焔の揺らぎ 6




 覚えているかい?
 知っているのかい?
 彼女が、彼女だという証を――。
 何を望んだかという事を――。

 片山という一人の女性が、かつて敵であった御剣晃――タナトスという意識体を体に住まわせてから、一週間が過ぎた。
 表面上、彼女は彼女として存在している。
 ただ、中身が違うだけで。

 幼馴染である片山弘樹も、覚醒者たちも、それをどうすればいいのか、分からなかった。
 の意識は、眠り続けているという。
 全てを拒むように。
 ただ、タナトスにだけ――晃にだけは、心を見せているようだった。
 同じイデアを共有するもの同士だから、かもしれないが。

 の彼氏である五十嵐啓介は、この状況を勿論好ましく思っていなかったが、『これ』 を引き起こしたのは、自分の責任でもある。
 自分が、に負担をかけていなければ――過剰な期待と、強さを意識していなければ、起こりえなかったかもしれない事象。
 他人のイデアに干渉できるのは、弘樹とだけ。
 自分は、何も出来ない。
 元恋人である、沙夜香がナイトメアに襲われた時のように。

「啓介…そんなに落ち込まないで…」
 カフェテラスのある喫茶店で、啓介は沙夜香に励まされていた。
 己の無力さに泣いたのは、今に限った事ではない。
 自分の相棒――沙夜香の兄が死んだ時、タナトスと戦った時、沙夜香がナイトメアに取り付かれた時、そして―――。
 啓介がぼんやりしながらコーヒーを飲むのを見て、沙夜香はため息をついた。
 沙夜香は、自分がの代わりになれないと重々承知していた。
 だが、自分が啓介を求めるのも事実で。
 だから、ずるいと知りつつも、彼に何度も言った。
 『私と、やりなおさない?』 と。
 自分のプライドが高いのは、自分自身がよく分かっていた。
 けれど、それ以上に啓介を――昔の彼が痛ましくて、それ故に支えたくて、欲しくて。
 それに対する彼の返答は、まだなかった。
 啓介は、幾度とない沙夜香の告白に、心を揺らしていたのは事実だった。
 だが、その答えを出すには、の存在が不可欠で。
 ……結局、どっちつかずの状態だと、彼はよく分かっていた。
 を大切に思っていて、沙夜香も大切に思っていて。
 どうしても譲れない二つのものがあったとして、どっちかを選ばなければならない場合……自分は、どうするのだろう。
 今だ、答えは出ず。

「こんな所で、何をしているんだい?」

 望む声。
 しかし、それは今、望まぬ声でもあった。
 沙夜香と啓介を蔑むように見つめるその目は、確かにのものだけれど、瞳の持つ光は決して彼女のものではないと知る。
 の隣には、何を言うつもりもないであろう弘樹がいた。
 彼女を守るためというよりも、側に在るだけという感じだ。
 啓介は少しだけ狼狽しながら、答えた。
 の体を掌握している、タナトス――御剣晃に向かって。
「……何も……。ただ、俺は……」
「『俺は、沙夜香とお茶してるだけだ』かい? いい身分だね」
 口を歪め、皮肉気に笑う。
 晃は「失礼」と軽く言うと、沙夜香と啓介の前に座った。
 弘樹も促され、着席する。
 暫しの、無言。
 それを打ち破ったのは、沙夜香だった。
ちゃん……いいえ、御剣くんかしら。彼女の体をどうするつもり」
「ふぅ……何度も同じ質問をされて何度も答えるのは面倒だね。まあいい。の体をどうするつもりかなんて、君に関係があるのかい? それに彼女の命を削る一端である君が、そんな事を気にしていても仕方がないだろう」
「な……」
 沙夜香が反論しようと口を開こうとするも、晃はそれを許さず話を続ける。
「第一、知ったところでどうにもならない。君たちは無力だ。認めていると思ったけど?」
 の口から発せられる言葉は、およそ彼女には似つかわしくなくて、
 乖離した何かが口を借りて話をしているように見えるかもしれない。
 啓介は始終、を見続けていた。
 時として口を開きかけ――しかし何も言えずにつぐむ。
 その繰り返し。
 弘樹はその態度を見ていてイライラした。
 この後に及んで、なお、どっちつかずに見える彼の態度は、幼馴染を陥れた男としてはあまりに惨めで滑稽で、情けないではないか。
 晃はテーブルに肘をつき、手を顎の下で組むと、口の端を上げた。
「さて。僕が言った通り君たちは現在、僕に対して無力だ。そこで、提案がある」
「提案?」
 訝しげな声を上げる啓介。
 晃は頷いた。
「そう、提案だ。この提案に乗ってくれたら、あるいは彼女の体を返す事が出来るかもしれないね」
 少しの間をおいて、晃は告げる。
 それは啓介にとって、試練以外の何物でもなかったし、沙夜香にとっても同義だった。

