焔の揺らぎ 2
家までの道を、とぼとぼと歩く。
その横を、心配そうに弘樹が歩いている。
「‥元気だしなよ‥。」
「何言ってるの?私元気だよ。」
思いっきり空元気だろうに‥。
弘樹は、隣のに聞こえるぐらい大きなため息をついた。
あれから二週間。
啓介と沙夜香は、まるで本当に恋人に戻ってしまったかのような生活を送っていた。
車でお出迎え、なんて当たり前だし、休日ともなればデート。
一応、護衛という感じで一緒にいるらしいのだが、傍目にはデートにしか見えない。
(‥それにしても、五十嵐さん何考えてるんだろう‥)
恋人であるを忘れてしまったかのような態度。
どうしたものやら、当事者でもないのに考え込んでしまう弘樹。
夕食を作るため、キッチンに立っているの後姿を見て、なんだか物悲しくなってしまう。
を守ってくれそうだったのに。
を助けてくれそうだったのに。
‥見込み違いだったのだろうか。
確かに、ある意味非常事態ではあるのだが、だからといってを放っておいていい理由にはならない。
「弘樹ご飯‥‥って、どうしたの?神妙な顔して。」
「え、あ、うん、別に。」
「‥もしかして、私と五十嵐さんの事?」
「‥‥。」
鋭い。
こういうときののカンは、侮れないものがある。
弘樹は苦笑いしながら、素直にYESと答えた。
「ごめんね、無用な心配ばっかかけて。」
「そんな事ないよ。‥でも、あれから二週間かぁ‥‥何もないよな。」
コクン、と頷く。
そう、夢は毎晩毎晩見続けているらしかったが、めだって異常は見当たらない。
だから、本当に普通の恋人同士のように見えてしまうのだが。
「‥‥でも、ほら、私は大丈夫だから。」
平気だから。大丈夫だから。
そう言って、全然そうじゃないのを、弘樹は知っている。
啓介は気づいているのだろうか。
彼女の、大丈夫、の裏側に。
(‥気づいてないんだろうなぁ‥)
更に数日が経過。相変わらず、変わらない状況。
いい加減もイライラし始めていた。
久しぶりに啓介がを家に誘ったのはいい。
(‥で、なんで沙夜香先生までいらっしゃるんでしょう‥)
何気に、の笑顔は引きつっていた。
(あぁぁ‥しっかりしろ、私の表情筋‥)
引きつり笑いに気づいた沙夜香が、苦笑いする。
啓介のほうは、全く気づかない。
ふぅ、と大きく深呼吸して、なんとか自分を盛り立てる。
「ちゃん、コーヒーでいいかな。」
「はい、すみません。」
‥なんでだか、謝ってしまう。
それに‥この居心地の悪さは一体なんだろう。
沙夜香と啓介は楽しげに談笑し、まさにはほっぽり状態‥‥。
だんだん、悲しくなってきた。
コーヒーを受け取ると、楽しげに談笑する啓介と沙夜香を背中に感じながら、は一人、許可をもらって啓介のアルバムを見ていた。
主に彼の撮った写真だったが‥‥、その中の一冊のアルバムを手にとって、固まってしまう。
中身は、が見てはいけなかった物かもしれない。
見ているものが何なのか判ったのか、沙夜香がに近寄ってきた。
「やだ、啓介ってば‥まだ昔の写真持ってたのね。」
「え、あ‥あぁ、大分前のやつだな‥沙夜香と別れる前のだ。」
赤ら顔になりながら、を挟んでいる啓介と沙夜香。
思わずは弘樹に助けを求めた。
この位置‥最悪。
右左から、元恋人同士の甘い会話が聞こえて来るなんて、現恋人のからしてみれば、拷問かイジメにしかならない。
10分も過ぎると‥‥耐えられる限界を超えてしまった。
突然パタンとアルバムを閉じ、その位置から抜け出て、二人にアルバムを渡す。
「ちゃん?」
「‥‥コーヒー、入れてきます。」
啓介に顔を見られないようにして、立ち上がってキッチンへ。
は今にも怒り狂いそうになりながら、なんとか自分を自制していた。
ここで起こった所で、何の意味も成さない。
そう分かっていたから‥‥。
啓介は気にせず、コーヒーの場所を教えるとまたアルバムを開いた。
一人でコーヒーをいれ、一気に飲み干すと、は立ち上がった。
「五十嵐さん、私帰りますね。」
「え、もう帰るのかい?」
時間を見ると、午後6時をちょっと過ぎた頃。
今までであれば、帰るなんて微塵も思わない時間ではあったが、現状では、とても長居したいとは思えない。
お邪魔しました、と勢い良く言うと、さっさとかばんを引っつかんで出て行ってしまう。
啓介はどうしたのかと訝しげにドアのほうを見ていたが、沙夜香には、がどうしてさっさと帰ったのか容易に想像がついた。
小さくため息をつく。
「‥彼女に、悪い事したわ。」
「前と同じ事言ってるな。」
「‥だって、本当に悪いと思ってるから。」
アルバムを閉じ、立ち上がって窓縁へと歩いていく沙夜香。
啓介も、後を追うようにして窓縁へ。
夕日も沈みかけ、二人の顔をオレンジ色に染める。
こうしていると、本当に昔に戻ったようだった。
知らず、啓介は沙夜香の手を握る。
沙夜香は、その手を振り払うべきだと思った。
けれど、最近の不安な気持ちが、振り払うべきその手を、握り続けさせる。
いつしか二人は、抱き合っていた。
不安を押しとどめる為。
今だけは、昔に戻りたいと願った為に。
啓介のマンションから出て数分歩いた所で、は自分が彼の家に忘れ物をした事に気がついた。
「‥あちゃぁ‥携帯‥。」
戻ればすぐの所。
またあの空間に身を寄せるのは少々嫌だったが、携帯をとりに行くだけならすぐ終わる。
自宅に向けていた足を、再度啓介宅に向けた。
「すみませんー、携帯忘れちゃいました‥。」
「っ‥ちゃん‥」
「‥‥。」
ドアを開けた瞬間、パッと二人が離れたのに気づく。
その後の二人の雰囲気で、何をしていたのか‥容易に想像がついた。
ツカツカ上がりこみ、携帯を取ってカバンへ押し込む。
「、その‥」
「お邪魔様でした。」
あぁ、もしかして私って‥用済みってヤツかしら?
