焔の揺らぎ 5 は、目覚めなかった。 弘樹が何度か、彼女のイデアへ入ってなんとかしようと試みたが、入口は彼を受け入れない。 まるで障壁でも作られているような。 今までそんな事は一度もなかったのだが、とにかく入る事が出来ない。 3日経った今も彼女は目覚める事なく、沙夜香と入れ替わるように座を占めていた。 ナイトメアが彼女に巣食った事は間違いない。 けれど‥‥それを易々と受け入れてしまった彼女に、理由がない訳がないと弘樹は思っている。 静まり返った病室の中、弘樹はの横で、彼女の眠り続けるその姿を見ていた。 「‥‥大丈夫って‥‥何が大丈夫なんだよ‥‥。」 どうにもならない苛立ちと悲しみが、弘樹を包む。 そして、今この場に啓介がいないことに安堵する。 もし彼がこの場にいたら‥‥きっと、怒鳴ってしまうだろう。 が、どこまでも啓介の事を想って、想ったからこそ、この行動を取ったという事を知っていたから、だから、彼を責めたりしたら彼女が悲しむ。 弘樹は一人、目覚めないを想った。 本当は病院へ行きたい。 けれど、いける資格がない。 五十嵐啓介は、己の未熟さ加減に嫌気すらさしていた。 沙夜香の代わりにが眠りに落ち、戻って来ない。 彼女は約束を守ったのだ。命がけで。 啓介は、沙夜香が退院してから、一度も彼女の家へ行かなかった。 自宅と、かろうじて職場にだけは足を運び、それ以外は何もしない。 いや、何も出来なくて。 頭の中で不鮮明なフラッシュをたかれているみたいに、思考がクリーンにならない。 もやのかかった頭を、鮮明にしようとする気もなかった。 もし、思考が正常に動き出したら‥‥‥‥分かってしまうから。 自分が犯した、新たな大罪に。 玄関先で物音がしたかと思うと、チャイムが鳴った。 啓介はゆっくりと立ち上がり、来訪者を迎える。 「‥‥啓介‥‥」 「沙夜香‥‥」 と入れ替わりに戻って来た、元恋人の姿がそこにあった。 中へ招きいれ、コーヒーを出す。 ある意味ではボロボロの啓介の姿に、沙夜香は痛々しさを感じてしまう。 自分の甘さが、彼を、そして何よりも彼女を追い詰めて。 コーヒーを一口飲むと、口の中に香りがいっぱいに広がった。 「‥‥啓介、あなた、大丈夫?」 「ああ、別に異常はないさ」 肉体的には異常がない、という意味だろうか。 精神面については、あえて触れずにいた。 沙夜香は、自分がこんなに醜い心の持ち主だとは重いもしなかった。 ここ数日、正確にはが眠りに落ちてしまう前からではあったが、啓介と昔のように――恋人として向き合いたいと思っていて。 現恋人であるが、憎く思える程に。 そして、悩みに悩んだ末、1つの結論を出した。 それは、にとっては最悪な事。 眠っているから、こういう行動を取ろうという訳ではないのだと、自分自身を必死に誤魔化す。 結局、どうしたってやる事は一緒なのに。 「‥‥ねえ、兄さんの夢、今も見る?」 「乾さんの夢?いや‥‥」 沙夜香を守ったからなのか、ナイトメアの干渉が2人から離れたからなのか定かではないが、ともかく、が眠って以来、2人は夢を見なくなった。 安眠できる状況とは言いがたかったが、それでも以前よりは大分マシになっていて。 ‥‥少なくとも、沙夜香は、だが。 「なぁ、沙夜香」 話を切り出そうとしたところに被さる様に名を呼ばれ、沙夜香は「なに?」と少々慌てながら返事をする。 啓介は、神妙な顔をしていた。 「‥‥俺は、最低な男だな。ちゃんが――がどういう気持ちだったのかも、何にも考えないで‥‥、自分の事だけしか考えてなくて‥‥」 「啓介‥‥」 啓介は、コーヒーに一口も口をつけていなかった。 彼女は強い。 だから、大丈夫だ。 ‥‥そう思っていた自分。 彼女に任せれば、何もかもが上手くいくと思っていた自分。 過去に戻れるなら、戻って殴り飛ばしてやりたい。 自分が本当に守る対象は、沙夜香ではなかったのに‥‥。 何気ない一言が、彼女を何度打ちのめしただろう。 強いから。 沙夜香は、他に守る人がいないから。 