、どう映っていたか。
 居酒屋での出来事――‥そして、の部屋で行為を成した事。
 今回の件に関する、彼から見た全てが書かれていた。
 読んでいるだけで、胸が針で刺されている気分だったが、途中で読むのを止めることはなかった。



『以上が、俺との記録だ。
といっても、俺の観点からの見方だから、に言わせると違うかもしれないが。
言いたいことはまだあるから、もう少し付き合って欲しい。
‥俺は、お前に会いに行ったよな。
あの時、確かめたかったのは‥俺の、お前に対する想いを、
このまま持っていていいのかどうかだった。
との一件があって‥俺は自分がわからなくなった。
を想う気持ちに嘘偽りはない。
だが、浮気をした。
‥そんな男が、お前を想っていていいのか。
‥‥はっきり言えば、今でもまだ模索中だ。
でも、一つだけ、一番大事だと思える事がわかった。
俺は‥‥お前を失いたくない。
あんな事して勝手だと想う。
でも、失いたくない。忘れたくない。無くしたくない。
冷静になって考えた上での、俺の結論だ。
俺は、お前を愛してる。他の誰でもない、を。
との事を許してくれとは言わないし、忘れろとも言わない。
ヨリを戻せとも言わない。ただ、一つだけ、許して欲しい。
お前を愛し続ける事だけは、許して欲しいんだ。
‥‥長くなってしまってすまん。
言いたい事は‥‥今の時点では全部書いたつもりだ。
後は、お前が決めてくれ。
返事は‥手紙でも、電話でも‥何でもいい。
気が向いたら、してくれ。

――片山茂。』



「‥‥バカ茂‥‥」
 ぽたん、と、紙の上に涙が落ちた。
 こんなのってあるだろうか。
 ”悪かった”なんて、一言も書いていないのに‥‥土下座より強烈に謝っている気がする。
 全てを包み隠さず書く事が、彼なりの謝罪。
 この手紙の文面が、全て‥‥に対しての謝罪であり、告白。
「‥‥こんなの‥ズルイ‥‥」
‥‥」
 弘樹が、泣いている彼女に苦笑いをこぼす。
 手紙の内容は知らないが、これは憎しみや絶望の涙ではないと判ったから。
 自分の気持ちを、素直に認められていないのであろうの意地っ張りが、可愛く思える。
 自身、これからどうしたいかなんて、まだ考えもついていないが、あの日以来‥‥初めて――自分から茂に会いたいと思った。
 授業が終わりを告げると同時に、はカバンを引っつかんで走り出す。
 弘樹と優美は、その姿を笑顔で見送りながら、彼女の早退を先生に伝えに行くのだった。


 休みなく進み、やっとな感じで茂の会社の前まで来た。
 ――だが、よくよく考えてみれば、会社の中に入るには‥社内の人間の許可が必要だ。
 今、は誰の許可も貰っていない。
 ‥考えていても仕方ないと、とりあえず受付に向かう。
 綺麗な受付嬢二人がお出迎え。
「あの‥‥すみません、片山茂は――」
「失礼ですが、どちら様でしょう」
「あ、ハイ。片山の姪の、片山です」
「はい、少々お待ちください」
 電話で、上の階と連絡してくれるお姉さん。
 ‥‥美人さんだ。
 男の人から言えば、四ヶ月も彼女なしのフリー状態で”浮気”するな、というのが無理な話なのかもしれない。
 こんな極玉揃いの会社なら、特に。
 ‥だからって、浮気を認める気も、許す気も、全くなかったが。
「すみません、片山はただいま会議中でして‥。お待ち頂いても、かなりの時間を要するかと」
「‥どうしよ」
「―あれ?ちゃん??」
 耳慣れた声に振り向くと、そこには相棒の啓介の姿があった。


