焔の揺らぎ 7





 絶対に大丈夫だから。
 気丈にも笑っていた彼女。
 啓介は疑わなかった。
 絶対というものは絶対であると。

 今までですら異様だったものが、更に異様な――否、異質な光景に変わる。
 ――今は晃が意識を掌握する体――から、青白い光が、線のようにそれに繋がっていた。
 生命線。
 そんな言葉を連想させる。
 確かにそれは彼女にとっての命の繋がり。
 弘樹も啓介も、教えられる事もなくそれを理解していた。

 今、沙夜香の右脇にはがいた。
 制服姿。茶色の髪。エーテル色の濃い瞳は、今は閉じられている。
 そして淡く光りながら、宙に浮かんでいた。
 膝を軽く曲げ、前傾姿勢のまま――氷の中に閉ざされていた。
 もっとも氷はエーテルで作られたものであり、害をなす意図もなく、凍死するようなものではないと晃は言う。
 ただ、彼女は地面から数十センチ浮き上がった氷の塊の中にいて、身じろぎすらしない。
 青白い生命線は、彼女の右にいる晃から氷塊の中のへと繋がっていた。
 異質な光景に見合うみたいに、周りの空気も外界から切り離されたような気配に満ちている。
 そんな中で、晃が口を開いた。
 の声ではなく、御剣晃、そのままの声で。

「絶対というものなどないのだと、知っていたかい?」

 晃がの姿で言葉を紡ぐ。
 沙夜香は黒い蛇の如きエーテルに絡められたまま、事の成り行きを黙って見守っていた。
 それは、弘樹も同じだった。
 晃は明確な意思を持って、啓介と対峙している。
 邪魔をすれば、どうなるか分かったものではなかった。
 啓介が生唾を飲み――1歩出る。
「……どういう、事だ」
「そのままの意味だよ。絶対というものなど存在しないんだよ? 五十嵐啓介。作られたもの、派生したものはいつか壊れる。人の情もまたそうだ」
 何も答えない啓介を無視して、話を先に進める晃。
「一度、沙夜香先生とは別れているように。そしてを彼女として――選んだようにね。
人の情すら壊れ、崩れるんだよ。君はそれを知っている。しかし……」
 一度息を吸い――晃は啓介を――怒りを通した目で睨んだ。
「絶対に大丈夫だといわれて、君はあっさり引き下がった。より乾沙夜香を選んだ」
「違うっ!」
「違う? ならば何故、僕はこうしてここにいる? が沙夜香先生の中に入り込んだからこそ、僕はと約束を交わし、そして表に出ている」
「それは……」
 口をつぐむ啓介。
 確かに……自分はの『大丈夫』を信じていた。
 信じすぎていた。
 そして沙夜香に再度、ヨリを戻そうといわれて、揺れてすらいる。
 畳み掛けるように晃は口を開く。
「五十嵐啓介。何事にも代償は必要なんだ。”絶対”という言葉にすら、代償がある。そして今回その代償を払った――払わされたのは、他でもないだ」
 怒りの感覚だけが、空気を静かに揺らしていた。
「前のブルージェネシスでの事件の時、破壊の代償を払った人間は大勢いる。弘樹をはじめ、弘一、清一、葵……どの人間も、払いたくて払ったのではなく『払わされた』者たちだ。
五十嵐啓介、君はどれ程の代償を払った? 乾沙夜香、君についても同様だ」
 晃の怒りは啓介に主に向けられ、そして――を苦しめる沙夜香にも向いていた。
 ぞくりとしたものが、弘樹の背筋に走る。
 晃は――タナトスは――自分のした行為をのおかげで受け止められた。
 責任を、責務を、そして罪を受け入れた。
 許しを請うタイプではない。
 彼は行動で示す。
 善きにしろ悪きにしろそうだった。
 啓介はやっとの事で反論の言葉を見つけたみたいに、ぴったりと閉じきっていた口を開いた。
「……代償なら、BGの頃に払った! タナトス! お前のために!」
「ああそうだろうね。だが……言ったろう。『払わされた者』たちと比べてみるんだね。乾沙夜香、君の兄は僕を追って殺された。五十嵐啓介、君についても同様だろう。
 …だが、片山君の失ったものを考えてみるんだね。両親、兄……そして、今度はまでも。君も僕と同じだ」
「……違う……違うっ!!」
「違わないね。君も目的のために人を犠牲にした。それのどこが違う?」
 辛らつな言葉だが、間違ってはいない。
 の表情には不似合いな、含みのある笑顔を向ける。
「さて。それはともかく……君は、を助けたいと思ってるね」
「決まってる!」
「それでは、乾沙夜香はどうかな」
「……助けたいに決まってるだろう」
 何が言いたいのか分からず、当惑する啓介。
 晃は深く深呼吸をし――啓介を直視した。
 そこに重大な何かがあるように。
「いいかい? 僕は君に『代償』を求める。……を傷つけた代償をね」
 さも当然に言ってのける。
 啓介はそれをNOと言えない。
 人質を二人取られているようなものだから。
 晃は啓介が口唇を噛み、それでも何も言わないのを見て頷き先を進める。
 「さて。ここに二人の女性がいる。どちらも君にとって大切な人だね。そして二人とも君を想っている。狂おしいほどに」
 ざわ、と弘樹の中の何かが揺れた。
 ざわめきは予感だった。
 そしてすぐさま確信に変わる。
 どんな最後を迎えようと――目を閉じてはいけないのだ。
 BGの時のように。
 晃は続ける。
「弘樹は僕の言いたいことに気づいたみたいだね。……五十嵐啓介、簡単な事だよ。君に問いかけをするだけさ」
 ――晃は、すぅ、と目を細め――そして、

