山の上



 マスタードラゴンの背に乗り、上空へ向かえば向かうほどに体感温度が下がっていく。
 空気も薄くなり、呼吸が浅くなる。
 目的の場所――セントエベレス山の神殿――に到着し、竜の神がこの場から離脱した時、は自分の吐く息が白くなっていることに気づいた。
、大丈夫か?」
 双子は外套を身体に巻きつけるようにしていたが、の言葉に大きく頷くと、冷えた身体を動かし始めた。
 筋肉が凝り固まっていては、敵襲があった際に危険だと知っているからだ。
 ひとしきり身体を解したは、ぽっかりと口を開いた神殿の入り口を見やって、寒さではなくぶるりと身体を震わせている。
 が二度ほど軽く跳ね、身体が充分動くことを確認してから、改めて周囲を見回す。
「お父さん、ここずいぶん静かだね」
「ああ……」
 は自分の知っている頃のこの場所を、知らず、思い出していた。
 ここは、たくさんの人の血と涙で塗り固められた場所だ。
 今は見事な建物としての体を成しているその全てを、奴隷が作り上げた。
 自分たちが逃げ出した後も、変わることなく奴隷は働き続けたのだろう。
 自然、険しくなる顔。眉間を指先で押し揉みすることで誤魔化した。
「さあ行こう。中へ入らないことには話が始まらないからね」
「はい」
 が頷く。
 は一度頷いたものの、その瞳が何かに引きつけられるかのように、正面の大きな建物から離れた。
?」
「……お父さん、こっちになにかあるよ」
 言って、彼は右手にある建物を示す。
 外観からは、彼の言う『なにか』はわからない。
 なにが起こるか分からないことを考えれば、無暗にあちこちを覗くべきではないのだが。
 は小さな勇者の目を見、頷く。
「分かった。中に入ってみよう。何か有益なものがあるかも知れないしな。ただし、注意するんだぞ」
 しっかり釘だけは刺し、右の建物に歩み寄る。
 今のところ異常は見られない。
 は豪華な金の扉を、ゆっくりと開いていく。
 僅かに空いた隙間からは、誰の姿も見当たらない。
 その部屋の中にあったものを見るや、は驚きの眼差しと共に扉を大きく開く。
 大きくはない建物の中、『それ』は中央に位置していた。
「まさか……こんな所に?」
 足早にそれに向かうと一緒に、もその物に向かう。
 この世のものとは思えない材質で作られた防具。
「天空の鎧――お父さん、4つのうちの、最後の一つだよ」
 呟いたのは、だった。
 無防備に、半ば放置されているようにさえ見える鎧。
 浮かんだ疑問に答えるように、が口を開く。
「きっと、わるい魔物は触れないんだわ」
 人の手を借りてここに置いたはいいが、消滅させることは出来なかったのかも知れない。
「これ、ボクが着ていい?」
「勿論だ。父さんが持っていても、宝の持ち腐れだからね」
 が鎧に手を伸ばす。
 気のせいか、銀の瞬きが強くなった気がした。




