グランバニア 3



 身重というのは大変だ。
 呟きながら、日に日に重くなる体を動かしながら、は雑巾を絞る。
 よいしょと身体を持ち上げて、窓を拭こうとした途端、後ろから悲鳴が上がった。
様! 何をなさっておいでですか!!」
「な、何って……掃除……」
「そのようなことは、わたくしたち侍女にお任せくださいませッ」
 思いきり、怒られてしまいました。



 剣は無理でも、せめて魔法の訓練ぐらいはできないものだろうか。
 かといって、兵士の訓練所に足を向けては怒られてしまうし、他の者たちに気を使わせる。
 正式には王妃になっているわけではないのに、既に扱いはそのものだ。
 は今、オジロンに呼ばれて会議室にいる。
 王になれと説得されているのだろう。
 彼がいないとは暇で仕方がない。
 仲間のモンスターたちは、兵士の訓練につき合わされているし。
 掃除をすれば怒られるし。
 仕方なく、こうして空中庭園でぼうっとしているわけなのだが。
 長椅子に腰を下ろし、帯剣もせず、花壇を見つめているなんて、少し前なら考えられないことだ。
「お暇ですか?」
 側に控えていた、付き侍女のジゼルが問う。
 ジゼルは浅茶色の髪と大きな目をもつ、よりもいくつか年若い女性で、王宮に不慣れなを、よくよく世話していた。
「暇っていうか……暇だね……」
 身体のことを考えれば、無茶はできない。
 出産日はもう目の前。いつ来てもおかしくない、と言われている。
 その日が待ち遠しいような、恐ろしいような。
様は、魔法が得意なのですか?」
 あまりに暇そうに見えたのだろう。
 ジゼルが気を利かせてか、話題をふってきた。
 は彼女を自分の隣に座らせた。
「剣より魔法かな、扱い易いのは」
「魔法を使えるなんて、とても素晴らしいです。どこかでお勉強を?」
「さあ? 本格的に学んだ覚えはないの」
 気付いたら、知っていた。ただその程度の認識。
 幼少の頃から、ありとあらゆる呪文を知っていた。
 けれど、知っていることと使うことはまた別物。
 経験を積むことによって、使えるようにはなったけれど。
「ああ、そうだ……ジゼル。魔法を使いすぎると、倒れそうになったりするもの?」
 と旅をしている中で、は魔力切れを起こすと、気を失いそうになる自分に気がついた。
 サラボナの町で不思議な武器屋に剣を貰い、それ以降、そんなこともなくなっていたのだけれど。
 ふと思い出して聞いてみたのだが、
「え……? そのような話は聞き及んだことがございませんが……」
 やはり、普通ではないらしい。
「魔法について詳しくお知りになりたいのでしたら、階下におられます、研究者のエジー様をお訪ねになられては」
「研究者……うん、そうしてみる」
「これはこれは、様」
 いつの間に側に来ていたのか、大臣の姿が傍らにあった。
 はぎくりと身をすくませる。
 大臣は恰幅のいい体格を折り、頭を下げた。
 も慌てて頭を下げる。さすがに立ち上がれはしないが。
「こちらで歓談でございますかな」
「あ、はい……」
 こくりと頷くと、大臣は横に控えているジゼルをちらりと見て、大きな咳払いをした。
様はこの国の王妃になられる方。あまり気さくにされては困りますぞ。――では、失礼」
 大臣はまたも一礼し、体格に似合わない速度で、すたすたと歩いて行ってしまった。
 は唖然とし、ジゼルを見やる。
 なんだったのだろう、今のは。
 王であるオジロンは、よくよくの見舞いをしてくれたり、気を使ってくれたりするけれど、大臣とは余り交流がない。
 会話も、数える程度にしかしたことがなかった。
 人となりが読めない。
 ジゼルが溜息をついたことに気付き、は彼女を見た。
「し、失礼しました……。ですがその……」
「何か思う所が?」
「……その、わたくし如きが申すべきではありませんが、王になりたいのではないでしょうか」
 は目を瞬く。
 ジゼルの瞳は真面目そのものだ。
「実際、オジロン王は大臣を信頼なさっていますし、国政についてもかなり大臣の進言に耳を傾けるそうです」
「そうなんだ……」
 の帰還は、オジロンや多くの民にとっては、最高に喜ばしいことだ。
 戻ってきた王子のことを悪し様に言う輩など、見たことも聞いたこともない。
 けれど、少なくとも大臣にとっては、望まれざることだったようだ。
「申し訳ございません……様のご不安を増長させるようなことを」
「ううん、ありがとうジゼル」
 礼を言うと、彼女はほっとしたように微笑んだ。


 その日の夜。やっとで戻ってきたは、ひどく難しい顔をしていた。
 はどうかしたのかと問うことなく、ただ、彼に添う。
 暫くは黙ったままだったが、ひとつ息を吐き、が口を開いた。
「なあ。俺が王様になるって、どう思う?」
 いきなり難しいことを聞いてくれるものだ。
 少し考え、言葉を纏める。
「私は、はきっといい王様になるだろうって思うの」
 優しく、人に対して思いやりがある。
 時には厳しいことも言うし、そういった判断を下すこともあるが、甘いだけでは、国家はやってはいけない。
 賢帝になるかどうかは分からないが、いい王様になってくれると、本気で思う。
「褒めすぎだろ」
「そうかな?」
 自分の夫だからと、評価を甘くしているつもりはない。
 微笑むはやんわり首を振った。
「……正直言って、自信がない。というより、貴族に向いていないのだと思うんだ」
 貴族――王族としての知識など、蓄えていない。
 それどころか、きちんとした教育さえ受けていないのだ。
 も、幼い頃は奴隷として生活していた。
 奴隷の中には博識な人や、勉強のできる人もいて、基本的なことは彼らに教えてもらった。
 だから、実生活で困るようなことはない。
 だけれども、普通の生活に支障をきたさないからといって、王族の生活に馴染めるわけもない。
 帝王学? なんだそれは、という状態だ。
 は頭を抱えるの服の裾を掴み、軽く引く。
「ねえ、はこの国が好きでしょう?」
「勿論だよ。親父の国なんだから」
「マナーとか、国民のためにとか、国のためにとか、色々考えなきゃいけないことは、あると思うの。でも……」
 でもきっと。
「大事なのはそこじゃなくて、がこの国を好きだっていう一点だと思う。でなきゃ、国と民のために心を砕けないもの」
 さらりとが口にした言葉に、は目を瞬く。
「私たちは奴隷だった。だから、虐げられる者の気持ちが多少なりと分かる。それって凄い強みだと思うし」
 一生懸命に言葉を探す
 は微笑んだ。
「……、俺を支えてくれるだろう?」
「私ができることでなら、いくらでも」
「充分過ぎる言葉だね」
 何かを決意したみたいな彼の瞳は、とても凛々しかった。


2008・7・28