焔の揺らぎ 3
啓介がを追って行った、丁度その時。
沙夜香は1人、彼の部屋でコーヒーを飲んでいた。
ふと、自分の真横を風が凪いだ気がして、振り向く。
「‥‥気のせいね。」
沙夜香は溜息をつきつつ、の事を考えた。
‥‥大切な教え子、そして、自分の元恋人である啓介の、今の恋人。
きっと、自分は彼女を苦しめている。
啓介をから奪うつもりはなかったけれど‥‥彼の優しさが心地よくて。
昔に戻ったみたいで。
ズルズルと好意に甘えてしまっている。多分、彼女は辛い思いをしているのに。
判っていながらも、自分から離れようとしないのは‥‥やはり、彼が好きだからだろう。
兄を殺したと思っていたから、別れた。
でも、殺したなんて間違いで‥‥‥‥。
「‥‥最低だわ、私‥‥。」
誰もいない部屋で、一人頭を抱える。今更、あの胸に戻りたいだなんて。
‥‥‥‥再度、何かが自分の横を通り過ぎた。
今度は、確実に気配を感じる。
「‥‥まさか‥‥!」
そうと思った瞬間‥‥‥‥沙夜香は、倒れていた。
器が来る。
魂が来る。
大事な大事な意識が。
主を呼び戻す為の
大事な力が。
新都市、総合病院内。
「沙夜香先生!!」
教えてもらった病室に慌てて入ると、そこには聖、啓介、そして眠っている沙夜香がいた。
慌しく入ってきた訪問者に向かって、聖が眉根を寄せる。
「静かにしろ、本来ならとっくに面会時間は終わってるんだ。」
「す、すみません‥‥。」
弘樹が代表してというか‥‥反射的に謝る。
啓介は振り向きもせず、沙夜香を見つめていた。
と弘樹が、沙夜香のベッド脇に寄る。
「‥‥影守さん、沙夜香先生は‥‥本当に?」
弘樹が間違いであって欲しいと願いをこめて、質問する。
だが、彼は頷いた。
「あぁ、症状から言っても間違いない。でも、どうして‥‥今頃になってナイトメアが‥‥。」
聖の疑問ももっともな事だった。
ここの所、確かにナイトメアはいたものの、人に取り憑こうという程のナイトメアはいないと思っていた。
それに、沙夜香のような要するに覚醒者に取り憑けるのは、下級のナイトメアでは無理がある。
中ランク以上のものでないと、沙夜香の力に負けてしまうからだ。
‥‥とすると、今彼女に巣食っているのは、少なくとも中以上のナイトメア。
だが、中以上のナイトメアともなれば、近寄ってきたら分かりそうなものだが‥‥。
「‥‥弘樹‥‥なんか、変な感じしない?」
「‥‥うん、そうだね。」
「?何がだ。」
二人にしかわからないような会話をしている弘樹とに、聖が訝しげな視線を送る。
説明しろ、と視線で訴える彼に、が答えた。
「‥‥沙夜香先生に憑依してるナイトメアの感じが‥‥凄く‥‥なんていうか、御剣さん‥‥タナトスに似てるんです。」
「!?」
「それに‥‥仲間を‥‥呼んでるみたいな。」
と弘樹にしか判らないレベルでしかないが、どうも普通のナイトメアではないようだった。
ある種の信号を送り続けているような。
そして、それは弘樹よりも、に対してより強く反応するように感じられる。
どうしてかは判らないが。
「‥‥弘樹君‥。」
突然、今まで押し黙っていた啓介が、弘樹に話し掛けた。
その声は、思い切り沈んでいる。
元恋人がこんな状態であれば、そうなって当たり前かもしれない。
「沙夜香のイデアに行って‥‥助けられないか?前みたいに‥‥。」
以前はナビがいた。だが、今はいない。
けれど‥‥このまま放って置く訳にもいかない。
昔より、覚醒能力は上昇していると思われたし、弘一のサポートもある。
そして、もう一人‥‥もいるし。
三人でなら、ナイトメアを引き剥がす事が出来るかもしれない。
そうと決まれば、行動は早く、だ。
「、いいかな。」
念のため、許可を取っておく。断るはずもなく、彼女は頷いた。
と弘樹は、沙夜香のベッドをはさんで向かい合うように座る。
「準備はいい?」
弘樹の言葉に頷こうとして‥‥‥‥途中で止まる。
啓介の方を向き、にっこり微笑んだ。
「‥‥‥‥五十嵐さん。」
「ちゃん‥‥。」
「‥‥啓介、大丈夫、絶対に。」
「‥‥‥‥。」
突然名前で呼ばれたことに驚いたが、彼女は意にも介さず微笑んでいる。
は啓介の手を取り、きゅっと握り締めた。
「絶対、沙夜香先生を連れ戻すから。」
「‥‥頼む‥‥。」
啓介も彼女の手を握り、願いを託した。
再度、弘樹と正面向かいになると、意を決して頷く。
弘樹も頷くと、二人はゆっくりと己のイデアに潜った。
