焔の揺らぎ 1




 啓介‥‥啓介‥‥

 誰かが、名を呼ぶ。
 苦しそうに、辛そうに。

助けてくれ‥‥大切な、大切な妹なんだ‥‥

 霧散していた光りは、いつしか一つの形になり、鮮明な音で語りかけてくる。
 血を流しながら、それでもその人は叫ぶ。

 沙夜香を助けてくれ!
 あいつを一人にしないでくれ!!

「‥‥乾さん‥‥。」
 五十嵐啓介は、ベッドから半分起き上がると、溜息をつく。
 ブラインドから零れる光は、外が晴れているという事を教えていた。
 啓介が過去、同僚の刑事であり、元恋人の乾沙夜香の兄でもある人物を夢に見るようになってから、実に一週間。
 最初はぼやけた声だけだったそれは、日を増すごとに鮮明さを増し、彼の形をも認識できるようになった。
 額から血を流し、必死になって妹の‥‥沙夜香の事を守れと、助けろと訴える。
 それに対して、啓介は毎日なんとも言えない感じになってしまう。
 何故なら、今、彼は乾沙夜香の彼氏ではなく、
 相棒である片山茂の娘(といっていいだろう)、片山の彼氏だから。
 沙夜香になにかあれば助けたいと思うし、協力してやりたいとも思う。
 だが‥‥。
「あいつを一人にするな、か。‥‥乾さん‥‥今の俺には‥‥それは無理だよ‥‥。」
 を愛したいと思う気持が、沙夜香とヨリを戻したいという気持を凌駕した。
 だから、の彼氏をしている訳で。
「‥‥まいったな。」
 寝起きでボサボサな髪を、更にくしゃりと掻いた。
 ベッドから降り、朝食の用意をする。
 珍しく出勤時間まで余裕があったので、パンにスクランブルエッグ、コーヒーまでつけて食事にする。
 食事しながらも、やはり夢を思い出す。
 ‥‥なんだか、気分が悪くなりそうだったので、無理矢理思考を切り替えた。
 天気はいいのに、気分は晴れない。
 妙な気分だ。

 仕事で大学へと足を運ぶ。そこでバッタリ、と会った。
「あ、啓介さん!」
「あぁ、ちゃん。」
 可愛い恋人の姿を目にして、表情が緩む。
 未だにちゃん付けなのだが、茂や弘樹の前でボロ出し出来ず、普段的に名前だけで呼ぶのは、なかなか勇気がいる。
 まあその辺はゆっくりと、という感じ。
 なるべく彼女の前でカッコイイ大人をしようとしているのに、顔がニヤケてしまってはどうにもならない。
 の方からすれば、啓介はどうみても大人。
 自分と比べれば一目瞭然だ。
 態度も性格も、行動‥‥は、ごくまれに子供じみたりするけれど。
「学校は‥‥まだ帰りの時間には早いだろう?」
 そう、凄く早い。本来なら、まだ二時間目が始まるか始まらないか、位。
 早退かサボリでもない限り、大学前なんて所にいるはずはないのだが。
「今日は、学校側の都合で、授業なくなったみたいなんです。啓介さんは、お仕事?」
「あぁ、大学にちょっとね。」
「そうですか‥‥大変ですねー。」
 は”お疲れ様です”と一礼する。
「なんだか、疲れてません?」
「え、そう見えるかな。」
 こくん、と頷く。
 確かに夢見は悪すぎる日が続いていた上、仕事も多忙だったから‥‥。
 仕方ないかもしれない。
 この際、あの夢を彼女に話して、少し気持を楽にしてもいいかもしれない。
 言った所で、どうにかなるとは思っていないが、少しは気がまぎれるだろうから。
 そう思って、話を切り出そうとしたとき‥‥‥‥。

「啓介。」
「‥‥沙夜香?」
「あ、先生。」
 いつの間にか、沙夜香が近くに居た。
 帰り支度をしている辺り、学校の方の仕事は終わったのだろう。
 少し、ふらついているが‥‥。
 顔色も悪い。体調不良なのだろうか。
「沙夜香先生、具合でも悪いんですか?」
「ええ、ちょっと寝不足でね。疲れが取れないだけよ、大丈夫。」
 その言葉に一応は頷いてみるものの‥‥、大丈夫なようにはとても見えない。
 はどうしようか考え、ポン、と一つ手を打った。
「そうだ、啓介さん車でしょ?先生を家まで送ってってあげて下さい。」
「あ、あぁ‥‥そうだな、沙夜香、車まで歩けるか?」
「大丈夫よ、一人で帰れるわ。」
 気張っているようだが‥‥やはり違う。
 は沙夜香の腕を掴むと、啓介の車の場所を聞き、そこまで引っ張って連れて行く。
「ちょ、片山さん?」
「先生、ダメです無理しちゃ。強がりもいいですけど、力抜く所もあっていいはずですよ。」
 ニコニコ微笑み、啓介が慌ててドアを開けたのを確認して、彼女を車に乗せる。
 沙夜香は、啓介が彼女に惚れたのが理解できるような気がした。
「それじゃ、先生をよろしくお願いします。」
ちゃんも、気をつけて帰れよ。」
「はい。」
 二人を見送ると、メトロ駅に向かって歩き出す。
 自分の中の何かが、見えない敵に対して警報を鳴らしているのに気がつきながら。
 予感があった。
 これは、BGでナイトメア達と戦っていた時に、多く感じられた気配。
「ナイトメアの発生源なんて、今はないはずなのに‥‥。」