「『汝が本当に必要なのは、どちらなのか』とね」

 口唇が、弧を描いた。


「……なん、だって…?」
 啓介は信じられない言葉を耳にしたと思った。
 晃は悪意のこもった瞳で啓介を見、にやにやと笑っている。
「言っただろう? どちらか一人を選ぶんだよ。『どちらか一人』だ」
「そんな事……!!」
 両方を助けたいのだ。
 どちらか一人を選べなど――!
 晃は顔から笑みを消し、戸惑う啓介を見やるとため息をつく。
「五十嵐啓介。これが君の払う『代償』だ。どちらか一人。君が望む方を選べ」
「……嫌だと言ったら?」
「その時は」
 ピシリ、とを閉じ込める氷塊に小さな亀裂が入り、沙夜香を取り巻く黒い蛇が、彼女を強く締め上げた。
「あぐっ!!」
「沙夜香!」
 くぐもった悲鳴を上げる沙夜香に、啓介が慌て始める。
 晃はつまらなそうに言った。
「残念ながら、二人とも失くす事になるだろうね。永遠に」
 ぎり、と口唇を噛む啓介。
 晃は本気だ。
 そう、これは生贄だ。
 どちらかを生かすための。
 を選べば沙夜香が消える。
 沙夜香を選べばが消える。
 啓介の心臓が、やたら激しく動き始め、嫌な汗が手のひらを濡らした。
「さぁ」
 弘樹が見守る中、の姿をした晃は両手を広げ、楽しげに笑う。
「選ぶんだ。払うべき『代償』をね」


 啓介は、二人の愛しい女の姿を見た。
 沙夜香は少々苦しげに――でも、気丈な瞳は今は伏せられていた。
 は依然として青白い光と氷塊に包まれ、一見死んでいるかに見えるが、それでも注視して見れば胸を小さく上下させているのが見て取れた。
 彼と彼女たちの間には、一定の距離があった。
 一歩進み、二歩進んだ所で――足を止める。
 どうすればいい?
 考えろ。彼女たち二人を助ける方法があるはずだ。
 必死に考えるが、そんなものありはしないと、とっくの当に分かっていた。
 沙夜香を助けるために、が眠りに落ちたときのように。
『代償』
 どちらかを――払わなければならないのだ。
 自分のせいで。
 自分の愚かな心の揺れに対しての、これは罰。
 を愛しているのに、沙夜香もそれと同じぐらいまだ想っていた。
 終わったはずの沙夜香に想いを持つ自分。
 それがこの状況を作り出した。
 決着は、己がつけなければ。

