物言わぬ体



 は、自分の意識が表層に表れたことを感じた。
 ぶっつりと意識が世界から遮断されるのも、浮上もいつも唐突であり、脈絡がない。
 目覚める度に、少なくとも季節は変化しているように思う。
 前回目覚めたときには、周囲には花が咲き乱れていたように記憶しているが、今は樹木に青々とした葉が茂っている。
 夏、のようだ。

 デモンズタワーでゲマと対峙し、奇妙な力で身の動きを奪われてから、どれ程の時間が流れたのだろう。
 ――。愛しい妻。
 あの塔で石像と化したは、ゲマの手でいずこへかと連れ去られてしまった。
 はゲマを止めようとしたが、身体は沈黙したままで。
 そこでやっと、自分もと同じように石化しているのだと気づいた。
 はっきりと分かったのは、ゲマが立ち去ってそう間もない頃だ。
 塔に宝を求めてやってきた、荒くれの類であろう2人の男が自分を見て、『競売にかければ高値がつきそうな石像だ』と言ってのけた。
 その言葉を意識した瞬間、は――少なからず絶望感を味わった。
 ――ゲマが言った通り、このまま動けず、世界の終わりを見るのか。
 に触れられもせず、子供の成長を見られもせず。
 胸を掻き毟られそうな痛みと切なさ。
 そんなを、荒くれ者たちは『石像』として売り出した。
 買ったのは、どこぞの富豪。
 まさか本物の人間が石化しているのだとも知らず、富豪はを庭に――『守り神』として据えた。

 以来、の意識は浮沈浮上を繰り返し、時間の経過がぶつ切れだったが、自分の周りのことだけは、多少理解できた。
 富豪には、ジージョという子供がひとりあったこと。
 そして世界の情勢は、の意識が浮上するたびに悪化しているらしいこと。
 の目の前で、富豪の息子が魔物にさらわれたこと――。
 子供をさらわれたことで、富豪は怒りをあらわにを殴りつけ、地面に横倒しにした。
 石像の自分を本気で殴る程、彼は怒っていたのだろう。
 鍛えているわけでもない富豪の手が傷つき、血が滲んでいたのを覚えている。
 どこが守り神だと罵倒する男の姿に、は少なからず胸を痛めた。
 子供をさらわれた男。
 同じくも、妻を奪われた。
 目の前で暴虐を見ながらも、動けない自分。
 それはそのまま、愛しい妻をさらわれた時とそっくり同じですらあって。
 だから富豪の怒りは理解できた。
 自分のこの体を恨みもした。かといって、身動きは取れない。
 それからの体は横倒しにされたままだ。
 前回目覚めた時には富豪の家は活気付いていたし、視界に映る庭の姿も、もっと手入れされて美しかったように思う。
 うらぶれて見えるのは、やはり今まであった子供の姿や声がないから、かも知れない。
 ――は無事だろうか。
 ――は、幾つぐらいになったのだろうか。
 意識が浮上する度に思う、家族のこと。
 と一緒に、子供たちの成長を見守って生きていくことは、もう叶わないのだろうか。
 必ず妻を――もちろん母も――助け出す。その思いは変わらない。
 思いでこの石化が解かれるのなら、いくらでもそうする。
 だが、それなりに年月が経っているはずの今ですら、解かれる予兆すらない。
 改めてゲマの魔力の強さを思い知る。
 ほつれすら感じられない。自分の力で解呪できないのは明白だ。
 こうしている間にも、と子供が、恐ろしい目に遭っているかも知れないのに。
 永遠にこのままだったら――そう考えると恐ろしい。
 意識が摩滅し、本当の意味で『石像』になってしまうことが怖い。
 強烈な眠気に襲われて、深層意識に追いやられ、2度と目覚めなかったら。
 今のにできることは、自分という『個』をしっかり見つめて、本物の無機物にならないようにすることのみだ。
 ――ゲマは、何故を連れて行ったんだろう。
 奴はに、『監視できる位置にないと危ない』と言った。
 記憶のない
 その失われた情報の中に、ゲマが怖れるような何かがあるのだろうか。
 出会ったのは最悪な場所だったし、今考えると、あの教団は魔物の支配下に置かれていた。
 あの頃、魔物たちがの存在に気づいていたなら、彼女はとっくに屠られていたはず。
 ――子供の頃には気づけなかった、んだろうか。
 思えばは塔で、ジャミの強力な結界を消し去る光を放った。
 傷ついたと仲間の体を、不思議な術で治しさえした。
 捕縛を弾く程の光は、ゲマの言葉を借りるなら『天空人の血』のなせる業。
 だがもうひとつは?
 ゲマは『稀有な力』としか言わなかった。
 既知の魔法ではない治療の力は、彼女特有のものだと思えるが、にはその出所が分からない。
 恐らく当人さえ知らないだろう。
 彼女の記憶は、自分と出会う直前に始まっていたから。
 妻である彼女には、知らないことが多い。
 それでもを愛しているし、それは今後も変わらないだろう。
 ――諦めない。彼女と母を救うまでは、絶対に。
 物言わぬ石と化しても、望みは捨てないで持ち続けよう。
 願いと希望があればこそ、自分を保っていられる。
 実際にはため息などつけようはずもないが、意識の中で彼は深い意気を落とした。
 ふと、視線の端に誰かが引っかかった。
 思考に沈んでいる間に、この家の婦人が近場にやってきていたらしい。
 婦人はを見るでもなく、ただぼうっと、景色を眺めているようだ。
 ひどく儚い雰囲気を纏っている。
 以前と同じく豪華な衣に身を包んではいるが、当人に覇気がないためか、鮮やかな服の色もかすれて見えた。
「……ああジージョ。どこにいるの」
 吐き出される悲哀に満ちた言葉が、胸に痛い。
 婦人はをちらりと見、何を言うでもなく首を振った。
 彼女がそこにいることを認識しながら、の意識は次第に下へと沈んでいく。
 ――必ず目覚める。
 たとえどれ程の時が過ぎ去ろうとも、必ず目覚め、石化を解いて、妻と母を助けに行く。
 強く思いながら、は意識を落とした。




2009・4・22