「明日、新都市の中央公園に……そうだね、午後11時に来てもらおう。弘樹と、五十嵐啓介、乾沙夜香……この三人でね」
「どうするつもりなんです? 御剣さん」
 不安そうに弘樹が問うが、彼は――の顔でにっこり笑うと、首を横に振った。
「駄目だよ弘樹。楽しみは後に取っておくものだし、この場で言って考える余地を与えたくないのでね」
 言い、立ち上がる。
 弘樹も慌てて立ち上がった。
「それじゃあ二人とも。また明日。楽しみにしているよ」
 最後まで”晃”の顔を崩さず、二人は立ち去った。


 残されれた啓介と沙夜香は、互いに神妙な顔をしていた。
「……どうするの?」
「そんなの、聞くまでもないだろう」
 行くに決まってる。
 そう、きっぱりと言い放った。
「決着をつけるんだ。……沙夜香への答えも、その時に出すよ……」


 午後11時を少し過ぎた頃。
 中央公園に、四人の姿があった。
 、弘樹、啓介、沙夜香。
 人工ではない月の光と人工の小さな電灯の光に浮かび上がるみたいに、四人はいた。
「それじゃあ、始めようか」
 の中の晃が言う。
 彼は見守る三人から少し離れると、沙夜香を手招きした。
 どうしようかと悩む沙夜香に向かって、晃がきつく言う。
「さっさとしないか。面倒をかけるなら、こちらにも考えがある」
 厳しい口調。
 普段ならそんなものに恐れをなす沙夜香ではなかったが、今の状況は異常に近いものがあった。
 の声と体。
 しかしその中身はベツモノで、それを裏付けるように彼女の浮かべている笑みは、おかしな既視感を抱かせる――今は亡き御剣晃のもので――。
 月の青白い光と、電灯の薄オレンジの光が混ざって、この場から現実味を奪い去っているかのようだ。
 恐ろしい。
 何が起こるか分からない状況が恐ろしい。
 そして、己の恋する男がその一番奥底の暗い部分に触れなければならない事が恐ろしかった。
 沙夜香はを通し、中にいる晃を見つめるつもりで睨みつけ、近寄った。
「僕の横に立つんだ。いいかい、手荒なまねはしない。ただ――」
「ただ?」
 挑戦的な視線を向ける沙夜香に、晃は微笑み、手をかざした。


「動かないでいてもらいたいだけだよ」


 言うが早いか、晃の手からエーテルが放射される。
 弘樹と啓介が助けようと足を一歩前に出すが――――
「二人とも動かないで貰いたいね。今の僕はの尽きる事のないイデアから、いくらでもエーテルを吸い出せる。それに言っただろう? 手荒なまねはしないと」
 その言葉通り、沙夜香は意識のあるまま黒い蛇のようなエーテルの固まりに絡め取られているだけだった。
 それが攻撃を繰り出してくるような様子はない。
 晃がクスクスと笑った。
「沙夜香先生、そんなに身を強張らせなくても大丈夫ですよ。”それ”は噛み付いたり攻撃したりしませんから」
「どこに保障があるのかしら」
 強がる。
 しかし、声は小さく震えていた。
 啓介が心配そうな表情で沙夜香を見ている事を知っていながら、晃は続ける。
が望まないから、攻撃しない。それだけの話だ。彼女に感謝するんだね。僕なら、”そいつ”で貴方を絞め殺してるかもしれません」
 笑顔のまま、さらりと言ってのける。
 沙夜香は唇を噛んだ。

 少し離れた所で、弘樹はその様子を注視していた。
 晃を心から信用する事は出来ないが、少なくとも、今、彼を止める事はにとってよくない事なのだと、頭の隅で理解していた。
 否、理解させられていた。
 晃は言ったのだ。
 『に危害は加えない。これからどうなるかは、あの男次第だ』と。
 それは即ち、啓介に何かしらの決断を迫る事を意味している。
 もし――万が一の事があれば。
 僕は、五十嵐さんを一生許せなくなるかもしれない。
 己自身をも。
 最悪の場合は、を倒さなくてはならなくなるかもしれない。
 弘樹は拳をつくり、きつく握り締めた。


 沙夜香が抵抗しないと見て取ると、晃は正面――要するに啓介――に向き直った。
 そして。
「弘樹、手出しは無用だよ」
 釘を刺し、目をつむる。
 の体が光に包まれた。
 青白い閃光が迸り――啓介は目をつむる。
 何秒か置き両眼を開くと、そこには

……!」

 啓介の声が、愛しい人を呼ぶ声に変わる。
 が、いた。




2004・1・24

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