 啓介は氷塊のを見つめ――ふ、と笑った。
 愛しい人。
 泥沼の中から、救い上げてくれた人。
 その人を、どうして裏切れようか。
 一度裏切っているのに。
 また裏切る事などできやしない。
 どんな『代償』を払っても。

 ゆっくり歩み出る。
 沙夜香の目は今は開かれ、歩く啓介をじっと見つめていた。
 歩きながら、啓介は困ったように笑い――晃に告げる。
「御剣君……、俺は馬鹿な男だよ。本当に必要な事が見えていなかった。いなくなって、初めて気づくのは、以前にも経験したはずの事だったのにな…」
 静かに、でもゆっくりと歩みを進める。
 弘樹もそれを見つめていた。
「彼女の苦しみに気づかないで、悲しみに気づかないで――俺は、俺の過ちを増やしたんだ。今の俺は、自分をよく知ってる。俺は弱くて、情けなくて、優柔不断だ。……でも」
 すぅ、と息を吐き――
「でも、今をどうすればいいか、心は決まったよ」
 悲しげに、微笑んだ。
 そして。

 彼は、沙夜香を抱きしめた。

 弘樹が息を飲み、沙夜香が驚きと嬉しさのあまりにか涙をこぼし、晃が無表情に啓介を見た。
 沙夜香を包み込んでいた黒い蛇が、溶けてなくなる。
 晃が静かに言った。
「君の『代償』……確かに確認したよ」

 ピシ。

 沙夜香が啓介を抱きしめる。
 プライドの高い彼女が、涙をこぼして二度と離すまいと彼を抱きしめていた。
 この男は自分を選んでくれた。
 心の底から、そう思った。
 やり直せる。
 別れる前みたいに。

 ピシリ。

 音が、鳴る。
 を包み込んでいた氷塊のあちこちに亀裂が走っていた。
 それは中にいる彼女ごと巻き込んで。

 パァン。

 ――弾けるみたいに――割れて、崩れて、地面に落ちて、消えて――なくなった。
 何一つ。
 彼女の髪の一筋さえも。

「愛してるわ、啓介……」
「……」
「啓介……?」
 沙夜香が啓介を見上げると、彼は彼女を見ていなかった。
 愛の囁きさえ、彼の耳には届いていないようだった。
 啓介の目は――のいなくなった場所を見続けていた。
 手を離すと、彼は重々しい足取りでの消えた……一片のカケラすら残らなかった場所へと歩いて行き、そこにへたり込む。
「啓介……」
 彼の側に寄ろうとする沙夜香を、弘樹が止めた。
 何も言わず、首を横に振るだけ。
 ……沙夜香は彼から少し離れた場所で、啓介を見続けた。
 の姿を保っている晃が、俯いて座り込んでいる啓介を見やり――冷たい声を浴びせた。
「何故、打ちひしがれるんだい? 選んだのは君だ。を『代償』に、乾沙夜香を助けた」
「ああ……そうだ」
ではなく、彼女に愛を求めた。この先を歩いていきたいと思ったのが彼女だったんだろう? なのに何故、絶望する」
 啓介はゆっくりと立ち上がると、晃を見た。
 姿は彼女であっても、もはや永遠にではない事を啓介は思い知る。
 自分がその引き金を引いたのだから、笑える話だ。
「……沙夜香と共に歩いて行く……沙夜香という愛を得たいと思って……選んだんじゃない」
「え……」
 それには沙夜香が驚いた。
 だが、口を挟む間もなく啓介は続ける。
「俺は、ダメなヤツで……があんなに俺を想ってくれてたのに、何にもできなくて……」
「だったら、を選ぶべきだったろうに」
 辛らつな晃の言葉。
 啓介は首を横に振った。
が『大丈夫』だと言った。ヨリを戻せとも。でも、そんなのは無理だ。心は揺れた。それは認める……でも」
 無理矢理笑顔を作りながら――溢れてきそうな涙を押し止めながら――何とか言葉を口にする。
「晃君、君が『代償』を持ちかけてきたとき――俺は思ったんだ。もしここで俺が心のままにを選んで、沙夜香を永遠に死なせてしまったら……はきっと怒るだろうって。
 彼女が命を――体をかけてまで助けた沙夜香を、俺が踏みにじる事なんて出来ない。だから」
 沙夜香に向き直り、きっぱりと言う。
「沙夜香、俺は君とヨリを戻す事はできない。多分、この先どんな人が現れようと、俺はと一緒だから……」