「早退までして、会いに来たんだ‥。シゲさん喜ぶよ。‥ってもなぁ、会議中じゃあ、ちょっと‥‥」
 啓介に連れられ、休憩室でコーヒーを飲む。
 休み時間外とあってか、室内はがらんとしていた。
 話をするには、都合がいいかもしれないが。
「叔父さん、なんだか無理してるって聞いたんですけど‥」
「ん、ああ。何だか取り憑かれたみたいに仕事してる。まあ、今の所倒れたりはしてないけどね」
「‥会議って、何時ぐらいに終わります?」
 啓介は時計を見て、時間を計る。
「そうだね‥昼過ぎすぐに入ったから――‥後、二、三時間って所かな」
「そんなにかかるモンなんですか?」
「企画の内容によるけど、いくつかまとめてやってると思うんだ、今回のは」
 三時間程度なら、待っていられなくはない。
 邪魔かもしれないけれど‥茂に会って、手紙の事を聞きたい。
 学校の授業を数時間放棄して、犠牲にしているのだ。
 これで会えないと、単なるサボリになる。
 ――会えても、サボリには違いないのだが。
「‥‥ここで待ってても平気ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。シゲさんには、ちゃんといる事を伝えるから。
 俺も、これから同じ会議室に入るしね」
 呼び出しは、残念ながら出来ないのだそうだ。
 途中で茂を呼び出すと、そこで会議が中断してしまうため、呼び出し不可。
 啓介はサンプルデータを取りに外へ出て、戻ってきた所に、丁度がいた。
 タイミングがよかったと言える。
「じゃあ、お願いします」
「それじゃ、また後でね」
 荷物を抱え、立ち去る啓介。
 その姿を見送った後、は茂に会って何を言おうか考え始めた。
 休憩室のソファーに腰を据え、コーヒーを口に運ぶ。
 衝動的に会いに来てしまった部分が強く、頭の中はまるで整理されていない。
 考えてみても、上手く言葉がまとまらないし。
 途中から、考えても無駄だという結論に辿り着き、窓から外を眺めていた。
 ――暇だ。
 こんな事なら、学校の授業を全て受け終えてからでもよかったかも‥と考えていた時――不意に、人が入ってくる気配があった。
 何となく、痛い気配。
 は、ゆっくりその人を見る。
「あら、貴方‥‥」
「‥どうも」
 が、入り口に立っていた。


 は、ソファーに座っていた。
 の方はどうも気圧され気味だったが、の方は、どこから湧いて来るのか教えてもらいたい位、自信たっぷりな態度。
 ――しばしの沈黙。
 を見ていた。
 ‥とても‥‥とても綺麗な人だと思う。
 自分とは全然違う‥違って当たり前なのだけれど、その”当たり前”が痛い。
 大人の女性。
 茂とも釣り合うだろう。
 自分を卑下しているつもりはないが、大人の彼女から見れば、どこをどう見ても子供でしかないと、は思う。
「‥茂に、会いに来たのね」
 名前を呼び捨てにするに、ピクンと反応するが‥‥は静かに頷いた。
「‥‥そう」
「あの‥‥聞いていいですか?」
「何?」
 は、笑顔で対応する。
 その余裕が、少し腹立たしい。
「‥叔父さんのどこが、そんなに好きなんですか?」
「全部よ。性格も、体も、全部」
「‥‥」
「貴方は?一応彼女張ってるんだから、勿論全部よね」
 一応、なんて、ご丁寧に付け加えてくれる。
 ――いい性格だ。
 敵の前では本性を現す、といったところか。
 答えを求める彼女に、は少し考えてから返事を返した。
「‥私は‥、私は少なくとも、全部が好きとは‥‥言えません」
「あら、どうして?」
「叔父のいろんな姿、見てますし‥。全部って言ったら、嘘になるから‥‥」
「‥ふぅん、あなた、彼女失格なんじゃない?」
 笑いながら言う彼女。
 まるで憎んでいるような対応だが‥その通りだったりする。
 がいるから、上手くいかないのだと思っていた。
 にとっては、邪魔な人間なのだ、は。
「貴方がいない間、彼、私の事凄く大切にしてくれたわ」
「――大切って‥‥」
 恐る恐る聞く。
 聞かなくてもいい事なのに、それでも聞こうとするのは‥、気になるから以上に、己の心の葛藤と戦う為でもあった。
 は、嬉しそうに話を続ける。
「‥彼ね、あの部屋で何度も抱いてくれたのよ。凄く優しくて激しくて‥気持ちよかった」
「―――うそ」
「嘘じゃないわよ。私、もう茂なしじゃ生きられない体だもの」
 ――嘘だと、思っている。
 思っているのに――‥やはり辛い。
 全てが嘘だという確証もない。
 二ヶ月の間に何があったかなんて‥‥本人達以外には測れない物だ。
 あの時と‥浮気された時と同じように。
 ‥嘘だと思いたい。
 あの手紙をくれた彼が、帰って来てまた浮気だなんて‥‥。
 もし本当なら、今度は落ち込んでもあっさり浮上してしまうだろう。
 茂、という存在を、己の中から断ち切って。
 ‥‥全てを忘れて、捨てて。
「ねぇ、悪い事言わないから、彼から離れなさいよ」
「‥それは、‥出来ません」
「どうして?貴方まだ若いんだし、すぐに新しい彼氏が出来るわよ」
 判ったような口を利く。
 が考えている程、茂との仲は浅くはない。
 普通の恋愛と言われているものを、彼女はたくさん‥かどうかは判らないが、経験して来ているのだろう。
 一つが終わっても、また新しく始めればいい。
 落ち込みはするが、引きずったりしない。
 そういう‥強い人なのだろう。
 とは違う意味で、強い人。
「‥さんは、今まで何人とお付き合いを?」
「そうね、茂を除けば‥五人かしら。茂以上の人はいなかったけど。――そう言う貴方は?」
「‥私は、一人だけ。叔父さんだけ、です」
 かっこいいと思う人はいても、誰から告白されても、どうしても駄目。
 自分が真剣に、その人を好きになれないと判っている。
 そんな中途半端な気持ちでは、相手に失礼だとよく判っているから‥。
 だから、茂以外とは付き合えない。
 ‥‥全てが終わってしまったら、その限りではないが。
「‥随分重いのね。公には言えない仲みたいだけど、それでも付き合うなんて。茂も今まで辛かったでしょうね」
「”大丈夫だ”って‥その一言が支えだった。でも、貴方と浮気した」
 そうよ、と、何食わぬ顔で言う。
 それが、さも当たり前と言うかのように。
「‥‥さんが、少し羨ましい」
「――え‥?」
「誰を気にする事もなく、付き合えたら‥‥こんな関係じゃなかったら‥‥。あなたみたいに、自信を持てたら‥。‥なんて、言ったって仕方ないんだけど‥」
 は、初めて‥‥涙を流さずに泣く人間を見た気がした。
 そんなを見ても、引く事は出来なかったけれど。
 なりに、本気で茂を愛していたから。