 大神殿の中に入った途端、異様な熱気に包まれては顔をしかめた。
 薄暗い室内は、かなりの広さがあるように思える。
 入ってすぐ、大勢の人の姿が見て取れた。
 と同時に、女性の声が奇妙な響きを持って聞こえて来る。
 説法だ。人間の世界は終わりを迎えて破滅するが、この教団に入っている者だけは救われる――光の教団お得意の言葉。
 からすれば噴飯ものの話だが、この場にいる信者らしき集団の誰も彼もが、わき目も振らずに祭壇の上で言葉を発する者を見つめている。
 見える範囲だけでも相当の人数がいるはずなのに、女性の声以外、物音ひとつしないのは異様だった。
「お父さん、あっちに階段があるよ」
 に示された方向には、薄紫の闇に紛れた階段が確かにあった。
 見張り役がいても良さそうなものだが、誰もない。
 この信者たちの様子を見る限り、全く必要がないからだろう。
 神殿の立地を考慮しても、外部から誰かが入ってくることなどないはずだ――普通ならば。
 先を行くについて、たちも階段を上る。
 広間をぐるりと囲むようにしている中二階の通路を抜けながら、要所に灯された紫色の灯りに浮かぶ信者の顔を見、は気持ち悪そうに首を振った。
「あの人たち、死んでるか生きてるかわかんない顔してるよ」
、しーっ!」
 が兄の声の大きさを諫めるように、指を己の口唇に当てる。
 周囲が恐ろしく静かなため、足音でさえ響くのだ。
 この上お喋りなどしようものなら、自分たちの存在は浮き立つに違いない。
 息子が慌てて口元を隠す様子を見ながら、は信者にとっては己らの存在など、ないものであるに違いないと思った。
 誰も彼もが、魂が抜けたような顔をしていたから。
 ――ふいに、説法の声が止まった。
 途端、信者たちの目が、一斉にこちらを向く。
 ぎょろりとした濁りのある瞳がまっすぐに向けられ、雰囲気の異様さと相成って、は恐ろしさに小さく声を上げ、は表情を強張らせて喉奥を引きつらせている。
 大人のでさえ、足を止めてしまう程の異常な光景。
 硬直した空気の中へ、女性の声が割り込んできた。
「……来訪者よ。ようこそ光の教団へ。さあ、こちらへ」
 祭壇を見れば、その上にある女性がゆうるりとした動きでたちを手招いている。
 は双子の背中を、安心させるように軽く叩き、歩を進めた。
 その間も信者の視線は、わずかなりとも逸らされずに張り付いてくる。
 それは祭壇の女性の側に来ても尚、外されることはなかった。
 説法を説いていた女性は、目深に覆いを被っていて、目元が見えない。
 顔色は奇妙に白かった。
「ああ、ようやく会えましたね。わたくしはマーサ、あなたの母」
「貴方が、オレの母親だと?」
「ええそうです」
 抱きついてこようとする女性を、は剣柄を持つ手に力を込めることで牽制する。
 後ろにいるが戸惑う気配があった。の行動に対してではない。『マーサ』の雰囲気に対して、だ。
……これからは一緒にいましょう。わたくしは光の教団に忠誠を誓っています。あなたも今後はわたくしに従って、神の国を作る手助けをしてくれますね?」
 綽々した態度で、当たり前のように綴る言葉。
 は笑い出したい気持ちになりながら、剣を取り出した。
「本性を現せ。――人間を模しているにしてはお粗末過ぎる!」
「何を言うのです、この母に偽りがあるとでも」
 未だ演技を続ける女性に向かって、が天空の剣を向ける。
 僅かに怯んだ彼女に、剣から放たれた光が当たって霧散した。
 瞬きの間に女性の姿は掻き消え、一つ目の巨人が現れた。
 がすかさずたちに補助魔法をかけ、攻撃力を増強させた。
「馬鹿な奴らめ、このラマダ様の言うことを素直にきいていれば、生き長らえたものを」
「残念だけど、ボクたちは負けないよ! お母さんもおばあちゃんも助けるんだからね!」
 が斬撃を繰り出す。
 ラマダは巨体に見合わぬ素早さで避けようとしたが、逆手に回ったと挟まれ、二人から同時に攻撃を受けることになった。
ッ」
「はいっ、お父さん! ――メラミ!」
 の号令と共に炎弾が繰り出される。
 顔面に直撃したそれに苦悶の声を上げながら、ラマダは棍棒をに叩きつける。
 軽々と浮き、祭壇上に転がるだったが、
「うっわ……!」
 直前にが掛けた防御力増強の呪文と、天空の鎧の力で、拍子抜けするほどけろりとしていた。
 攻撃したラマダの方が、手に痺れを訴えている。
「な、なぜだ、おれの力が」
 動揺する隙を見逃さずにが攻撃呪文を放つ。
 炎に巻かれているそこへ、飛び上がったが肩から斜めに身体を切り裂く。
 も、息をも吐かせぬ内に追撃した。
 天空の武具が放つ神聖な光に、巨人は本来の力すら出せずにいる。
 巨体がゆっくりと崩れ落ち、地に平伏した。
 ひゅーひゅーと乾いた呼吸をしながら、それでもラマダは蔑んだ目でたちを見ていた。
「た、たとえおれを倒しても、イブール様には敵わん……苦しみ、のたうつがいい、人間め……!」
 言い放ち、ラマダは事切れた。
 やるせないような目で見つめるの目の前で、その姿が塵と消えていく。
 首を振るの頭を、は慰めるように撫でていた。
 は大きく息を吐き、剣を鞘に収める。
 そうしてから、戦う以前から気になっていた――祭壇の上に置かれた石像に近付く。
 戦っているときよりも酷く響く心臓を、無意識に手で掴みながら。
 石像は、祈るように両手を組み、僅かに俯いている。
 微に入り細を穿った意匠は、一切の想像を省く程の造りで。
 は震える指先を、そっと石像の頬に触れた。



 やっと、やっとで会いに来たよ。
 ――だからどうか、その目を開いて。




2010・7・24