そうやって、自分は言葉でに釘を打ち込んだ。 悲しんでいる事にも、我慢している事にも気付かないで。 考えてみれば、がここ最近、本当の笑顔を向けてくれていただろうか。 いつも困ったような、苦笑いに近い笑顔で。 知らず知らずに、何か大事な事を失くして。 そして、今、を失いかけている。 神妙な顔の啓介に、沙夜香は勇気を振り絞って、プライドをかなぐり捨てるようにして、頭の中にあった言葉を空気に投げる。 「啓介、こんな時にこんな事‥‥なんだけど」 「?」 「‥‥もし、迷惑じゃなかったら‥‥」 沙夜香の言葉が、頭を廻る。 啓介はどうしていいのか判らずに、無意識にのいる病院へと足を運んでいた。 行く資格がないとか、弘樹や茂に合わせる顔がないとか、そういう事が全部頭から吹き飛んでいる。 ゆっくりとした足取りで、の眠る部屋のドアをノックし、足を踏み入れた。 弘樹が啓介の姿を見て、驚きの視線を向ける。 怒りをあらわにしたい弘樹だったが、の手前、何となく気持ちを抑えて、啓介を中へと招き入れた。 促されるまま、の傍のイスに座る。 茂は出かけているらしい。 いたら、殴られる事請け合いだったのだが。 眠っているだけの状態なので、苦しそうでもなんでもない。 何も知らなければ、普段のがそこにいるだけだ。 きちんと綺麗にしてもらっているから、なおの事そう感じる。 「‥‥ちゃんは‥‥まだ‥‥」 「今日は、どうしたんですか」 啓介の顔を見ずに、を見つめたままで弘樹が問う。 意図があっての行動ではなかったのだが、その素振りが余計に冷たさや拒絶をかもし出している。 弘樹に、今日に会おうと思った理由を言ってしまっていいものかどうか悩んだが、結局悩みつつも、口に出してしまう。 それが、弘樹を更に怒らせることだと判っていても。 「沙夜香に‥ヨリを戻さないかと言われた。それで‥‥」 の前に立って、どうしようか、どうするべきかを考えようと思った。 そう告げる啓介が、酷い人間に思える弘樹。 彼は揺れている。 元恋人と、現恋人の間で。 そして、現恋人‥は、元恋人を救うために眠りに落ちて。 ‥‥これで、沙夜香を選んだとしたら。 は、目覚めを許されなかった眠り姫のようだ。 弘樹は啓介に視線を送る事なく、言葉を伝う。 「‥‥五十嵐さん、僕、からあなたに伝えて欲しいといわれていた事があるんです」 「伝えて欲しい事って‥」 弘樹は静かな響きの声で、淡々と言葉を言う。 すぐに伝えなければいけなかったのかもしれない事柄だったけれど、眠ってしまったを何とか呼び戻そう四苦八苦していたので、すっかり頭の隅に追いやられてしまっていた。 ‥否、言えなかったというのもある。 けれど、結局と啓介、沙夜香の問題なのだ、この事は。 これで啓介がどう動こうが、弘樹自身に変化はない。 と幼馴染であり、家族であり、彼女が大切な人である事には変わりがないのだから。 そう思うと、言ってしまってもいいような気がして、少し時間は経ってしまったが、言葉にする気になった。 あの時の、最後のの姿を思い出しながら弘樹は啓介に、彼女が啓介に伝えてくれと願った言葉を放つ。 「‥‥は、沙夜香先生とヨリを戻してくれと、言っていました」 「!?」 「‥‥僕は、伝えましたから。後は、五十嵐さんが決めてください」 すく、と立ち上がると、弘樹は「ジュースを買ってきます」と言って出て行った。 後に残された啓介は、その言葉に思考を支配されていて。 ‥‥ヨリを戻してくれと、彼女が言った? 沙夜香と自分が、再び恋人になる事を一番嫌がるのは、彼女だと思っていたのに。 もう、どうでもいいと思ったのだろか。 違う。 そう思ってくれていたのなら、答えは簡単に出る。 違う。 沙夜香と恋人になって、の事を忘れて――。 違うだろう? 「‥馬鹿だな俺は‥」 どうでもいいと思っていたのなら、そう思わせたのは自分。 そして、彼女はそんな風に思っていなかっただろう。 本当にどうでもいいと思ったのなら、沙夜香を助けたりはしなかった。 