そんな事を思いながら、あそこで怒りをぶつけてはならないと足早にマンションを出る。
流石にまずいと思ったのか、啓介が追いかけてきて、の手を掴んだ。
「‥何ですか?」
「‥‥いや‥その‥。」
‥‥悪いと思っているんだろうか。
流石に最後の‥沙夜香との抱擁はまずいと思っているらしいが。
しばらくの間、無言空間が続いた。
その煮え切らない態度に、が先に口を開く。
「‥‥心配性なんですね。本当は‥先生の方がいいんじゃないんですか?」
口にして、しまった‥と凄く思う。
一度流れ出した感情は、自信にすらとめられない程、溢れていく。
今更ながら、つもり積もった感情が並大抵ではない事を思い知らされた。
「五十嵐さんは、私と付き合ってるんですか? それとも、沙夜香先生と付き合ってるんですか!?」
「勿論、君と付き合ってる‥。」
「ここ数週間、本当にそうだっていえるような状況でした? 今日だって――」
今日だって、啓介の目に映っていたのは沙夜香だった。
それを彼が自覚していない訳なんて、ない。
だが、彼は自覚しながらも反撃してきた。
「心配なんだよ、あいつは強がりで‥本当に辛い時でも、言わないし‥。ちゃんみたいに、俺のほかに頼る人間なんていな――」
「そう、じゃあ、私はいいっていうんですね。」
に啓介は必要ない、なんて。
本人の口から、言われたくなんてなかった。
泣くより先に、怒りが体を包む。
自分にとって啓介は物凄く大切で必要な人だが、彼にとって自分はそうでないらしい。
「私は、あなたの彼女だけど、あなたに頼っちゃいけないんですね!」
「誰もそんな事言ってないだろう!」
「だって、沙夜香先生ばっかり心配して――」
「心配して何が悪いんだ!彼女は元恋人だ、今守ってくれる人間はいない。だったら、俺が守ってやらないと‥。償いの意味でも。」
「‥‥‥。」
「だから‥。」
「だから、抱きしめたんですか。」
「‥‥。」
何も言わない啓介。
は掴まれていた手を振り払い、彼をにらみつける。
「心配なんですよね、沙夜香先生が。償いしたいんですよね。
‥‥‥どうして。」
「‥?」
「‥どうして、私と付き合ったりしたんです?」
急激に、の心が悲しみに満たされた。
怒っているうちに、何だか情けなくなってきて。
自分は、好かれて啓介に告白されたと思ったのに。
なのに今、彼を動かしているのは沙夜香の方で。
涙が瞳にたまり、瞬きするとポロポロと雫が地面に落ちた。
「最初から‥‥沙夜香先生とヨリ戻せばよかったじゃないですか‥‥。」
零れ落ちる涙を拭う事もせず、啓介を見つめる。
彼は、チクチク痛む胸を感じながらも、沙夜香を一人にできないという責任感から‥もしかしたら、恋心からかもしれないが、とにかく、に分かって貰いたかった。
沙夜香を守りたいんだと。
それが終われば、の所へきちんと戻ると。
‥では、終わらなかったら?
その考えは飲み込んだ。
啓介自身、どうしていいのか分からなくて。
が好きだが、沙夜香も想っている。
恋人として沙夜香を好き、という事ではないが、一緒にいる時間は楽しい。
昔に戻ったみたいで―――。
「‥‥、もう少しだけ待ってくれ。
沙夜香との問題が解決したら‥‥ちゃんと‥‥」
「もう、いいです。」
「!」
痛い。
「もう、十分です。」
痛い。
「‥‥沙夜香先生を、守ってあげて下さい、私は、大丈夫ですから。」
誰が、痛い?
「‥すまない。」
は、その言葉を聞いて何も言わずに立ち去った。
元恋人の沙夜香に、勝てるなんて事ないんだと実感しながら。
胸の痛みは、自分が感じているのだろうか。
どこか、遠い人が痛みを訴えているように感じるのに。
足取りも重く、家路へとつく。
もう少し。
もう少し。
そうすれば捧げられる。
娘を捧げられる。
主がお戻りになれる。
気取られてはならない。
主を呼び戻す事こそが
私の重大な使命。
もう少し。
もう少し――。
啓介とが大喧嘩をしたその日。
9時も過ぎようという頃、片山家に一本の電話が入った。
電話の主は、五十嵐啓介。
電話を受けた弘樹は、驚きの余り一瞬口を開けたまま静止した。
「今‥今、なんて――」
弘樹が震えながらもう一度言って欲しいと頼むと、啓介も幾分か震えた声で返答した。
「沙夜香が、ナイトメアに取り憑かれた。」
2002・6・30
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