溺れ人




 これは気まずい。弘樹は猛烈にそう思った。

 と弘樹は、沙夜香先生に頼まれて仕事を手伝っていた。
 全ての作業が終わった頃には結構遅い時間になっていて、手伝ってくれた御礼ということで先生の家で夕食をご馳走になることに。
 なお、茂叔父は今日は帰りが遅いという連絡があったので、気にもとめず。
 それはよかった。
 ご馳走になる、それはよかったのだけれど…。
 途中ナイトメアと遭遇し、近くにいた啓介も参戦し………なにがどうなったか、元恋人のよしみでか、――啓介も沙夜香先生のお宅にお呼ばれした。
 先生と啓介がちょっといい感じな為、がなんとなく不機嫌で―――。
 が啓介に構わないものだから、啓介も少し不機嫌で―――。
 弘樹は、修羅場の真ん中にいる気分だった。

ちゃん、そっちそろそろできそう?」
「はい、もう少しです。」
 と沙夜香がキッチンで料理している間、啓介と弘樹はその様子を見ていた。
 ふと思いついたように啓介が弘樹に問う。
ちゃんて……料理するんだな。」
「そうですよ、あの家ですから。僕や叔父さんの好みに合わせて作ったりします。どっちかというとお菓子作る方が好きみたいですけど。」
「う…甘いものか。」
 啓介は甘いものが苦手な為、少々難色を示した。
 弘樹は苦笑いしながら話を続ける。
「お菓子って言っても…ポテトパイとか、プリンとかゼリーとか…その辺です。ケーキなんかは面倒くさいみたいで、買って食べることの方が多いですよ。」
「沙夜香はワインゼリーが好きだからな…作ってもらうといいかもな。」
 尚、今が作っているのは肉のビール煮込みである。
 弘樹と啓介の方にいい匂いが流れてきた。
 弘樹はの料理の腕を知っているが、先生の腕は知らない。
 別に不安がある訳ではないのだが、今度は弘樹が啓介に尋ねてみる。
「先生って料理上手いんですか?」
「ああ、結構いける口だと思う。……昔と同じなら、だけどな。」
 幸せそうな目で沙夜香を見る啓介に、なんとなくムカムカする。
 弘樹が沙夜香先生を好きだから、というのではなく、啓介とは一応付き合っていると思っているので…。
 そりゃあ、元彼氏と元彼女だし、色々心の内は複雑なのだろう。
 けれど、に近しい者として、弘樹は啓介の態度がちょっと納得いかない。
 沙夜香先生と、並べてどっちが好きなのか問い正したくなってしまう。
 弘樹自身、を凄く好きなので、やっかみが入っているけれど…彼女を大切にしない人に渡す気は更々なかった。
 10年の付き合いだ。
 中途半端な想いの人に、を渡せるほど弘樹は寛大ではないし、彼女に対しての想いが浅い訳でもない。
「そういや弘樹君とシゲさんに合わせて料理作るって…どういう…?」
「僕、家庭料理好きなんで…ありがちな所で肉じゃがとか、あげだしとか…色々。作れない物もありますけど、僕が食べたいって言うと、本引っ張り出して作ってくれますよ。」
にこにこ笑いながら言っているが、その内容は啓介にとってはかなり自慢である。
 半分わざと、半分天然。
 ちょっとムッとしてしまう。
 まがりなりにも自分の彼女が他の男の為に一生懸命料理を作ってる姿は好ましいものではない。
 一緒に生活しているのだから、仕方ないとも言えるが。

 そのちょっと険悪な空気を引き裂くような明るい声で、「できたー!」とが言った。
 どうやら料理が完成したようである。


 食事中…普通なら和やかなその場が、なんとなくギクシャクしているのは気のせいではないだろう。
 沙夜香と啓介は昔話に花を咲かせ、と弘樹は日常の事について延々と話をしている。
 も啓介も、お互いに話をしたいと思っているのだが、状況はそれを許さないようで。
 ―そのうち、の方は段々と元恋人とイチャついている啓介に腹が立ってきて、彼に会話を振ろうという気もなくなっていた。
 啓介はそれに気付けない。
 終始、ある意味では険悪なムードの食事が終わると、弘樹とが洗物をチャッチャと済ませた。
 沙夜香は啓介と話をしている。
 なんとなく、こういう分かれ方になっただけで、意図してこんな風にした訳ではない。
 お礼ということで、二人が片付けをしているだけだ。
「先生、終わりました。」
「あら、ありがとう。ごめんなさいね、こんな事まで…。」
「いいんですよ、私たちがご馳走になったんですから。」
 多分、その“私たち”の中に啓介は含まれていないだろうな、と弘樹が苦笑いした。
「それじゃあ弘樹、私らお暇しようか。」
「そうだね、じゃあ先生、五十嵐さん、お邪魔様でした。」
 聞きようによっては、激しくイヤミだろう。
「じゃあ…俺も。送ってくよ。」
 啓介が慌てもせずに言うが、二人は丁寧に断った。
 メトロで帰ります、と。
 言葉は凄く明るく丁寧なのに、このトゲトゲしさはどうだろう。
 啓介が顔を引きつらせた。
 今頃気がつくが、が不機嫌だ。
 今までの自分の態度を思い返してみると、無理もないと思ったりする。
 …まあ、後でお茶でもご馳走して許してもらおうと考えた。
 ……これが、大きな間違いだったのだが。