そして、弘樹にあんな言伝を頼むことなく終わって。 「‥‥ごめん‥‥」 小さく、謝る。 決して届かない声。彼女は眠ったまま。 そしてそれは、自分のせいで。 がこんな状態になって、沙夜香にヨリを戻そうと言われて、そうしてやっと、自分の愚かさに気づく。 自分が救われたのは、沙夜香の功績ではないのに。 が、泥にまみれていた自分を救い上げてくれて。 何度彼女の言葉で救われたか。 何度、その声で癒されたか。 数え切れない程の愛情を、啓介に与えてくれたのに。 それなのに自分は、彼女の心を傷つけ、失くさせた。 「‥‥沙夜香と、きちんと話をするよ。だから、目が覚めたら‥俺は、君と向き合いたいんだ‥今までより、もっと」 「‥‥‥‥それは出来ないね」 が、目を瞑ったまま、声を発した。 驚いて、立ち上がる。 彼女はゆっくりとその瞳を開き、天井を見て、周りを見て、それから啓介を見た。 目が――覚めた!? 喜びに顔をほころばせる啓介を、は一瞥する。 弘樹がなにやら慌てて室内に入ってきた。 顔が青い。 「っ‥‥‥‥‥」 「弘樹君‥‥?」 様子がおかしい弘樹に、怪訝そうに声をかける啓介。 どうしたというのだ。 折角、が目覚めたのに。 目が覚めたと言う事は――ナイトメアをが倒した、と言う事じゃないのか? しっかり意識もあるみたいだし。 けれど、その考えはの言動によって、変えざるを得なくなる。 「やぁ、片山君‥‥今は弘樹、のほうがいいかな?」 「‥‥‥」 「どうしたんだい、折角久しぶりに会えたというのに」 ベッドから降りて、点滴を鬱陶しそうに取り去ると、部屋の備え付けの鏡を見た。 髪をいじり、自分の輪郭をなぞる。 「‥‥ふふ、なんだか変な気分だ。欲しくてたまらなかった子の体だなんて」 「ひ、弘樹君‥これは‥‥彼女は、、だろう?」 弘樹は、こぶしを握り締め、を睨み付ける。 違う、という思いが全身から伝わってきた。 「‥‥を、返してください」 「御剣さん!」 ――なんだって? 「御剣‥‥晃‥?」 が、らしくない、妙に艶のある笑顔を向けた。 震える声に、押さえが利かない。 驚愕する啓介を小ばかにするような笑い。 そんなはずはない。 タナトスは弘樹とが、弘一が、この世界から失くしたはず。 悪夢がある限り、彼は作りだせるとは言っていたが‥‥の体にいる理由がない。 沙夜香を乗っ取っていたナイトメアは、普通のものだったはずだし。 けれど、今彼女を乗っ取っているのは、間違いなく‥‥タナトス。 「君が、の彼氏だったね」 啓介に近寄り、ふぅん、とつまらなそうな表情をする。 するり、と流れるように離れた。 「こんな男のどこがよかったのか‥理解に苦しむね」 「っ‥‥」 「を返してください御剣さん!!」 弘樹の怒号とも言える言葉が、――否、タナトスに突き刺さる。 一瞥すると、楽しそうに微笑んだ。 「片山君、君、がどうしているか、知りたいかな?」 「‥あ、当たり前です!」 あくまで楽しそうなタナトス。 教えてやる筋合いはない、と言いそうだったが、案外あっさりと核心に触れた。 「彼女はね、イデアで元気にしてるよ。僕と一緒にね」 「嘘だ!の意識がしっかりしてるなら、どうして御剣さんがっ‥」 「彼女はね、僕と約束をしたんだよ。自分が体を提供する。その代わり、周りに手を出さないでくれ、とね」 だから、彼女は出てこない。 そう言って、くすくす笑った。 「それと、もう一つ。そこの男…啓介が幸せになるには、自分は居ないほうがいい。そう考えてる」 「!!」 タナトスの言葉が、啓介を打ちのめす。 正確にはが言った言葉だったのだが‥‥彼女が、そんな風に思っていたなんて。 思いつめていたなんて。 考えもしなくて。 「悪いが、そんな風に思わせる男に、彼女を渡す気はないね。は、僕が貰う。体も心も、僕のものだ」 弘樹がそんなのを許すはずないのだが、彼女のイデアは、彼女自身によってプロテクトがなされているのだろう。 