が立ち去って後、はただ、その場に立ち尽くしていた。
 暫くそうしていたが、崩れ落ちるようにして噴水の淵に座りこむ。
 自分の手を包み込むように、ぎゅっと握った。
 耳にした事をきちんと咀嚼し、理解するのに、そう時間はかからなかった。

 ――好きだと、確かに彼女は言ったんだ。



誰でもない君へ 1



 ベッドから体を起こしたはカーテンを開け、朝日を浴びる。
 このまま、何も言わずに消えてしまいたい気分ではあったのだが、それはにも、これからと結婚するどちらの女性にも、失礼に当たりそうな気がして。
 目線をベッドの端に移せば、昨日のうちに纏めた荷物が視界に入った。
 元々、苦労するほど荷物はなかったので、整理は簡単なものだった。
 1人で旅をするようになれば、もっと増えるかも知れないが。
 のろのろと着替えを済まし、時間を確認した所で、戸をノックする音が耳に入った。
 鍵を開けると、予想通りの人物が。
、おはよう」
「おはよう。一緒に食事するだろう?」
 同意し、と連れ立って、宿屋の外で食事をする事にした。
 適当な店に入って食べ歩きをしてもいいような軽食を頼み、店内ではなく外で食べる。
 は香草ミートサンドを口に運びながら、流れてゆく人々を見つめた。
 おそらくはの結婚の準備でなのだろう。慌しく動く人々の殆どが浮ついているし、何より持っているものが祝儀物だったりもするので。
 あえてそれには触れず、はいつもと同じように振舞う。
 最後になるであろう、『彼との日常』を噛み締めるように。
「ねえ。鉄の剣の手入れ方法は分かるんだけど……私の持ってるような剣って、どうすればいいのかな?」
 腰に差した剣を取り出して見せる。
 薄い白をした刀身は、鉄でもなければ鋼でもない。
「確か、白光石っていうもので出来てるって、買ったお店の人が言ってたんだけど」
「石か……そうすると、研磨石か何かで研ぐのが一番だろうけどなあ……俺が見る限りでは、それも必要ない気がする」
 は剣の腹をじっと見つめ、何を思ったか道具袋から花油を取り出した。
 そうしてから、剣の腹に油を垂らした。
 彼は、暫く液体が流れるのを見ていたが、ふいに止めてに手渡した。
「もし気になるなら、まあ……時折研磨石で汚れの部分を研いでやるとか、その程度でいいと思う」
 言い、彼は先ほど油を流した部分を示した。
「油の流れた跡が全く残らない。ちょっと不思議な剣だな。天空の剣に似ているよ」
「私にはちょっと白めの普通の剣に見えるけど……」
 かざして見ても変化があるではなし、ましてや天空の剣のように、特殊な何かが備わっているとも思えない。
 いまいちしっくり来ないが、ともかく剣をしまって食事に専念した。

 ……こうして何気ない話をしてる時間が、とても大切であると気付いたのはいつだろう。
 は気取られぬほどの小さな息を吐く。
 旅をしているうちに好きになった?
 奴隷時代?
 考えてみればみるほど、どれも違う気がしていた。

様。こんなところにおられたんですか!」
 伏せていた顔を上げれば、いつの間に来たのか、目の前にルドマン邸のメイドさんが。
 あちこち探したのか、少し息が上がっている。
「すぐお屋敷へ。ルドマン様がお待ちです」
「あ、ああ……ありがとう」
 困惑したような表情で、ちらりとを見る。
 は苦笑し、の肩を突付いた。
「行きなよ」
「……分かった。でも、も一緒だ」
 思いも寄らぬ一言に、は目を丸くする。
 一緒にルドマン邸へ行く事など、予想していなかった。
 彼が屋敷へ行ったら、そのまま自分は、独り旅を開始してしまおうと思っていたので。
 探るようにメイドに視線を移せば、既にルドマンから手配されているのか、頷くのみだ。
 は完全に連れて行く気らしく、の腕を掴んでいる。
「分かったから、手、離してくれない?」
「逃げ出したそうな顔をしてるから、繋いでおくよ」
 小さく笑み、は先を行くメイドの後について歩き出した。


