凍るダイヤ 5




 手にするは 銀を放つ環。
 永遠の誓いの意味を持つそれは、誓いの依代となる前に 手を離れて行く。

 目が覚めたら全部嘘で、全てがいつも通りで、何の変わりもなくて……。
 そうだったら、どんなにいいだろう。


 いつも起きる時間より、少し早めに目が覚めた。
 散々泣いたせいか、目が少しばかり腫れぼったく、重たい気もするが、腫れている訳ではないようだ。
 は眠っている優美を一瞥すると、カーテンを少し開けて外を見た。
 太陽はいつも通り、なんの変わりもなく昇っているが、の心は暗く冷たく、自分がいつも通りではない事を物語る。
 数時間もすれば、またステイ先へ戻る事になっていた。

 荷物らしい荷物もないので、用意はすぐに終わった。
 空港に着くと、は搭乗口を確認する。
 搭乗時間はまだ先なので、待合室で時間を潰す。
「優美ちゃん、色々迷惑かけてごめんね」
「なに言ってるの、友達じゃない!」
 屈託なく笑う優美に、本当に心からの感謝をする。
 もし、彼女と会わなければ、は野宿していた事だろう。
ちゃん‥‥一つだけ、聞かせてくれる?」
 物凄く遠慮がちに聞く優美に、こくりと頷く
 優美は、真剣な眼差しを彼女に向けて聞いた。
「…戻って、来るわよね?」
「―――っ!」
 不意に投げかけられたその質問に、はすぐに返事をする事ができない。
 ステイの期間が終われば、戻ってくる‥‥つもりでいた。
 前までは、昨日までは。
 ――では、今は?
「優美ちゃん、私‥‥」
 その答えを言おうとした時、優美が何かに気付く。
 もその方向を見ると‥‥驚いた事に、弘樹がいた。
 弘樹は二人を見つけると、一直線に向かってくる。
 優美はいきなり現れた弘樹に驚きもせず、軽く挨拶を交わした。
「おはよう、弘樹君」
「おはよう優美ちゃん‥‥
「オハヨウ‥‥」
 驚きに、目をぱちくりさせるを見て、優美と弘樹が苦笑いした。
 は知らなかったのだが、優美はが眠りに落ちてから、弘樹にメールで空港に着くであろう時間を教えていたのである。
 暫くの間、三人の間に沈黙が流れた。
 何をどう言えばいいのか、分からなかった為だ。
 それを破ったのは、弘樹だった。
、何があったのか知らないけど‥‥茂叔父さん、苦しんでる」
 がその名前に反応する。
 今、一番聞きたくない人の名なのに、それでも心は正直らしい。
 どこかで彼が好きだと叫ぶ自分がいて、は思わず苦笑いした。
「‥‥茂叔父さん‥なんか言ってた?」
「‥と、喧嘩したって‥‥」
 成る程、やはり本当の事は言えなかったと見える、と‥困ったような笑顔を浮かべる。
「‥そ、性質の悪い喧嘩。だから、頭冷やすの。私も、叔父さんも。‥それが、多分一番いい事だから‥‥」
‥‥」
 アナウンスが流れる。
 は荷物を持って立ち上がった。
 ‥出発時刻だ。
 弘樹と優美も、搭乗ゲートの近くまで見送る事にした。
「‥それじゃあ、二人とも元気で‥」
「またね」
、メール出せよ?」
「分かってる。‥‥あ、それと‥‥渡して欲しい物、あるんだ」
 は弘樹に右手を出させると、自分の薬指にはまっていた指輪‥・茂から貰った、あの指輪を、彼の手の上に置いた。
 弘樹の手の平の上で、その光はなおも力を失わないかのように美しい。
 驚きに目を見開き、を見る弘樹と優美。
 二人が言葉を発する前に、の方が口を開く。
「これ、叔父さんに返しておいて。‥私が貰うべき物じゃ‥‥ない、から」
「そんな事‥‥!!」
「そうよちゃんっ!!片山さんにも、きっと何か理由が――」
 必死に弁解しようとするが、は首を横に振るばかり。
「‥‥これは、私が持つべき物じゃないの、お願いね」
 有無を言わせない言葉に、弘樹はただ頷くしかなかった。
「‥分かったよ」