 その後、三日程…どの日、どの時間、どの場でも、啓介とは会うことがなかった。
 の方が徹底して避けているのだけれど。
 ナビのサーチ能力でも使っているのか、とにかく会わない。
 バッチリ時間をずらされている。
 いそうな時間に家を訪ねてみてもいない。
 夜中に仕事だ、とかこつけて行ったりしたけれど、それでもいない。
 どうやら、他の覚醒者仲間の家に泊まっているようだ。
 自分一人を避けるために、中々根性あるな、と啓介はしみじみ思った。
「あれ、五十嵐さん?どうしたんです…僕んちの前で。」
「あ、弘樹君…ちゃん、家にいるかな。」
「残念ですけど……」
 やっぱり、とうなだれる。
 哀れに思ったか、弘樹が家へと招きいれた。
 ゴロゴロ寝ている叔父を叩き起こす。
 今日の夕食当番は叔父なので、ピザかレンジディナーのどちらかだろう。
 結局、夕食はピザになった。

「くはー!寝起きのビールは最高だな!」
「………叔父さん…。」
 啓介が沈んでいるというのに、相変わらずの茂に弘樹はちょっと呆れた。
「…のヤツはまだ帰ってこないつもりだな、まったく…。」
「叔父さん、仕方ないよ…。」
 一応、それなりの成り行きは茂に通っているらしい。
「五十嵐、憶測誤ったって顔してるな。」
「シゲさん…?」
「お前、あの女先生の時と同じような感覚で付き合ってたんじゃないか?」
「そんなことー………」
 ない、と言おうとして詰まった。
 本当に『ない』と言えるのだろうか。
 の事を、まだ子供だと思って見くびっていた所もあるかもしれない。
 沙夜香は気に食わない所があるとすぐに怒った。
 だが、はそうはしないであろう事に、気付かなかった。
 年齢の差で言えなかったのかもしれないし、溜め込んだのかもしれない。
 よくよく考えてみれば、彼女は沙夜香や弘樹と食事をしていた時、ちゃんとサインを出していた。
 不機嫌、というサイン。
 浅はかにも気付かなかった、いや、気付いていて大丈夫だろうと勝手に踏んで。
 なにかを奢れば許してもらえるだろう、なんてとんでもない。
 年齢がいかなからこそ、壊れやすく傷つきやすい。
 一度崩してしまったら、元に戻すのは容易ではない。
「弘樹君、ちゃんどこにいるのか教えてくれ!」
「え!?」
「判るんだろう!?」
 物凄い剣幕の啓介に驚きつつ、それでも場所を教えていいものかと悩む。
「…弘樹、教えてやれ。こいつ、後が怖いからな。」
 茂に言われ、仕方なく場所を教えることにした。
は影守さんの所にいますよ。」
「なっ……男の所!?」
 驚き慌て、不機嫌になる。
 いつもは大人の余裕綽々の彼の百面相は、見ていて面白い。
「昨日は優美ちゃん家、おとといは泉さんの家にいました。速水さんの家にも。」
「………。」
「おい、五十嵐。フテクサレてんじゃねーぞ。」
「…不貞腐れてないよ。」
 とにかく、と立ち上がると、啓介は弘樹に聖がどこにいるのかを教えてもらって、車を走らせた。

