Inside Blue 3



 JUNE・15

 叔父・茂が現れたのは、約束の時間から3時間ほど経過した辺りだった。
 普通であれば冗談ごとではないと怒り心頭であるし、も弘樹も、現れた叔父に少なからず怒りを向けたのだが、いつもの飄々とした調子で誤魔化されて(和まされて?)しまい、怒声を上げる間もなく怒りは萎んでしまった。
 1時間や2時間の遅延で激怒し続けていたら、この叔父とは暮らせない。
 メトロライナーに乗り、第3階層・住居エリアへと降り立つ。
 外部からやって来る者以外にとっての、BGに暮らす殆どの人間のベッドタウン。
 茂に先導されながら歩いていくと、途中にコンビニやスーパーがあることに気付いた。
 第1、第2階層ほどでなくとも、それなりに便利なところらしい、とは思う。
 幾つかの建物を抜け、小さな公園の並びに、これから住むマンションは建っていた。
 エレベータで目的のフロアまで上がる。
「さて、ここが我が家だ。間取りの都合もあって、は隣の部屋を借りてるからな」
「私一人暮らしになるのかな、一応」
「そういうこった。メシと風呂はこっちで入れ。余計な水道光熱費を使うことはないだろう」
 言いながらIDカードを挿し込み、ロックを外す。
 と弘樹は促されるままに中に入り――
「うっわぁ……」
「キョーレツ」
 中の惨状にため息を吐き出す。
 茂が独りで生活している、というので予想はついていたが、やはり凄まじいことになっていた。
 茂の特技は散らかしである。
 元来充分な広さがあるであろう廊下は、積まれた本や雑誌、投げ散らかした様子の洋服やら靴やら、どのように使用したのか分からないが、捩れてぐちゃぐちゃになっている延長コードやらで足の踏み場を探すのが大変だ。
 これらを片付けるのが――毎度のことながら――自分と弘樹の仕事かと思うと、はゲンナリとした気分になる。
 弘樹も同じことを思ったようで、肩の力が心なしか抜けているように思えた。
 物を踏みしめて部屋へ入って行く叔父の後姿を見、は弘樹の服の裾を引っ張る。
「……頑張ろうね」
「ははは……そ、そうだな……」
 はなるべく物を踏まないように注意しながら、部屋の中へと入った。
 リビングも素晴らしい有様だが、この程度ならまだ許容範囲と言えた。
 自炊をしない叔父らしいというか……レトルト物の空容器が、キッチンにゴロゴロ転がっている。
「うぉーい弘樹、俺の部屋にピザのメニューが転がってるから、そいつを探してきてくれ。引っ越した当日に、に料理させるのもかわいそうだろ」
 後から入って来た弘樹は少々眉根を寄せ、特に文句を言うでもなく渋々ながら茂の部屋へと移動した。
 部屋に入った途端、「うわぁ」なんて声が聞こえたが、は無視する。
 ……片付けることを考えると萎えるからだ。
 とりあえず、手近な使用済みレトルト容器を捨てよう。
 このままでは、キッチンでお湯を沸かすのも困難だ。
「叔父さん、ゴミ袋は?」
「どこ行ったかねえ。叔父さん分かんない」
「仕方ない。手近なので済まそ」
 それなりの大きさがある袋をかき集め、その中にゴミを容赦なく放り込んでいく。
「一応聞くけど、私の部屋の方は散らかってないよね?」
「あっちはお前の領分だからな、叔父さんは使ってないよー」
 それを聞いて安心した。
 元々茂は、や弘樹の部屋を荒らすような真似をしたことはないのだが。
 それにしても、防音設備が完璧なのか、こそりとも外部からの生活音がしない。
 上の階の人が暴れようがなにをしようが、恐らくはなんの音も聞こえないだろう。
 壁が薄かったりするマンションには苦労が多いが、ここはそんな心配もなさそうだ。
 たっぷり十分ほどかかって、やっとゴミが片付いた。
 それと同時に茂の部屋から弘樹が戻ってくる。
「やっと見つかったよ……」
「ご苦労様。どうだった?」
 叔父の部屋は、と言外に聞くと、弘樹は首を振り、
「未開のジャングルレベルではないから、まだマシ」
 と答えた。
 未開のジャングルにまで成長していると、部屋を掃除するのに少なくとも丸1日を消費する。
 引っ越し早々、悲惨な目には合わなくて済みそうだ。
「ピザ、どれ頼む?」
 弘樹がにメニューを見せようとしたのと同時に、チャイムが鳴った。
 茂が弘樹に出るよう言い、彼は素直に従った。
「叔父さんが出た方がいいんじゃ」
「面倒だからな」
 なんだかなあと思いながらメニューを眺めていると、扉が閉まる音がした。
 非常に慌てたような閉め方だったなあと思い、は玄関へ足を向ける。
 茂も気になったのか、同じ行動を起こした。
 弘樹はというと、玄関扉を見たまま首を捻っている。
「どうしたの?」
……いや、なんか慌てて扉閉めて」
 すると、扉の脇についているスピーカーから不安そうな声が流れてきた。
『あの……ここは片山さんのお宅ですよね?』
 その声が見知ったものだったのか、茂が扉の向こう側の女の子の名を呼ぶ。
「優美ちゃん、大丈夫だから入っておいで」
『片山さん……!』
 弘樹が扉を開けると、安心したような表情の女の子が幾つかタッパーを持って立っていた。
 あ、と思わず声を上げる。
「あなた、駅で会った人だよね」
「あの時の……」
 驚いたように瞳を丸くする女の子――優美は、茂に視線を移した。
「おお、紹介が遅れたな。こっちは、こいつは弘樹。明日からアカデミアに通学することになってる。仲良くしてやってくれ」
「片山弘樹です」
 少々照れたように言う弘樹、
「片山です」
 笑顔で言う
 優美はよろしく、と言い、改めて自己紹介した。
「わたしは朝倉優美です。この上の階に住んでます。――あ、これ、よかったら食べてください」
 タッパーを渡され、は心から、本気で、ありがとうとお礼を言った。
 中には天ぷらや惣菜ものが詰められており、これで夕食がなんとかなりそうだったからだ。
 軽く会話をした後、彼女は立ち去った。
「……弘樹、よかったね」
 がポツリと呟くと、彼は顔を赤くしながら「なにだがよ」と反論する。
 べつにー、と濁しながら、タッパーを持ってリビングへ戻った。