 そうして指輪を残し、はこの地から離れた‥‥。
 これで、二度目になる、茂との――決別。



 が去った後、己の手にある指輪をじっと見ながら、弘樹は茂に対して怒りが湧き起こるのを、止められずにいた。
 優美と一緒に帰りながら、何と言ってやろうか考える。
 優美や沙夜香、啓介の話で、と茂の間に入った亀裂の原因はなんとなく分かった。
 だからこそ、余計に腹が立つ。
 ただの喧嘩‥・それだけで、がこんな‥・貰った時凄く嬉しそうに話していた指輪を手放すとは思えない。
 だとすれば――。
 指輪を握り締め、弘樹は茂のいる自宅へと急いで帰った。


「叔父さんに渡す物があるんだ」
 帰り着くなり、弘樹は茂に指輪を突きつけた。
 渡された物に、目を丸くして驚く茂。
「これ‥・は‥・にやった――‥・」
「そうだよ、が持ってた指輪だ」
 どういう意味か判るよな?と、目だけで訴えた。
 茂は弘樹から受け取った指輪を握り締め、呆然としている。
 ――咽が渇く。
 上手く言葉が出てこない。確かに、自分は相応の事をした。
 けれど‥・弁解すらさせて貰えないとは思わなかった。
 理由をきちんと話せば‥・分かってもらえると、そう、思っていたから‥・。

 ―分かってもらえる?
 ――分かってもらえるような理由など、何もないくせに‥・。

 弘樹の突き刺すような視線を受けながら、茂は唇を噛み締めた。
 この指輪は‥・決別の証。
 こんな小さな指輪なのに、まるで大きな鉛でも持っているかのように、ズシリと重い。
「‥・ただの喧嘩で、こんなの渡すかよ‥・」
「‥・そうだな」
 低く、しぼり出すような声で、弘樹に返事を返す。
 詳しく話せと噛み付いてくるが、とてもそんな気分にはなれなかった。
 翌日、必ず話すと約束して、引き下がってもらう。
 なんだか一気に疲れてしまい、すぐに自室に引っ込むと、倒れるようにしてベッドに寝転んだ。
 確かに自分は疲れているはずなのに、眠れない。
 指輪は前と変わらず、美しい光を称えている。
「‥・俺は‥・一体‥・」
 何をしているんだろう。
 大切な人を傷つけて、知れば深い傷を与える事を知っていて‥・。
 そこまでして、何を得ようとしたのだろう。
 に、何を求めたのか。
 結局、何も得られない事は知っていたのに。
‥・」
 指輪を買う為に、恥ずかしいながらも宝石店へ入った事。
 ファーストフードで告白した事――‥・色々頭を駆け巡る。
 会えなくて辛かったとはいえ、自分はと会えない寂しさを、他の女性で埋めた。
 何を弁解しようと言うのだろうか。
 何を弁解できると‥・?
 酔っていた?‥・言い訳にすらならない。
‥・‥・!」
 涙が零れた。シーツが涙を吸い取り、冷たくなる。
 泣くべきは、自分ではないと知りつつも‥止められなかった。
 小さく、最愛の者の名を呼び続ける。
 その声に答える者は、誰もいない‥・‥。



 翌日夕方、茂は弘樹に呼ばれ、約束通り彼に全てを話すべく、リビングに足を運んで驚いた。
 そこには、弘樹だけでなく――啓介や聖、優美までいたからだ。
「皆、に何があったか聞きたいって言うから‥。―いいよね、別に」
 弘樹の言葉には、否定させない強さがあった。
 茂は覚悟を決め、頷いた‥・。