タナトスが発した障壁であれば、弘一と弘樹の力があれば抜けられてしまうはずだから。 弘樹は、悩んでいた。 は、何から逃げている――? 「‥‥一つ、確認しますけど、御剣さん‥サーカディアとの融合、進めるつもりですか?」 「いいや」 即否定。 あんなに融合を望んでいたというのに、そんな否定で全てを信用する訳にはいかない。 姿形、声までがなために、何だか妙で、強く出られないというのもあるが。 「施設も機材も何もないし、それ以前にこの状況では権力を持つ事だって不可能に近い。何より、彼女の中は暖かくて心地いいのでね。そんな気はない」 ‥‥どちらにせよ、その言葉を信じるしかない。 目覚めた以上、を連れて帰らなくてはならないし。 なんとかして、タナトスと引き剥がす方法を見つけねば、彼女は一生このまま――? 啓介は、叫びだしそうだった。 であって、でない人物。 自分の愚かな行為が、思い違いが、こんな結果になるとは思ってもみなくて。 「あ、そうだ」 「っ‥‥」 のいつもの微笑みで、タナトスが啓介に向かう。 「沙夜香先生とヨリ、戻すんですよね?私とは、もう終わりで。今まで、無理してつき合わせてごめんなさい。幸せになってくださいね」 ずきん。 ずきん。 痛い。 の声、の姿、の言葉。 全部が彼女のものなのに、中身が違う。 けれど、言われた言葉を発したのは、中身はどうであれ自分の知っているで。 叫びだしたい気持ちが、言葉ではなく行動に現れた。 「‥‥嫌だ‥‥!!」 中が違うと知っていても、啓介はどうしていいのか判らなくて、違うんだと伝えたくて、彼女の体をきつく抱きしめた。 「俺は‥‥俺は君が好きなんだ!ヨリを戻す気なんてない!」 以外との幸せなんて、考えられない。 抱きしめた体は、彼女のもの。 熱で気持ちが伝わればいい――そんな事を考えて。 けれど、女性とは思えない力で、引き剥がされる。 「馴れ馴れしくだなんて呼ぶな。今度勝手に触れたら、痛い目にあうと覚えておけ」 「‥‥‥‥」 名前を呼ばれて、抱きしめられた瞬間に、彼女のイデアがざわめいた。 けれど、タナトスはの気持ちが自分以外に向くのを許さない。 啓介が沙夜香のものだと思っている間は、は自分のもの。 彼女を傷つける人間は許さない。 彼は、純粋にそう思っていた。 は生まれた時から、自分のもの。 単純な独占欲であるが、タナトスには重要なことだった。 だからこそ、啓介が憎い。 沙夜香という女にうつつを抜かし、を追い詰めた事を許せない。 確かに自分が復活するには、の力が必要だった。 の体を自分の入れ物にする事で、自分は意識体として、生存できる。 弘樹の中に、弘一がいるように。 彼女のエーテルは、いくら吸っても欠乏する事がない特異なイデア。 御剣晃だった頃は、それがサーカディアへ行く為の、利用価値のあるモノだった。 けれど今は、共存するためのもの。 彼女以外と共生しようと思いもしなかったし、の体に入った直後は、彼女を全て喰らって、再びサーカディアへと行く準備をしようとすら思っていたのだが、イデアの中で死んでいるような彼女を見た時、彼の世界は一変した。 彼女に、どうにかして、以前の笑顔を取り戻して欲しくて。 敵だと知って尚、崩れなかったの心を取り戻して欲しくて。 「‥御剣さん、もう、ずっとあなたはそのままなんですか?」 帰り道、姿はのタナトスと一緒2人で歩いていく。 「‥‥さぁ、ね。少しは楽しませてもらうけど」 「を表層へ出せないんですか」 「‥片山くん、君には判らないよ。彼女が、どんな想いをしているかなんて」 「‥‥‥」 「安心したまえ。に危害は加えない。これからどうなるかは、あの男次第だ」 イデアの中のは、タナトスの側に寄り添っていた。 タナトスは 「僕に任せてくれればいい」 そう言っていて。 不思議と、敵であった彼のエーテルが気持ちいい。 失ってしまうはずの啓介の温もりを思い出す。 私は、これでいいんだと……そう、無理やり納得させるしか、なかった。 2003・5・7 ブラウザback |