が、正式に王になることを受け入れた直後から、城内は一気に慌しくなった。
 即位の儀式のための支度が始まったためで、他国への通達だの、儀式用の服の仕立てだのと、王城内を駆け巡る人の忙しなさといったら並大抵ではない。
 忙しさは城下にも伝染している。出入りの商人が増え、ここ数十年ではないほどの活気に溢れていた。
 が即位する。
 そのことは、グランバニアに多くの利をもたらすものだった。



グランバニア 4



 教会で祈りを捧げたその帰り、は少しの間、侍女のジゼルと一緒に街を歩いていた。
 右を見ても左を見ても、常より多くの商人たちが駆け回っている。
 新たな王が即位すると聞いてか、旅人なども多く来ているようだ。
 たいていは海側からの客で、さすがに南側の険しい山を越えてくるものはほんの少数だろうけれど。
「凄いね……活気付いてて、目が回りそう」
様。そろそろ戻りましょう? あまりお疲れになると御子に障りますし……」
 そうねと微笑む視界の端に、なにやら大量の本を持って歩く老人の姿が入った。
 老人は己の背丈ほどの量の書物を抱えており、見るからにふらふらしている。
「ジゼル、あの方ちょっと大変そうだし、手伝おうよ」
「あれはエジー様だわ。……また無理して本を運んでらっしゃるのね」
 エジーというのは確か、研究者だったはずだ。
 は自分が魔法を使った時に起きる変調について、その研究者に尋ねようと思っていたのだが――ゴタゴタが続いて、訊けず終いだった。
 この機会に話をしてみてもいいだろうと、彼女はエジーに話しかける。
「こんにちは、エジー様ですね?」
「おおこれはこれは王妃さま」
「厳密には、まだ王妃じゃないですけど……それはともかく、手伝います」
 本に手を出そうとしたを、ジゼルが止める。
 代わりに彼女が、エジーの持つ本のおよそ半分ほどを持った。
様っ、身重であるということをお忘れにならないで下さい! それに身分というものを少しは自覚なさって下さいッ」
「は、はい……すみません……」
 物凄い剣幕で怒られ、肩を落とす
 エジーは目を瞬き、それから声を上げて笑った。


「……研究者というわりに、本があんまりないんですね」
 エジーの部屋は思いのほか小さく、こざっぱりしていた。
 無骨な、けれど温かみのある木の机と椅子。
 机の上には、読みかけらしい本が広げられていた。
 窓からの明かりを避けるように、端に追いやられた小さな本棚。
 魔法に関係する物事が書かれた羊皮紙が壁に貼り付けられ、研究者らしいといえばその部分ぐらいだ。
 エジーはきちんと切りそろえられた白髪頭を軽く掻く。
 微笑む彼は、ちょっと見では老人という言葉が似合わない気がした。
「仕切り布がございましょう? その奥は……様が思う『研究者』らしくなっておりますよ」
「これ……?」
 部屋の奥にある仕切り布を手にして、更に奥を見てみる。
 暗がりゆえ、最初はよく分からなかったが――とにかく膨大な量の蔵書がそこにあることだけは分かった。
 所狭しと本棚に詰め込まれた、古いものから新しいものまで、大量の本がある。
 床にも広げられたそれらは、まさに足の踏み場がないといえよう。
 一緒にそれを見たジゼルが、嫌そうな顔をした。
「エジー様。少しは片付けるという言葉を覚えて下さいよ」
「こちらの部屋は片付いておろうよ」
「……そういう問題でしょうかね」
 呆れたように肩をすくめるジゼル。
 は苦笑し、エジーに勧められるままに椅子へと腰かけた。
「それで、わたしに御用ですかな」
「はい……その……なんと言っていいか……難しいんですが」
 言葉を選ぶ間、エジーは口を挟まなかった。
 ジゼルも椅子に腰掛け、がなにを言うのかとじっと待っている。
 ややあって、は小さく息を吐いた。
「魔力切れを起こすと倒れたり、ふらついたりするんですが……これって普通のことですか?」
 彼は難しい顔で首を振ると、机に指先をつけ、2、3度軽く叩いた。
「……人には自衛本能というものがございますな」
 は知らず自分の手を温めるように、片方の手で、もう片方を握りこんでいる。
「体力は消費し続ければ命を脅かす。魔力も同様です。いくら限りを超えて魔力を顕現させようとしても、反応しなくなる」
 いったん言葉を切り、彼はまた続ける。
「普通、魔法を使う人間というのは、魔力が無になることはありません。メラ一発さえ打てぬ状態でも、本能が『動ける』程度の力を保存している。彼らにとっては、魔力は第2の体力ですからな」
 今まで押し黙っていたジゼルが、眉を潜めた。
「じゃあ、様は普通じゃないっていうんですか?」
 怒りを向けるジゼルに、は苦笑する。
 彼女の気持ちはありがたいが、自身、己が『普通』であるとは思われない。
「……普通じゃない、と思う。だって私、誰に学んだわけでもないのに魔法全般を知ってたんだもの」
 エジーは驚いたように目を瞬き、次いで、難しい顔をした。
 は更に続ける。
「私、天空の武具に触れると、訳の分からない映像を見るんです。見たことのない人だったり、聞いたこともない会話だったり……」
「あれらの武具は、人知の及ばない力を発揮すると言いますからな」
 何故、自分には記憶がないのか。
 何故、と結婚してはいけないと思ったのか。
 自分の出身地はどこなのか。
 もしかしたら、天空の武具が呼び水となり、自分を『理解』させてくれるかも知れない。
様。考えすぎてはなりませんぞ。もしも貴方の記憶や体質に意味があり、逃れられないなにかが付随しているのなら、いずれつまびらかになりましょうよ」
「そう……ですね。きっと……」
 微笑むは、けれどもう一度、あの武具に触れてみようと思った。



 天空の武具。
 かつて勇者が身につけ、世界を滅ぼさんとした者を討ち果たした神具。
 それらは今、王城の一室に、厳重に保管されていた。
 兵士に頼んで鍵を開けてもらい、足を踏み入れる。
 静謐な気配が横たわる中に、天空の剣と盾が、ただ静かに己を扱える者を待っていた。
 触れない方がいいのかも知れない。
 思いながらも、これが自分が知る限りでは唯一の、記憶への扉だと理解している。
 見せられる映像に意味があるのかないのか、確信はない。
 記憶を呼び起こすことが良いことか、その逆なのかも。
「……けど、このままじゃ先に進めない気がするの」
 誰にともなく呟き、は指先を天空の剣に触れさせた。




2008・8・19