勇者 2


 ――油断した。
 気づいたが時遅く、敵の爪はの身体に振り下ろされる寸前だった。
 剣でわずかに軌道を反らすも、肩の肉が引き裂かれる。
 痛みに気を取られ、続けて繰り出された逆手の爪には全くの無防備だった。
 ――やられる。
 大きく振り上げられたそれが身体に喰い込む直前、左肩に何かがぶつかっての身体は横倒しにされる。
 なんとか負傷した右肩を地に擦りつけず倒れたものの、背中を思い切り打ちつけて傷に大きく響いた。
 頭を打って脳震とうにならなかっただけましだろうと思いながら、無意識につむっていた目を開く。
 予想外の光景がそこにあった。
 少し離れた所で戦っていたはずのユーリルが目の前にいて、と対峙していた敵の腕をばっさりと切り落としていた。
 敵は痛みに雄叫びを上げながら暴れるが、下から斜めに斬り上げるように入った追撃で、その巨体を地面に横たえる。
 ――いつの間にこんなに強くなったんだ、彼は。
 思いながら、は己の失態に奥歯を噛む。
 礼のひとつも言えと軽口が降ってくるかと思いきや、ユーリルはその場に膝をついた。
、怪我……治さないと」
「言われずとも……っ、君……!!」
 荒い呼吸を繰り返しているユーリルの頬に、腕に、身体に、先程の敵からのものであろう爪痕が残っている。
 身体の方は防具のおかげでさしたるものではないが、頬や腕からは今も出血していた。
 慌てて回復魔法の上手いクリフトとミネアの姿を探すが、残りの仲間は全員、敵に邪魔されてこちらに来れない様子で。
「く……少し時間がかかるか……」
、今、回復するから」
 言いながらも立ち上がる力がないのか、彼はその場を動かない。
 は慌てて立ち上がると、ユーリルの傍らに膝をついた。
「肩出して」
「っ……君の方が先に決まってる!」
 回復しようと伸ばしてくる彼の手を抑え、は回復魔法を彼に掛け始めた。
 自らが負った傷の痛みはあまり感じなかったが、いつもの調子で治療できない。
 直接部位に触れ、なんとか腕の出血は抑えることができた。
 頬を包み込むように両手で触れ、頬の傷も癒す。
 応急処置としては上等だろうが、早くクリフトに頼んで完治させてもらわなければ。
「オレはもう大丈夫。次はの番」
「い……っ」
 ユーリルの手が、大きな傷を作っている彼女の傷に当たる。
 触れられたことで痛覚が敏感になったかのように、そこがどくどくと脈打ち出した。
 は口唇を噛みしめ、ユーリルの回復が行き渡るのを待つ。
 真剣な表情で治療を施している彼を見ながら、は胸の内に苛立ちが生まれているのを感じた。
 自分の不甲斐なさで、彼を傷つけた。同行者たちと離れすぎた所で戦っていたせいで、こんな失態を演じてしまった。
 けれどの口から出たのは、謝罪でも礼でもなく、
「君は……君は何を考えているんだ」
 怒り交じりの言葉だった。
 自分が煩わしくて、けれどもそれ以上に、傷を負ってまで自分を助けに来たユーリルに苛立って。
 彼は何も言わず、素知らぬ顔で治療を続けている。
「君がわたしを庇ってどうするんだ。君は勇者なんだぞ、わたしなどとは較べ物にならない重さの命なんだ」
 言えば、彼は呆れたように溜息をつく。
「そんなの知らないよ。オレはオレのやりたいようにやる。『勇者』だからって行動まで決められたくない」
「馬鹿な! 立場を分かっているのか!?」
 彼は唯一無二の存在。
 換わりの利くと同等ではない。
 彼の欠落はそのまま世界の欠損になってしまう。
 ユーリル自身がどう思っているかは分からないが、彼が思うより、彼は人間の命運を握っている。
 勇者がその旅の過程で倒れたのならば、はそれをひとつの結果として受け入れるしかない。
 けれども勇者が落ちた原因がにあるというのならば、話は全く違ってくる。
 己があるべきものを歪め、理を崩した存在になってしまうなど、彼女にとっては論外もいいところだった。
 は自分の役割をよく理解していたし、だからユーリルには努めて冷たく当たっていたが、彼のお人好しな性質はやはり周囲の傷ついた人間を放っておけないらしい。
「いっそ離脱すれば、君が今回のようにわたしのせいで傷つくことはなくなるか……」
「……なに馬鹿なこと言ってるんだよ。俺はそんなの許さないからな。リーダー権限で却下」
 思いの他鋭い瞳で言われ、は彼の、意外にきつい口調に気勢を削がれて口を閉ざした。
って、凄く立場を気にしてるよな。俺はそういうの嫌いだ」
 傷の痛みが徐々に引くのを感じながら、は無言のまま耳を傾ける。
 ユーリルの呟くような声に、仲間たちの剣戟の音が僅かに混じる。
「好き好んで勇者になったわけじゃない。……護りたい子を助けて、文句を言われたくもない」
「だから君を護るのはわたしの――え?」
 反射的に返した言葉の途中で、ユーリルの言葉が頭に入ってきて、は思わず沈黙した。
 絶句と言ってもいいような反応をするに予想がついていたのか、ユーリルは口元を緩めている。
「俺は、を護りたいんだよ。男勝りで頑固で、でも真っ直ぐな君を護りたい。……好き、だから」
 ――すきだから?
 は最早、肩の痛みなど微塵も感じなくなっていた。
 ユーリルの顔を見つめ、彼の中に冗談を見出そうとする。
 冗談だとしたら性質が悪いが、今まで彼に冷たい態度を取り続けた逆襲だと思えばいい。
 むしろ悪戯であってくれと願うのに、表情の中に嘘も偽りも、欠片も見出せなかった。
 ふたりとも怪我をして血だらけで、告白などというものは全くお呼びでない雰囲気の中、はユーリルの言葉を反芻する。
「……好き、だって?」
「うん。が好きだ」
 いつの間にか治療が終わっていたらしい傷口から、ユーリルの手が離される。
 傷は塞がっていた。あまり無茶をするとまた開いてしまうから、ミネアかクリフトにもう一度しっかり治療してもらおう。
 現実逃避のようにそんなことを思っていると、ユーリルの指先がそっと頬に触れた。
 いつもなら振り払うのに、そんな気力も湧かない。
「………………すまない。頭がぐらぐらしてきた」
「怪我のせい?」
「違う。――君が、わたしを好き? 完全に想定外だ。わたしは君にキツいことばかり言っていると思うんだが」
 好きになられる要素など、これっぽっちもないはず。
 嫌われるように努力してきた自分が阿呆に見えて、はがっくりと肩を落とした。
 ユーリルがくすりと笑う。
「実は俺も驚いてる。でも好きなんだ。ずっと一緒にいるって約束しようか」
「こちらの意思は無視か?」
「無視。だって、オレのこと嫌いじゃないだろ?」
 確信したような、どことなく生意気な瞳はひどくきらきらして見えて、は耐えきれず俯く。
 ユーリルの手の温もりが信じられないくらい優しい。
 そう感じる自分が厭わしくてたまらないのに、振り払えない己が愚かに思える。
 なすべき事のためには、非情である方が都合がいい。
 分かっているのに。
 ――ユーリルの告白を嬉しいと感じる心なんて、なくなってしまえばよかったのに。

 遠くで、仲間が二人を呼ぶ声がした。





2010・12・31