歪み 崩れ 歪み 砕ける。
 世界が割れる。
 絶望が 優しくその身を包み 囁いた。


 アナタハ ナニヲ ミタ?





凍るダイヤ 3





 『見てはならないもの』を見た。
 …そんな、感じ。
 半裸で、知らない女性と寝ている茂。
 乱れ飛んで、床に散らばる衣服。
 よりにもよって、そこは自分の部屋で、二人が寝ているのは自分のベッドの上で――。

 足が、動かない。
 頭が上手く回らないのに、芯だけはハッキリしていて。
 戸籍騒動の時も相当ショックを受けただが、コレはショックの枠をゆうに超えている。
 思考を止めたら、後は崩れ落ちるだけだ。
 なにが起こっているのか考えろと頭は言うけれど、霧がかかって上手くまとまらない。
 なにかの苦しみを感じているのに、なにが苦しいのかも分からない。
 じわり、と、手が汗をかいているのだけは、頭の隅で認識する。
 は入り口に立ち尽くしたまま、女性の方を見た。
 その女性は、気配に気付いたのかのっそり起き上がり、を見る。
「え…あなた…誰…?」
「……オハヨウ、ゴザイマス…」
 なに挨拶してるの私、と思いながらも、は他にどう言っていいものやら、言葉が見つからない。
 女性は慌てて上着をまとった。
 下の方でごそごそしている辺り、下着をつけているのだろう。
 この状況で導き出せるものは、一つだと思う。
 誰が、どう見ても。
 そう、たった一つ。

 ――茂とこの女性に、そういう関係がある

 十人いたら十人、そう思うはず。
 ……二ヶ月の間に、色々あったらしい。
 ……色々。
「あ、あの…?」
 女性が不安そうに聞いてくるが、は答える気になれず、部屋の中に入らないままドアを閉めた。
 戸を背にして、立ち尽くす。

 泣けばいいのに、泣き喚いて茂を起こせばいいのに…とてもそんな、メロドラマみたいな事できそうにない。
 理由もなにも、いらない気がした。
 いつか、こういう日が来るかもしれないと…思っていたのかもしれない。
 それでも、ショックはショックで――。
 頭の回線が何本か一編に切れたよう。

 中で物音がして、女性が慌てて茂を起こしたのが分かった。
 次いで、開かれるドア。
 扉を挟んで、茂とが対峙する。
 慌てて着たであろう服は、見事に乱れていた。
 信じられないものでも見るかのような…茂の目。
 …それはそうだろう。
 本来ならもっと先に帰ってくる人間が、この場にいるのだから。
…お前…なん……で……」
 かすれた声。
 久しぶりに聞けた好きな人の声も、今は悲しみを増発させるだけの代物。
「中間報告っていうヤツで、戻ってきたの。…それで…」
 告げたの声は、驚くほどに普通だった。
 いつも通りの、
 なにも見ていないかのよう。
「違…これは…っ…」
 なにが違うのかと問い正してやりたかった。
 しかし、意に反しては笑顔を彼に向けていた。
、話を――」
 なにも聞きたくない。
 茂の言葉を遮るように、言葉を吐き出す。
「ごめんね、邪魔した。もう行くから」
「おい…っ」
 茂がの手を掴もうとするが、彼女はその手を振り払った。
 同情なんて不必要。
 自分は大丈夫なのだという、印。
 なにもかも、全てが元に戻るだけなのだと、は自分に言い聞かせる。
 玄関へ向かうと、まだドアの前で呆然としている茂に向かって微笑みかけた。
 …先程とは違い、少し泣きそうになっているのが自分でも分かる。
 辛さを隠すようにして、精一杯明るい声を出した。
「また、向こうに戻るから。……私の部屋なら、勝手に使って。叔父さんが世帯主なワケだし、それに――」
 が言葉を切った。
 奇妙な沈黙の後に吐き出された言葉は、とても明るくて、とても悲しそうで…。
「……それ、に…もう、私の部屋じゃ……ないみたい…だから」
!?」
 出て行こうとするを行かせまいと、茂が再度彼女の手を掴む。
 ――が。
「っ…!!」
 バチッと、音がして、掴んだ手は弾かれた。
 覚醒者特有の能力を、が使ったためだ。
 彼女はそのまま茂に微笑む事もなく、まして振り返りもせずにその場を立ち去った。


 が去った後、茂は自分がなにをしたのか必死に思い出そうとしていた。
 記憶が曖昧だったが、なんとか断片的に思い出していく。
 酒を飲みに行き、に送ってもらい―…。
「おい、!」
「はい…?」
「俺は…俺はお前と……?」
 そこまで言うと、は頬を赤らめ頷いた。
 ―――なんてことだ。
 のいない寂しさを他の女性で埋める気など更々なかったが…茂は一つだけ、覚えていた。
 に“名前で呼んで”と懇願され、彼女の名をその最中に囁いた事を。
 ではない名を、己のこの口が発した。
 ではない女と、睦んだ。
 この上ない裏切り。
を…探さないと…!!」
 慌てて、出て行ったを追おうとするが、に阻まれる。
 茂の腕にすがりつき、離そうとしない。
「茂!私の傍にいて…っ!」
「離せ!俺はを……クソッ!」
「あっ!!!」
 茂は、を振りほどくと、を探すために走り出した。