 冷たい風が、彼らの間を通り抜けた。

「五十嵐啓介。君は愚かな男だね。…でも、だからこそ…は君に惹かれたのかもしれない」
「……」
「君はの望みを誰よりも理解している。
 もし君がを選んでいたら、本当の絶望だけが残っただろう。
 でも君はそうしなかった。だから僕は」
 の体が、光の渦に巻き込まれた。
 ぼんやりとした晃の声が、啓介に、弘樹に、沙夜香に届く。

『だから僕はの中で休んでいるよ。もしまたを傷つけるような事があれば……その時は』

 光が止んだ時、そこにはが立っていた。
 晃ではない、が。
「……五十嵐さん……弘樹、沙夜香先生……」
 の言葉。
 の口調。
 の目。
 全てが元のままの彼女で、晃ではなくて。
 啓介は言うべき言葉を探している間に――体の方が行動を起こしていた。
「きゃ…っ」
…………愛してる…っ…愛してる…!」
 きつく抱きしめる。
 二度と離さぬように、離れぬように願いながら。
 震える啓介を、は戸惑いながらも――抱きしめた。
「五十嵐さ……啓介……」
「すまなかった。今までの俺の全部の行動に謝る。だから……俺の恋人を続けてくれ。頼む」
 は小さく俯き――
「……はい」
 桜色の口唇から、それを紡ぎ出した。
 啓介はたまらなくなり、の口唇に己のそれを重ねた。
 何度も、何度も。息が荒くなる程に。互いに涙を零して。
 体をきつく抱きしめ、離れようとすると引き戻して。
「愛してるよ」
「啓介……私も……」
 抱き合い、口付けしあう二人を見つめ――沙夜香は小さく肩を震わせた。
 弘樹がそれを見て、おずおずと声をかける。
「沙夜香先生……」
「……いいのよ」
 沙夜香は闇が閉ざし、小さな星が瞬く空を見上げ――薄く笑い、もう一度言った。
「いいの」



 学校の正門前。
 車から降りたは、中でハンドルを握っている啓介を見た。
「それじゃ、啓介さん。帰りに寄りますから」
「ああ。もしこっちの仕事が遅くなるようだったら、携帯に連絡するよ」
 はい、と嬉しそうに笑うに、啓介はちょっと照れくさそうに微笑み――

「はい?」
「キス、しよう」
「えっ…とぉ……帰ってからじゃ、だめ?」
 頬を赤らめ、困って小首をかしげるに、啓介は苦笑いを零した。
「じゃあ、覚悟しとくように」
「何をですかぁっ。……もう。行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい」
 立ち去る啓介を見送り、は校舎に向かって歩き出した。


 の中には、晃がいる。
 今はとても彼に感謝していた。

 ねえ、御剣さん。
 私、あなたのおかげで凄く幸せになった気がする。
 啓介は前みたいに優しいけど、でもケンカしたりするし、言いたい事を言えるようになった。
 沙夜香先生はちょっとまだ落ち込んでるけど……弘樹は相変わらずだし。
 私の中の居心地はどうかな?
 大事な家族も同然なんだから、ずぅっと眠ってないで、たまにはお話しようね。
 心の中でそんな事を思いながら、前を歩く人影の中から弘樹を見つけ出して、声を掛けた。

「弘樹ー! ちょっと待ってーー!」

 日常が、また、始まる。







2004・1・30

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