「大丈夫か?」
「‥‥ええ、もう直ぐそこだから、ここまででいいわ。」
「そうか。」
 フラフラしている沙夜香をマンションに送り届けた啓介は、心配しながらもその場を立ち去ろうとした。
 いくら元彼氏だといっても、今彼女のマンションに入る資格はない。
 だが‥‥。
「っあ‥‥。」
「おっと!!‥‥全然平気じゃないじゃないか、まったく。
 無茶するもんじゃない。」
 意地を張るな、と言うと啓介は沙夜香に肩を貸し、部屋の中まで入る。
 イスに座らせ、とりあえず水を飲ませた。
 冷たい水がノドを通り、少しばかり落ち着いた様子の彼女に、頬をなでおろす。
「‥‥片山さんに、悪い事したわね‥‥。」
「?」
「だって、啓介との仲を邪魔したようなものでしょう。」
 肩をすくめて見せる沙夜香。
 だが、啓介はそんな事はないと首を振る。
「困った時はお互い様。ちゃんも判ってくれるさ。」
「‥‥そう。‥‥ねぇ啓介、ちょっと‥‥聞いて欲しいことがあるの。」
 また一口、水を口につけ、ふぅっと息を吐く。
 啓介もイスに座り、話を聞く体制になった。
 二人きりでいると、なんだか恋人同士に戻った気さえもする。
「‥‥どうした。」
「‥‥‥‥夢、夢を見るの。凄く嫌な夢。」
 嫌な夢‥‥。
 なんだか引っかかりを感じながら、先を促す。
「私の周りを黒いものが覆って、何も見えなくなって‥‥。
 気付くと誰かが私に命令していて‥‥私はそれに従って、皆を殺してしまう‥‥。」
「‥‥。」
「ずっと‥‥この二週間ずっとなの。何かあるんじゃないかって‥‥不安で。」
 プライドが高く、普段は弱味なんて見せない沙夜香がここまで言うという事は、相当精神的に大変なのだろう。
 啓介は自分の夢を、彼女に話すべきか悩んだ。
 だが、内容が内容だけに無関係とも思えず、話す事に決める。
 沙夜香の兄が、何かから彼女を守って欲しいと懇願するという夢を‥‥出来るだけ、正確に話した。
 二人は無言で互いを見つめあう。
「‥‥私は、大丈夫よ。一人でも平気。単なる偶然だわ、きっと。」
 強がって見せるものの、沙夜香にいつもの強さはない。
 強がっている事は、彼にはとっくに見越されているだろうに‥‥。
 それでも、意地をはるしかなかった。
 そんな沙夜香を優しく抱きしめ、落ち着かせようと努める啓介。
 沙夜香は意図せず、同じように彼を抱きしめていた。
 あの事件さえなければ、今でも恋人同士だったかもしれない。
 嫌いで別れたのではない男。
 もしかしたら、結婚していたかもしれない。
 その思いは、啓介も同じだった。
 守ってやりたい、と、彼は心から思う。
 沙夜香もまた、今一度この男に守られたいと願っていた。
 自分が犯した罪の償いだと、どこか言い訳くさい事を考えながら、啓介は沙夜香を抱きしめる。
 の顔がちらついたが、今は無理矢理それを心の奥底に押し込んだ。
 は強い。
 沙夜香も強いが、程の力はないし、弘樹のように側に守ってくれる人間がいない。
 だから、自分が守ってやらなくてはいけないという心に、素直に動いた。
 それが何をもたらすかなど、今の二人には予想も出来ない事だった‥‥。


「‥‥という訳で、暫く沙夜香についててやりたいんだ。」
 翌日夕方、片山家にて啓介はに事情を説明して、暫く出かける時、沙夜香と一緒に行動したいという旨を伝えた。
 二人の夢の内容がアレなもので、イヤとも言えず、合意する。
 もし、沙夜香に何かがあれば、仲間内の皆が悲しむし‥‥。
 複雑ではあったが、合意するしか道はなかった。
「ありがとう。‥‥何か起こると‥‥思うかい?」
「‥‥判りません。何かしら警戒信号を送られてる気はするんですけど‥‥。」
「イデアに潜れば、何か判る?」
「‥‥うーん。」
 少し悩み、考えを切り出す。
 イデアに行ったからといって、何かが判る事はないだろう。
 大体、弘樹はともかく、はイデアに行くことは出来ても、イデアに干渉する事は出来ない。
 それでなくとも、意図せず他人の記憶を見てしまったりするのだから、安易に入るべきではないし。
 入る気もないし。
 ましてや、啓介の元恋人。
 としては、見たくない記憶も多々あって。
「‥‥多分、何も判らないと思います‥‥。」
「そう、か‥‥。」
 彼は少し、落胆の色を浮かべた。
 そんな啓介の表情を見て、はなんとも言い切れない気分になる。
(‥‥これって、単に嫉妬だよね。‥‥うあー、私ってやなヤツ‥)
ちゃん?」
「あ、はいっ!?」
 どうした、といつもの微笑みで問われ、少々詰まりながらも”なんでも”と答える。
 半ば無理矢理作った笑顔だったが、元彼女の事を気遣う啓介は、
 そんな事にはちっとも気付かなかった。

 彼の人の為に。
 主人の為に。
 そうして、闇が蠢く。
 望むは、汝が魂。
 願うは、汝が入れ物。









2002・5・21

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