 一旦自分の部屋へ戻ってから必要なものを準備し、入浴を済ませ、後はもう寝るだけという段階になり、はふらりと外へ出た。
 どこかへ行こうと思っていたわけではない。
 ただ――不思議と足が外へ向いた、というだけ。
 BGの夜の空気は科学庁によって調節されているというが、それでも風呂上りでは、多少の肌寒さを感じる。
 パーカーとスカートというラフな格好で、マンションの敷地を出て、近くにある小さな公園へと足を向けた。
 綺麗に整えられ、ゴミ一つ落ちていない公園の遊具は、人口の夜の光に照らされて寂しげに佇んでいる。
 その公園の中に人影を見て、は視線をその影に向けた。
 白いシャツに濃紺のズボン姿の長身の男性。
 端正かつ凛々しい顔立ち。
 普通であれば彼女と待ち合わせでもしているのかとでも思うのだが、いかんせんそう思うには、彼の雰囲気は異質すぎた。
 異質だと感じる自分がおかしいのだろうか。
 彼は普通に立っているだけだ。
 しかし、その視線はに向けられている。
 公園に入ったところで立ち止まったまま、暫く考えを巡らし、そうしてから口を開こうとした――瞬間、背中にひやりとしたものが走った。
 直感なのか、本能なのか。
 身体を捻りながら飛び退ると、今まで自分が立っていた場所に衝撃が襲ってきた。
 なにが起きたのかと、衝撃が襲ってきた方向に目をやると、
「……なに」
 奇妙な生物が浮いていた。
 形容し難い。
 奇妙にくびれた腰、腕部分から先がやたら太く、その先には鋭く長い爪が生えている。
 腰の下は急に太くなっており、所謂骨盤あたりから手より少々細い足がくっついていて、足先にはやはり鋭い爪が。
 その奇妙な生物は、ぎょろりと赤い目をに向けた。
 音声を全く発せず、無音の状態で飛び掛ってくる。
 生物の異常性に現実感がなくなっていたは、飛び掛られて瞬時の判断ができず、パニックに陥り腕で振り払おうとした。
 異常生物はの腕を爪で引き裂き、3本の傷を負わせる。
 浅くはあったが、痛みに顔をしかめ、じりじりと後退する。
 とん、と背中に暖かな感触がし、は後ろを見た。
 先ほどの男性が肩を支え、静かな瞳で見つめてくる。
 ――ざわり、波立つ感情。
 完全に状況と感情を持て余して、発すべき言葉が見つからない。
 彼はそれを承知しているかのように、あまり表情を変えず、を見つめ続けている。
「あれが見えているのか」
 優しく、艶のある声。
 初めて聞くその人の声を耳にし、はこくんと頷いた。
 彼の手によって、は手の平を異常生物に向けさせられる。
 なに、と疑問を挟む余裕もなく、ただ見知らぬ男性の手に自分をゆだねていた。
「気持ちを解放するんだ。体の中にある自分の力を解放すればいい」
「わ、分からないです、なにを言ってるのか」
「今は分からないままでいい。僕が手伝ってあげるよ」
 背中に当たる男性の胸や、掴まれた腕から流れ込んでくる、なにか。
 それを受けてなのか、自分の体の中から我先にと上がってくる、奔流のようなもものを感じ取っていた。
 手の平から燐光が出現する。
 驚いて体を硬くすると、後ろの彼は「大丈夫だ」と安心させるような言葉をくれた。
 異常生物はあちこち移動しているものの、の周囲から決して離れようとはしていない。
 既に手からの光は、燐光などではなくなっている。
 青白い光は今にも飛び出して行きそうで。
「――撃つんだ」
 彼の声に従ったという感じではなかったが、は丁度正面にいた異常生物に向けて光を走らせた。
 閃光が生物を射抜く。
 悲鳴を上げるでもなく、ただただ、その生物は形を崩して――残ったものは何もなかった。
 ふいに背中にあった温もりが離れ、は改めて彼を見やる。
「あの……あなたは誰? それに、さっきのは」
 彼は口の端を上げて笑む。
「いずれまた会うよ……恐らくは近いうちにね。先ほどの生物に関しても、同様だと思っていればいい」
 言うと、彼はきびすを返した。
 待ってと声をかけたけれど、立ち止まってはくれなかった。
 ――には聞こえなかった。
 彼が、『お帰り』と呟いたことに気付いてはいなかった。

 



いきなり御剣さん。
2006・9・21