 一方のは、飛行機のチケットが翌日付なので帰るに帰れず街をぶらぶら歩いていた。
(……なんかもう…どうでもいいや…)
 投げやりな気分のまま繁華街を歩き回り、お昼頃になった頃、メトロ駅近くの柵に座ってボーッとしていた。
 翌日まで野宿するか、それとも誰かに世話になるか考える。
 片山家に戻る気はない。
 かといって、本気で野宿をするのも考えものだ。
「…あれ、ちゃん?」
「優美…ちゃん」
 後ろからかかった声に振り向くと、優美がいた。
 久しぶりの再会なのに、余り喜べない自分を嘆く。
 優美はに近寄ると、嬉しそうに手を取り微笑んだ。
「どうしたの!?もうステイは終わって……?」
「ううん、中間報告とかいうので一時帰宅。明日にはまた出るの」
「そうなんだ…。…ねぇ、なにか…あった…?」
「‥‥‥どうして?」
 苦笑いしながら、に答える。
 ――だって、泣きそうだから、と。


 優美は、余りにらしくないので心配になり、片山家に一度帰るように勧めた。
 しかしそれに対し、彼女ははっきりと拒絶を示していて‥‥。
 明日帰るのに、片山家に帰らないと野宿になる可能性もあったため、優美はを自分の家に連れて行く事に決めた。
「あ、優美ちゃん、ちょっと学校寄っていってもいーかな‥‥先生にハンコ貰わないといけないの」
「うん、じゃぁ行こっか」
「ごめんね‥‥」
 謝るに、どうして謝るの?と笑ってみても、彼女は苦笑いをこぼすばかり。
 必死に、なにかから耐えているように見えた。

「ああ、片山さん、久しぶりね!」
「こんにちは先生、書類にハンコ貰いにきました」
「‥‥どうしたの‥?なにか―――」
 一生懸命笑っているつもりなのに、やはり分かってしまうものらしい。
 は小さく溜息をつき、気分をなんとか持ち上げる。
「なんにもないですって。少し疲れてるだけですから」
 優美はなにも言わない――いや、言えなかった。
 痛々しいまでのその姿に、沙夜香もそれ以上聞くのをやめる。
「そう?‥‥はい、ハンコ。あと半分、頑張ってね」
「先生が驚くぐらい、英語ペラペラになって帰ってきますね!」
「その意気よ!‥あ、そうだわ。折角久々なんだから、なにか食べに行きましょう」
 勿論先生のおごりで、といいウィンクする沙夜香。
 二人は素直にその好意に甘える事にした。

 正門まで歩いてきた時――‥は息を呑んだ。
 横にいる二人にも伝わる程、動揺している。
 門にいた人物は、の姿を見るとゆっくり近寄ってきて――‥の正面に立った。
 勝ち誇ったような表情を浮かべて。
 沙夜香と優美は、なにがなにやらさっぱり分からない。
ちゃん、この方は‥?」
「‥‥‥なにか?」
 優美に返事を返さず、前に立っている女性―――‥茂といた、あの女性に声をかけた。
「とりあえず、名前ね‥。私は。片山茂さんの、職場仲間――かしら。あなたは、ちゃん?」
 こくり、と小さく頷く
 は、ふぅん‥‥と、興味なさ気に見た。
「‥‥昨日、私とあの人の間になにがあったかは‥‥分かると思うけど‥‥ちゃんと、言っておくわね」
 は、なにも言わず聞いていた。
 自分は今、死刑宣告前の人間のようだと思える。

「私‥‥あの人に抱かれた。――あの人と、寝たの」

 は、うっとりした表情で、に大きな棘を刺した。
「それだけ、言いたかった。‥‥それじゃ、失礼しますね」
 にこやかに、人の良さそうな微笑を浮かべて‥‥彼女は去って行く。
 その背中を見て―――‥は急に、気持ちが悪くなった。
 堪えきれず、その場に膝をつく。
ちゃん!?」
「片山さん!!」
 優美と沙夜香は、慌ててに話し掛けるが―――
「真っ青だわ‥‥先生、どうしましょう‥‥っ」
 優美はの肩をつかみ、支えてやりながら沙夜香に視線を送る。
 ―が、沙夜香は携帯で誰かに電話をしているようだ。
 用件のみ伝えると、すぐに電話を切る。
「片山さん、今、啓介呼んだからね。すぐ来るから――」
 まさか、になにかあった時のためと渡されていた啓介の電話番号が、役に立つと思わなかった
 等と思いながら、沙夜香はの背をさすった。


