は、衝動的にあの場から逃げてきたものの、自分が何をしたいのか、全く分かっていなかった。
 いっそこのまま旅に出ようかとも考えるが、一方で、と共に居続けたいとも思っている。
 2つの思考に挟まれ、は苦しそうに顔を歪めた。
 涙が鬱陶しくて、乱暴に目を擦る。
 教会前の噴水広場――噴水の縁に座りこみ、荷物を床に置いたまま、は深く息をついた。


誰でもない君へ 2


「ごほんっ。……どうするのかね」
 ルドマンがわざとらしい咳払いをし、が出て行った扉を、じっと見つめているに声をかけた。
 ビアンカもフローラも、どうしていいものやら分からず、互いに視線を行き交わしている。
 は静かに息を吸い、吐いた。
 ルドマンは髭に手をやって唸る。
「どうかね殿。殿の件はなかったこととして……」
「ルドマンさん」
 凛としたの声に、その場にいる誰もが息を飲んだ。
 彼はルドマンに視線を向け、静かに一礼する。
「すみません。ビアンカやフローラさんにも、謝ります。――俺、を追います」
「ま、待ちなさい殿。彼女は君を拒絶しただろう。だからその……」
「もし本当に彼女が俺を嫌なら、もっとはっきり拒絶してもらいます。あんなの、拒否だなんて思わない」
 言うと、ビアンカに視線を向けた。
 彼女の胸が跳ねたことなど、には知る由もない。
「ビアンカすまない。必ず送っていくから、もう暫く時間をくれ」
「……。ええ、分かったわ……」
 頷くビアンカ。
 はもう一度、全員に一礼し、勢い良く扉から出て行った。



 暫くぼうっとしていただったが、このまま噴水の縁に座り続けていても仕方がない。
 はノロノロとした動きで立ち上がろうとし、いきなり日が陰ったことに驚いて顔を上げた。
「……
「……隣、いいか」
 はひどく真面目な顔で、は悩んだけれど、結局頷いた。
 さっきはあんな風に飛び出してしまったが、それが正しいことだなんて思ってはいない。
 話すべきだと、そう理解はしていたから留まった。
 話すべき何かは、さっぱり分からなかったけれど。
「………は昨日、ここで俺に告白してくれたよな」
 たっぷり5分以上黙ったままだったが、やっとのことで口を開いた。
 横からの視線を感じ、はそちらを向けない。
 スカートをぎゅっと掴み、敷石を見つめていた。
 それは紛れもない事実だったので、は沈黙を肯定と取ったのだろう、話を先に進めた。
「けど、俺と結婚はできないって、どうしてだ?」
「それは……」
 何故だかは、すぐに答えられるほど簡単なものではなかった。
 確たる理由があるわけではない。
 どんな風に言っても、言った当人すら、納得できそうもない有様だ。
 困惑している彼女の様子に、は微かに笑む。
「いいよ、どんな理由でも。言いたいことを全部言ってくれれば」
「……あのね」
 優しい物言いに、は少しずつ考えを纏めて、ぽつりぽつりと話し出す。
 本人すら言うことに困っている状況なので、随分と訳が分からない説明になっていたかも知れないが、それでもは呆れずに最後まで聞いていた。

「つまり、理由はさっぱり分からないけど、俺とが一緒になるなんてこと、絶対にあってはいけないことだって言うのか?」
 純粋に疑問を滲ませたに、は頷いた。
 ――理(ことわり)を崩してはならない。
 脳裏に浮かんだ言葉は、けれど今更な話だった。
 自分の気持ちを伝えたいという誘惑に負け、に告白してしまった。
 受けてもらえるとも思っていなかったから、気持ちだけでも――というつもりだったのだが。
 『はい』の返事を貰って、こんなに悩むなんて、思ってもみなかった。
「ビアンカもフローラも美人だし、きっとの支えになる。私なんかより全然」
「俺は、の支えが欲しいんだ」
「わ、私には……父親も母親も、いるか分からないよ。に家族を作ってあげられない」
「家族は、2人で作っていけばいいだろう?」
「でも……でもっ……」
「どうしても俺と一緒になりたくないっていうなら、はっきり拒絶して欲しい。俺が今すぐを嫌うぐらいに」
「そんなのっ……言えないよ……。だって、私はが……」
 知ってる、とばかりに彼はの髪を撫ぜた。
 きつくきつく、拳を握り締める
 ――怖い。
 受け入れたら、ひどく多くのことが変わってしまう気がして。
「……とにかく、絶対にだめなの。私という存在は、のこれから先に、物凄く多大な問題を与えてしまう」
 それだけは、奇妙なほどはっきり口に出来た。
 自分は、彼にとって不利益にはなるが、利益にはならない。
 は、自身の爪で傷さえつけそうなの手を、優しく包み込んだ。
 震える彼女を落ち着かせるように。
。この先、もし俺にひどい問題が降りかかってきても、俺は君を怨んだりしないし、決して君を手放したりしない。――約束する」
 は、ゆるりと顔を上げた。
 するとは、どことなく懐かしそうな顔で微笑んでいた。
「どうしたの……?」
「いや、こんな風に約束するの、2度目だと思って」
 小さい頃。つまり、奴隷時代。
 思い出したくもないはずの記憶だが、にとって、その約束は大事なものだったから、すぐに思い出す事ができたようだ。
 けれどもの方は、記憶が曖昧で。
「え……っと、どんな約束だっけ」
「酷いな、俺はずーっと覚えてたっていうのに」
 は小さく笑み、優しい声で言う。
「絶対に、を手放さないって。あの時は家族がいない君を励ますためだったけど、今は俺がそうしたいからだ」
 口を噤んだままの
 彼は苦笑する。
 は、驚かせないように、慎重に彼女を抱き締めた。
 は逃げたりしなかった。
 彼は小さく震えるの身体を、子供の頃にそうしたよりもずっと、優しく優しく抱きしめた。
 嫌がらず、彼の腕の中に収まる。
 ――温もりが優しい。
「俺はと結婚できないなら、誰ともする気がない。だからが1人で旅をする理由もない。だろ?」
「……私のせいで、天空の武具が手に入らなくてもいいの?」
「方法は考えるさ。俺はが好きだから……だから、一緒にいたい。いさせてくれ」
 回された腕に力が入る。
 強く抱きしめられ、は目を閉じた。
 彼が選んでくれた。
 選ばれるはずがない、選ばれてはいけないはずの自分を。
 選んでくれた気持ちを、無駄にしたくなかった。
 違和感を理由にして、好きだと言ってくれる人――まして自分も好きだと思っている相手――の言葉から、もう一度逃げるなんてできなかった。
 そっとの目を見つめ、急速に乾いていく感覚を覚えるノドや口唇を無視して、告げるべき言葉、本心からの言葉を告げる。
「――本当に、私でいいの? 記憶もないし、を幸せにできないよ」
「記憶なんて関係ないだろ。それに……が傍にいてくれるだけで、幸せだと思える。今までがそうだったんだから、これからだってそうさ」
 胸に流れ込む暖かなそれは、本当は違う人のものだったかも知れない。
 けれど、は今、のくれる暖かさを抱きしめ、この人とずっと一緒にいようと――決めた。
、俺と結婚してくれ」
「……私を、お嫁さんにして下さい」



と言う事で、ある意味円滑にコトが進みました。
2006・11・24