 事の成り行きを簡略化し、かといって長すぎもしない程度に縮めて話して聞かせた。
 全てを話し終えた後、一番最初に吼えたのは弘樹だった。
 啓介も相当言いたい事はあったが、自分もある意味では責任がある。
 茂を一方的に責められる立場ではなかった。
 しかし、弘樹は違う。
 茂も啓介も、聖や優美も‥・弘樹のあまりの怒りに驚いた。
「‥・叔父さんは‥・何も分かってないんだ‥」
 小さく震える体は、怒りの表れ。
 弘樹は茂を睨みつける。
「本当に辛くて、寂しかったのは誰だよ!一人で知らない所で、知らない人たちと暮らすの方じゃないか!今回が帰ってきたからこうなったけど―‥・もし‥・」
 弘樹は一度言葉を切り、言い含めるように告げる。
「もし‥・帰ってこなくて、見られてなかったら‥・叔父さんは、”悪かった”と思いながらを騙し続けたのか?自分が罪を背負えばいい、なんて被害者思考で――」
 ――何も言い返せない。
 被害者になるつもりはなかったが‥・弘樹の言葉は当たっていたから。
 頭のどこかで、知られなければいいという甘えと、許してもらえるかもしれないという甘えがあった。
 それは、どちらも粉々に砕けたけれど。
「俺にも‥・責任はあるよ、弘樹君‥・」
 啓介は申し訳なさそうに言った。
 しかし、弘樹は首を横に振る。
「きっかけはどうであれ―‥・選んだのは、叔父さんだ」
 その場にいる茂を除く三人が、その発言に少なからず驚いた。
 と、同じ言葉。
 選んだのは叔父なのだと‥彼女もまた、そう告げた。
 弘樹は本当に、に近しい者だと改めて思う。
 幼馴染として、家族として、いつもを支え、支えられてきた弘樹だからこそ分かる、彼女の痛み、苦しみ―。
が‥・どんな思いで僕に指輪を預けたと思ってるんだよ‥・」
「‥・」
「どんな思いで、叔父さんとそのとかいう女の人の事見たと思ってるんだよ!!」
「弘樹君‥・」
 優美が、心配そうに弘樹を見つめる。
 弘樹は目を瞑り、涙をこらえていた。
 握り締めたその手が、震えている。
「耐え切れないと思うなら、最初から遠くへ行かせるべきじゃなかったんだ! こんな早くに浮気するぐらいなら、最初から指輪なんか渡さなきゃよかったんだよ! ただの保護者でいればよかったんだ!!」
 本気の言葉が、茂に突き刺さる。
 酷い言葉だが、嘘ではないし‥・弘樹なりの本心である事は、周りの人間にも見て取れた。
「‥・弘樹‥・すまん‥・」
 これはエゴだと分かっていながら、茂は涙をこぼした。
 のために泣いているのではなく、自分のために泣く行為。
 音もなく涙する茂に、啓介はそっと溜息をついた。
 こんなに弱い、片山茂は今まで見た事がない。
 ――と、突然、今まで言葉を発しなかった聖が静かに口を開いた。
「‥・あいつは‥あいつはあんたの行動で、酷く精神的に不安定になってる。俺達医者では治せない。‥・‥・あんたが、何とかしてやれ」
 聖は、口唇を噛み締めた。
 どうして、あれ程までにに思われている人物が、自分ではないのだろうと。
 歯がゆくて、たまらない。
 今、手元に彼女が在れば、抱きしめて自分の物にしてしまいとさえ、思う。
「叔父さま‥・一つだけ、聞かせてもらえますか?」
 優美が茂に語りかける。
 一つ頷いたのを確認すると、彼女は口を開いた。
「‥・叔父さまを思ってくれる女性がいる今でも‥・ちゃんを、想っていますか?」
「―勿論。はいつだって、俺の大事な娘で‥・女だ」
 その返事に、優美はホッとした表情を浮かべた。
 啓介は、その言葉を聞いて、意を決したかのように茂に進言する。
「シゲさん、実はさ、ちゃんのステイ先の近くの仕事があるんだ。‥担当を無理矢理シゲさんにしてもらったんだけど‥行くかい?」
「五十嵐‥・」
 せめてもの罪滅ぼし、と、苦笑いをこぼした。
 茂は素直に礼を告げると、弘樹に向かい直る。
「弘樹」
「‥・なんだよ」
「――すまなかった」
 深々と甥に頭を下げる。
「‥お前の大事な幼馴染を傷つけた―‥・悪かった」
「‥・まったく‥」
 啓介は、茂に仕事の出発日を伝えると、肩の力を抜く。
 弘樹は気分を変えようと、コーヒーをいれにキッチンの方へ足を運ぶ。
 聖は、仕事があるとそのまま帰り、優美は弘樹の手伝いをしている。
 涙を拭く茂に、啓介は苦笑いをこぼした。
「しっかりした甥っ子だね」
「‥・そうだな‥、救われるよ」
「‥・はい、コーヒー」
 煎れ立てのコーヒーを配り、弘樹も腰を落ち着ける。
 しばしの沈黙。
 コーヒーの温もりがこんなにありがたいものだと思ったのは、四人とも初めてだった。
「叔父さん、はきっと―」
 弘樹が全てを言い終わる前に、チャイムの音で会話が中断。
 溜息をつきながら弘樹が玄関口に出ると‥驚いた事に、例の女性が立っていた。
「あの、茂さんは――」
「‥・叔父さん、お客さんだよ!」
 腹を立てていることを隠しもせずに、弘樹は茂を呼んだ。
 彼も驚いた。
 だが、当のはそんな事を構いもせず、茂に話し掛ける。
「茂さん、あの‥・」
 多分、期待して来たのだろう。
 泊まって行け、とか、とにかく自分に有益な事を言われるのを。
 彼女らしきはいないし、何より一度関係を睦んでいるし。
 だが、茂はそんな彼女の期待を打ち破った。
、俺はお前と‥・付き合えない」
「‥・どうして‥・私と貴方は―!」
「俺は‥命をかけられる女を知ってる。それはお前じゃない。‥・頼む、帰ってくれ」
 は、諦めきれなさ気な顔をしながら、それでも素直に去った。
 茂の強い決意の灯る視線に、負けてしまったから。
 実際は、まだ諦め切れてはいないのだろうけど‥。