 が運ばれたのは、聖の勤務している総合病院。
 彼は昼の休憩時間だったのだが、の惨状を見てすぐに診察を始めてくれた。
 休憩時間を邪魔されたにも関わらず、いつもの毒舌がなりを潜めている。
 ――余りにも、がボロボロに見えたからだ。
 姿ではなく、心が。
「‥‥、その体の変調は精神不安によるものだ」
「‥‥はい‥‥」
 聖は、深く溜息をつく。
 周りにいる、沙夜香、優美、啓介に目でなにがあったのかと訴えてみるも、誰も正確になにがあったか分かっていないため、答えられず首を横に振った。
、とりあえず家に――」
「イヤ!!」
 ―驚く程、はっきりとした声で拒絶を示す。
 聖ですら、目を大きくして驚いた。
「お願いです‥‥あの‥‥私がどこにいるか、知らせないで下さい――叔父さん、には‥‥」
 沙夜香が堪えきれず、に聞いた。
「さっきの――、、とかいう女性と、なにかあったの?」
「ない、です‥‥なにも――‥‥」
 小さく、それでも悲痛な、声。
 という名に反応したのは、だけではなかった。
 ――啓介だ。
 彼の頭の中に、一つの予測が出来上がる。
 ある訳ない――、あって欲しくない事。
 だが‥‥‥をここまで追い詰めるものを、彼は他に知らないし、想像もつかない。
 本当にそうなら、自分にも責任がある。
 もっと考えねばならなかったのに、軽率にし過ぎた。
 茂の、昨日の状況を考えるべきだった。
「‥‥嘘、だろ‥‥シゲさん‥‥!!」
「‥‥五十嵐さん?」
 壁に背を預けて頭を抱える啓介に、優美が疑問符を飛ばす。
 沙夜香も、聖も。
 なにか知っているなら、教えて欲しいと‥‥本気で思っている。
 を――、まして自分が少なからず好意を持つ人間を、ここまで追い詰める事を、知りたいと素直に思っていた。
ちゃん‥‥君‥‥まさか‥‥」
「啓介?なにを言って――」
 沙夜香が怪訝そうな顔をする。
 が、彼の問いに小さく頷くことで、返事と成す。
 啓介は、己がしでかした悪夢とも言えるミスに、体が氷に包まれた気がした。
 ――見た、のだ。
 おそらく彼女は、最も残酷な裏切りの形を。
 最中か、後か――‥‥どちらにせよ、よいものではない。
 がその身に受けたショックを測り知る事など、できはしないだろう。
「すまない――‥‥俺が、もっと‥ちゃんと―!!」
「‥‥大丈夫です、五十嵐さん」
 ひやり、とした声。
 その場にいる全員――、のそんな声を聞くのは初めてだった。
「‥‥選んだのは、叔父さんです。私でも五十嵐さんでもない――」
 言葉を切り、
「片山茂、なんです」
 そう吐いた。


 は優美の家に着くと、やっと少し安心した表情になった。
 ‥‥ほんの少しだけれど、安心した。
「はい、ココア」
「ありがとう‥‥」
 差し出されたココアを受け取り、一口飲む。
 意識さえ冷え切った体に、暖かさが染み入る。
「‥‥暖かい‥‥」
 大丈夫?と、問おうとした優美が固まり、言葉を失った。
――‥‥は、一生懸命笑顔を作っていたが‥‥その両の目から、涙が零れていたから。
 我慢していた涙が‥‥ココアの温かさで、歯止めをなくしてしまったようだ。
 ただ、涙を流す
 嗚咽すら漏らさない。
 優美は彼女の手をとった。
「‥‥何が‥‥あったの‥‥?全部とは言わない‥‥少しでいいから、話して欲しいな」
「優美ちゃん‥‥」
 言葉にするのは、躊躇われた。
 言えば、自分でそうなのだと認めてしまうようで。
 けれど――目をそらしても、真実は変わらない。
 それに、茂に会わないために、協力は必要だ。
 自分を納得させ、深くは話さずに優美に説明をした。
 昼前に会った、という女性が片山家にいたこと。
 ――それだけで、優美は大抵の事を想像できた。
 その女性の言葉――‥‥”抱かれた、寝た”――導き出されるものは一つだ。
「‥‥本当に‥そんな‥?」
「本当。だから‥‥明日まで、ここにいさせて。それと‥‥叔父さんが来ても‥‥」
「‥‥分かった、いない事にしておくね」
 言い辛そうにしているを察して、優美が言う。
 は明朗な友人に対し、『ありがとう』と、心から礼を言った。

 ――そうして私は、目を瞑る
 ――全てを、その目に留めぬために


まだまだ続いてしまう暗いバナシ…。
周りの人に、少しだけど叔父が原因で女主が沈んでいるとバレてしまいましたが…
命がいくつあっても足りない事態に陥りそうです(笑)
さんがいやぁーな人なのは、セオリーということで。
なるべく早いUPを心がけようと思います…えらく長いし。
しかし、今回の話は長いですね…これでも少し削ったのに。


2002・1・8

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