と弘樹は己のイデアから、無事にサーカディアへと辿り着いた。
合流すると、離れないように手を繋ぎ、以前行った事がある沙夜香のイデア入口へと向かった。
「相変わらず気持ち悪くなるなぁ‥‥。」
入口が見えてきた所で、弘樹がうめいた。
も同感である。
とんでもないエーテル量を誇るサーカディア。
いくら覚醒能力が進んできていても、高次元意識体には及ばない。
押しつぶされそうな息苦しさや気持ち悪さは健在だし、なるべくなら来たくはない場所である。
「‥‥気をつけなきゃね。」
「そうだね、こんな所で死にたくないからな‥‥。」
頷くと、二人は手を繋いで沙夜香のイデアへと足を踏み入れた。
以前と殆ど変わらない彼女のイデア。
そして、おかしな事に‥‥ナイトメアに荒らされている感じが全く見られない。
荒らされている、という表現もおかしいが、少なくとも、異常があって当たり前なはずなのに‥‥。
「‥‥、どうなってるんだろう‥‥。」
「‥‥うん‥‥。」
歩みを進め、以前イデア深層への入口だった所まで辿り着いた。
相変わらずエーテル欠乏状態なのか、奥へ進む事は出来ない。
「‥‥前は、確か‥‥香水だったよね。」
「‥‥‥‥うん。」
啓介から貰った香水を注いで、入口を開いた。
今のにとっては、少々酷な場面とも言える。
人の深層意識であるイデアは、その人の状態によって常々変化し続ける。
大なり小なり、多少の変化はあって当たり前だから、BGの時とそっくりそのまま同じで、彼女の深層意識まで辿り着けるとは限らない。
けれど、前と同じではないという保障も全くない訳で。
どうしようかと悩んでいると、ふとの耳に音が聞こえた。
‥音、というより、声だろうか。
唸る声?
いや‥唸るというより‥呼ぶ声‥??
「弘樹‥声、聞こえない‥?」
「え、別に‥なにも――」
「嘘、ちゃんと聞こえ‥‥‥あれ??」
先ほどまで完全に枯れていた深層入り口が、うっすらと光を放っている。
しかし、まだ入れるほどではない。
声に反応して、開いたような感じさえ受けるが‥その声も、すぐにおさまってしまった。
「‥しょうがないね、弘樹、探しに行こう。」
「だね。」
「二手に分かれて探す?」
の言葉に、弘樹は大きく首を横に振った。
不安定な人のイデアの中で、二手に分かれるなんてとんでもない。
確かに二手に分かれれば探す上では効率がいいが、危険度も増す。
万が一、イデアの狭間にでも入って出られなくなろうものなら、ここで自分を消す事になりかねないし。
それに‥は弘樹と違って、人のイデアに干渉できない。
見る事しか叶わない。
だからといって、敵側がに干渉できないわけじゃないし。
深層意識でなければ、だって物に触れるし、人の意識を見たりも出来るが、その人に関わる重大な事柄に対しては、弘樹任せにするしかない。
は、人のイデア内の情報を汲み取る事に長けていた。
流れを読み取って、悪夢へ導く。
悪夢を開放した後、その悪夢が残した傷を癒す。
それが、イデアで出来るの最大の力。
弘樹は、人のイデアに干渉し、悪夢を開放する。
弘樹とは、バランスの取れた二人パーティーのようなものだ。
逆に言えば、二人で一つ、と言っても過言ではない。
その二人がばらばらになる‥‥、弘樹はともかく、にとってはかなり危険な事。
「馬鹿言うなよ!までナイトメアに取り憑かれたりしたら‥っ!」
「平気だってば、そうなる前に、表層へ逃げる。」
「‥‥‥。」
弘樹の中に居る弘一も猛反発しているが、それでも彼女の決意は揺るがない。
は、これ以上悲しませたくなかった。
‥‥自分の、大好きな人を。
沙夜香の兄を救えず、今また沙夜香を救えなければ、彼はまた自分を責める材料を作ってしまう。
「‥頼むって、言われたしね。」
そして、自分は絶対大丈夫だと言った。
その言葉を違えるなんて事はあってはならない。
真剣なの言葉に、弘樹の方が折れた。
「分かった。でも、危なくなる前に僕に連絡する事、いいね?」
「うん、OK。」
じゃあ、と別れを告げ、弘樹は右の扉へ、は左の扉へと手を伸ばす。
一瞬後、二人は別々の場所へと飛んでいた。
「‥さて、と、深層開く鍵、探しましょうかね。」
それは、啓介と沙夜香の思い出を見る事でもある。
ハッキリ言って、苦痛以外の何物でもない。
だが、そんな事を言っている場合ではない事もしっかり分かっている。