 タイヤ鳴りっぱなし状態で、BG総合病院に到着。
 エレベータを使えばいいのに、来るまでの時間が勿体無いと階段を駆けずり回り、挙句、やはりエレベータに乗った方が速かったなんていう凄く面白い行動をとった事はさておき。
 ドアをノックして聖がいるかどうか確かめる。
「……誰だ、診療時間はとっくに終わってるぞ。」
「五十嵐だが…ちょっといいかな。」
 思わぬ来訪者であるにも関わらず、いつも通り『開いている』と言い放つ。
 お言葉に甘えて、と聖の研究室のドアをくぐると、お目当ての人物は既にお休みしていた。
 …聖のベッドを陣取って、安らかな寝息を立てている。
 啓介は少し脱力してしまった。
 こっちは必死にを探していたというのに、その当人が高いびきでは…力も抜ける。
「突っ立ってないで座ったらどうだ。」
「あ、ああ…。」
 手近なイスに腰を落ち着けると、いきなり聖から睨みつけられる啓介。
「お前は一応コイツの彼氏だろう…なんで俺が面倒みなきゃならん。」
「すまないな…話は…聞いたのかい?」
「いや。だが…察しがつくとは思わないか?」
「―――そう、だな。」
 ふっと眠っているを見た。
 好きだ、と言いながら、傷つけた少女。
 どうやって償おうか考えても、明確に答えなど出てくれはしない。
 出てくるのは溜息ばかり。
「…を連れて帰ってやれ。」
「?」
「疲れてる。家のベッドの方がいいだろうしな。」
 聖に言われ、を引き取って帰ることにした。
 啓介だって、他の男の所に彼女を置いておきたくはなかったので、一も二もなく頷いた。
 お姫様抱っこというヤツで車に運び、そのまま片山家へと走らせる。
 聖が一人になった後、深々と溜息をついたことは知る由もない。

「……っ、あれ!?」
「あ、ごめん…起こしちゃったかい?」
 が目を覚まして状況の違いにキョロキョロしてしまう。
 いつの間にか、自分の部屋に移動しているのだから、驚くのも無理はない。
 改めて声の主を見て、心臓が跳ねる。
 自分が会わないようにしていた人物が、目の前にいたのだから。
「…い、五十嵐さんが……ここに…?」
「影守君の所にいるって聞いてね。」
「そう…ですか、ご面倒かけます。」
「………すまない。」
「?」
 いきなり謝られ、疑問符が飛ぶ。
 少し考え、なにに対しての謝罪なのかに行き当たると…『別にいいです』と、言葉少なく返事を返した。
 全然良さそうには見えない。
 やはり根は深いようだ。
 しかし、ここで引き下がる訳にはいかなかった。
 そうでなければ、自分との関係は…ここで終わりになるだろうと直感が言っている。
「別にいい、なんて…本当は少しも思ってないんだろう?」
「………。」
「俺にどうして欲しいんだい?…なにを望む?」
「…わかりません。」
 本当に、啓介になにをして欲しいのか、なにを望んでいるのか判らない。
 とにかく啓介に会いたくなくて…否、会いたくない訳ではなかったのだけれど…どういう顔をすればいいのか判らなくて。
 多分、本当は怖かったのだろう。
 『やっぱり別れよう』と言われるのが。
 言われるかもしれないと思う心が、とても嫌で。
 だから、会わないようにしてきた。
「…望むことがないなら、なんでそんなに俺を避けてた。」
「それは…五十嵐さんが別れようって言いそうで…。」
「…俺と、別れたくないっていうのは、望みじゃないのか?」
「…あ…。」
 確かに、別れたくないと言うのも、望みだ。
 思わずまじまじと啓介の顔を見た。
「もっとも、君が嫌だと言っても…離す気はないけどね。」
「…。」
 をきゅっと抱きしめ、背を撫でてやる。
 やっと、ちゃんと捕まえた気がした。
「…もっと我侭言ってくれていいよ。そうしたら、俺ももっと我侭言う。」
「…沙夜香先生の所いかないで…私のこと嫌いにならないで……。」
 それは我侭にならないよ、と苦笑いをこぼす。
 まあ、我侭がどれ位からかというのも、測り辛いものではあるが。
 少し体を離し、の目を見る。
 彼女は悩んだ様子だったが、思いついたのか嬉しそうに微笑みつつ、啓介にお願いをした。
「今日、泊まってください!」
「…そ、それはいいけど――…シゲさん怒らないか?」
「大丈夫ですよ。」
 どこで寝るのかと聞くと、ココ、と即座に返された。
 ある意味、廊下で寝てくれといわれた方が楽だったかもしれない。
 これは罰か。欲望と戦えと?
 啓介は嬉しさ半分、我慢半分だった。

 その夜、寝ることに一生懸命になっている啓介の姿がの隣にあった。
 やはりこれは罰だと、彼は密かに思うのだった…。





2001/11/6

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