 が去って、どれほど経ったろう。
 段々空も暗くなってきた。
 一度帰ろうか考えていて‥、不意に声をかけられる。
 待っていた人の、声。
「‥‥叔父さん‥‥」
‥‥」
 茂は泣き出しそうな顔で、を見る。
 抱きしめたい衝動に駆られるが、それは出来なかった。
 下手をすれば、社の人間に見られてしまう。
 ‥は、微笑まない。
「‥‥ただいま」
「‥お帰り。戻って‥‥来る気に?」
 ”違う”と答える彼女に、茂は項垂れる。
「‥さっき、叔父さんを待ってる間に、さんと‥‥話、した」
「‥‥‥‥」
「ねぇ叔父さん、さんを‥また‥抱いたの?」
 その発言に茂がうろたえた。
 だが、それはバレてしまったからうろたえた訳ではなく、何を言っているのか判らないから、うろたえたのだ。
「何、言ってるんだ‥?誓って、してない。本当だ」
「‥‥」
のヤツ‥、俺は本当に‥‥!」
「‥‥うん、それだけ聞けば‥‥充分。あのね、私手紙読んだの」
 茂は、不安そうな表情で彼女の次の言葉を待つ。
 何を言われるのかが判らなくて、怖くもあった。
「‥叔父さんの気持ちは‥ちゃんと、届いたから。手紙だけで‥‥ちゃんと」
「‥‥俺は、お前を愛していて‥‥いいのか? もう、お前から”さよなら”を言われてるのに――」
 はその発言に、苦笑いをこぼした。
 まあ、意味は違えど茂にしてみたら決別同然だったかもしれないが。
「あの時、さよならって言ったのは‥‥叔父さんが、さんを想ってると思ってたから、そう言ったの。罪悪感で、追って来たのかなって。‥だから、‥お別れのキスのつもりで、別れ際にキス、ねだった」
‥」
「‥まだ、悩んでる。本当はどれが一番いいのか、判らなくて」
 また、前のように付き合うのがいいのか、すっぱり諦めるべきか。
 を悩ませるのは、己の立場。
 自分は、茂の立場を危うくする危険因子である事を自覚しているからこそ、悩んでいる。
 ”浮気”出来る程の女性がいるから――考えてしまう。
「‥‥、これを渡しておく」
「――これ‥‥」
 手渡されたのは‥‥あの指輪。
 茂に返した、婚約指輪だった。
 今、自分はこれを受け取る資格はない――、だが、彼は首を横に振る。
 「明日、もう一度ここに指輪を持ってきてくれ。
 ‥‥俺と別れるなら、そのとき指輪をつき返せ。
 ‥‥やり直してくれるのなら、俺の前で指輪をつけて欲しい。それで、はっきりさせよう」
「―うん、判った」



 もう一度。
 そう望むのは 願うのは とても罪な事だけど。
 求める心は罪さえ超えて。

 最後かもしれない。
 その日は やって来る。


残り一話(予定(爆))
今回凄く長くなってしまいました、申し訳ない。
‥‥配分悪いんです、自分;;
あまりに長かったので、叔父さんの手紙のさんに関する部分を
少しばかりはしょりました。‥‥それでもこの長さ。
やっとこ次回完結。
もう少し、お付き合いくださいませ〜。
‥しかし、こんなに周りから心配されて思われてるカップルってのも
凄く珍しい‥‥気がする(笑)

2002・3・4

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