気は進まないが、沙夜香を助ける為に、はあちこち探し始めた。
そして、ドレッサーの引き出しから、香水のビンを見つけた。
淡い紫というか、どちらかというとピンク色の瓶に入った香水。
‥‥多分、啓介と付き合っていた時に、もらった物だろう。
以前、弘樹と一緒に沙夜香のイデアへもぐった時にも、見たもの。
‥‥けれど、今回はこれが鍵ではないようだ。
この具現物から感じられるはずのエーテル力が、全く感じられない。
別に鍵を探す必要がある。
「‥‥出来れば、あんまり見たくないな‥。」
無論、沙夜香だって見せたいとは思わないだろうけれど。
ドレッサーから離れ、歩いてそれらしいものを探す。
小さな手鏡を覗き込むと、つい最近の出来事らしい事が視界に映った。
綺麗なレストランで、二人で食事をしている様子が浮かぶ。
楽しそうに談笑している姿を見て、は胸が痛んだ。
知らず、自嘲気味な笑顔がこぼれる。
‥‥どうして、彼は自分を彼女に選んだんだろうと。
自分の存在が儚いものに思えてしまう。
きっと、啓介は沙夜香を見続ける。いつまでも。別れていても。
それは、今まで付き合ってきて、嫌でも思い知らされる事柄だった。
啓介は気づいていないだろうが、は気づいてしまう。
彼が何を見ているか。彼が、何を求めているか。
と啓介が付き合い始めたのは、ブルージェネシスの事件が終結する以前の事。
沙夜香が誤解を解いた今、彼らを止めるものなんて何もない。
「‥‥残酷だよね、五十嵐さん‥‥気づいてないと、思ったのかな‥。
それとも、自分では気づかなかったのかな‥。」
選ぶ服も、選ぶ口紅も。
彼が自ら選んでくれたプレゼントは皆、昔の沙夜香に似合いそうなものばかり。
だから、付けようと思っても付けられなかった。
には、決して似合う類のものではなかったから。
「‥そんな事考えてる場合じゃないか、早く鍵を探さなくちゃ。」
弘樹の方も、まだ探し当ててはいない様子。
あちこち探し回り、そしてその度に啓介との思い出を垣間見て、確実に気落ちしていく。
「‥‥‥?」
いい加減この部屋には何もないのかと思い始めた頃、鏡台が目に付いた。
‥‥大きすぎて、これではないだろうと思ってノーチェックだったのだが‥‥。
誰に命令された訳でもなく、鏡台前のイスに座り、鏡を見る。
が映るはずだった。
けれど、そこにの姿はなく、啓介の沙夜香を心配する姿が見て取れた。
つい最近のもの。
青い光が部屋を包み、を覆い隠した。
どこかへ移動するのだと、気づく。
「沙夜香、ほら、つかまれ。」
少し疲れた表情をしている沙夜香に向かって、手を差し出す啓介。
最初は強がっていた沙夜香だったが、啓介の視線に負けて、彼の腕に自分の腕を絡める。
暖かさを感じて、昔に戻ったようだと‥思った。
出来れば、これが続けばいいとさえ思う。
沙夜香の心がに伝わる。
「‥啓介、ちゃんは大丈夫なの?」
「何が?」
「だって‥‥あなたの彼女でしょう‥、守ってあげなきゃいけないのは――」
「大丈夫。」
‥‥あ、ちょっとこの先聞きたくないかも、とが思った。
「彼女は、強いから。」
‥やっぱり、聞きたくない言葉だったなぁ、なんて苦笑いをこぼす。
は強い。
けれど、覚醒能力が強い事と、人間的に強い事とは違う。
彼は気づかない。
その言葉が、どんなに残酷か。
どんなに、を傷つけ、苦しめているか。
「‥私、そんなに強く見える?‥五十嵐さん‥。」
過去の記憶。
決して啓介に届く事はないけれど、それでも小さく呟いた。
‥‥目を開くと、沙夜香のイデア深層部にいた。
鍵を見つけたという感じではなかったし、第一、深層部への入り口が違う。
それなのに、来れてしまった。
弘樹に連絡を取ろうと、意識を集中する。
(弘樹‥‥私、深層部へ来ちゃったみたい)
(‥えぇ!?一人で??‥‥僕は入れないみたいだから‥もう少し入れる方法探すよ、無茶しちゃ駄目だからね!)
(分かってるよ)
とにかく、弘樹が来るまでに沙夜香先生を見つけなくては。
少し歩くと、彼女はすぐに見つかった。
だが、随分と不思議な事に‥‥沙夜香は眠っていて、ナイトメアが番人のように、彼女の後ろに位置を構えていた。
近づいたのが分かったのか、ナイトメアがに視線を向ける。
ナイトメアが、その姿を見て喜んだような気がした。
2002・7・10
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