「ところで、さっき何を言おうとしたんだ?」
「あ、うん」
 弘樹に続きを求めると、彼は悲しそうに目を伏せながら言った。
に‥・自分を要らない子だと、思わせないで欲しい」
「‥・要らない?」
「‥・うん」
 は茂に手を差し伸べてもらった事により、己の存在をより強く保っている節がある。
 幼い頃は父としての手を、大きくなってからは恋人としての手を与えられているから、自分を必要としてくれる人がいるから、頑張っていられるのだ。
 どんなに弘樹や啓介、仲間がを必要だと言っても、茂にはかなわない。
 その茂に手を放されるという事は、にとって、”お前は要らない”と宣言されたようなもの。
 茂には弘樹の言う意味がよくは分からなかったが、が要らない子であるはずはない。
 少なくとも自分にとっては必要不可欠で、重要な人間。
 茂は、素直に頷いた。
 ――深く傷つけてしまったけれど‥・それでも、まだ少しでも自分を想っていてくれるのなら‥やり直したいと思う。
 決意を灯したその目を見て、弘樹は微笑んだ。
 自分の叔父はまだ、大丈夫だと確信して――。

 三日後、茂はの住む街へと向かった。



 ――強く、とても強く会いたいと願う。
 それは、とても我侭な事だけど。
 それでも‥会いたいと、願う。





五話目です‥・長!!(汗)
まだ中盤中程って所で‥;;
これから叔父さん、さんの下宿先へ乗り込みます。
叔父さんまだまだ試練連続状態。
なんとかgoodEDになるよう、頑張ります〜。
今回、一番書いてて楽しかった部分は、弘樹のお怒りシーン(笑)
叔父さんバシバシに責めてくる彼が好きです、はい。
影守さんに責めさせるのも考えたんですが、どうも毒舌とは違う形の、純粋なお怒りだったんで、
弘樹君に役が回りましたが‥・自分的には案外適役でした。
いい加減本気で長いんですが、まだ続いてしまいます‥;;
とりあえず、ここでストック切れているで、また少し時間がかかるかと思いますが…
お付き合いくださると嬉しいです。(って、毎回言ってないか?)



2002・1・16

ブラウザback