 ルドマン邸についた
 大広間への入口まで来て、に掴まれていた手を強く解こうとした。
 結局の所、無駄な労力になったのだけれど。
 先に中へ入っていたメイドが戻ってきて、2人に一礼する。
「それでは……お二方ともお入り下さい。中でお待ちです」
 誰が中で待っているのかとは聞かなかった。
 決まりきっている事だからだが、は、その場に行く事を躊躇ってしまう。
 その場所は、自分がいる場所じゃない。
 居ていい場所じゃないと感じているから。
 けれどは手を離してはくれず、しかもメイドも、それを後押しするかのように――実際は何も考えていないのだろうけれど――中へ入った直後、扉を閉めた。
 しん、とした広間。
 その中央にルドマンがある。
 そしてルドマンから見て左にビアンカ、逆側にフローラが立っている。
殿、こちらへ。……うむ、殿は見ていてくれて構わんよ」
 不安そうな顔をしているに、ルドマンはそう告げた。
 ぺこりとお辞儀をし、から離れて――右の壁近くに寄る。
 は、ビアンカとフローラから少し離れた丁度真ん中に立ち、ただ静かに事を待っている。
 ルドマンが一同を見回し、こほんと咳払いをした。
「さて殿。以前からの通りだが……今、この場で花嫁を選んでもらう。さあ、どちらでも好きな方を選びなさい」
 はまず、視線をフローラに移した。
 彼女はから見ても可憐で、恥ずかしそうに俯いている。
「わ、わたくしは……待つことしかできない女です……それでも宜しければ……」
 次に彼はビアンカを見やる。
 快活で美しい女性。
 それはこの場でも全く変わらない。
 気安さをもった笑顔で、の視線を射抜いた。
「何を迷ってるの? わたしに気を使う事なんてないわよ。今までだって1人だったんだもの。父さんもいるし、大丈夫よ」
「ビアンカ……」
 は視線を落とした。
 そのまま、時間が止まったかのように彼は動かなくなる。
 考えている。
 悩んでいる。
 この場に至っても尚悩むのも、には分かる気がした。
 どちらも、タイプは違うがステキな女性である。
 どちらを選んでも、は幸せになれる気がした。
 は瞳を伏せ、ただひたすらこの場の空気に耐えていた。
「……ルドマンさん、すみません」
 が静かに声を発する。
 それに釣られ、は今まで床に落としていた視線を上げた。
 フローラもビアンカも――ルドマンも、を見つめて、静かに彼の言葉を待っている。
「僕――いや。俺、ずっと考えてました。今日の今日、今の今まで。知らないままだったら、きっと心は簡単に決まった。でも知ってしまった。――自分に嘘はつけない」
殿?」
 怪訝そうに言うルドマンに苦笑し、は静かにひとりの女性の前に立った。
 金色の髪、蒼い瞳を持つ――の前に。
「……?」
 は正面に立った青年の姿を見て、目を瞬かせた。
 何が起きているのか、何が起こったのか、全く理解不能の状態。
 そう――彼は結婚相手を選ぶためにここにいる。
 その彼がどうして目の前に立っているのか。
 思考が混乱し、目線があちこちに飛んだ。
「あ、の……?」
 彼はいつもの優しい笑みを浮かべ、の手を取る。
「――昨日、君に好きだって言われてから、ずっと……考えてた」
 は黙して語らない。
 語る言葉を持たない。
。君はずっと俺と一緒にいた。俺が誰かと結婚することで、が俺の傍から離れるなら、結婚なんてしない」
「な……何言ってるの? そんなのダメだよ! 私のせいで――」
「だから」
 言葉を遮り、は続ける。
「だから。……俺の言いたい事、分からないか?」
 意地悪く笑むと、の頬に手を添える。
「――俺は君を選ぶ。、君をだ」
「そっ……そんなのダメだよ! 私じゃない、私じゃ……選ばれる誰かに、私は入ってない!!」
 は彼の手を振り解いて逃げ出そうとする。
 しかしは許さず、両手を掴んで壁に押し付けた。
「なんでだ? 俺を好きだって言っただろう? 前からそうだ。は俺に関して頑なになる事がある……どうしてだ?」
「分からない!」
 に惹かれている。
 告白だってするほどに。
 それ程惹かれているのに、彼が自分を選んでくれた事が、物凄い違和感となって体を包み込む。
 彼が選ぶべきなのは自分じゃない。
 自分じゃない誰かだから。
 失われた記憶に関係しているとしか思えない、不可解な予感と違和感。
 思考がごちゃごちゃになり、どうしていいのかも分からず、は知らず涙を零していた。
 その涙が、意味のある理由なのか、そうでないで流されているのかも理解できない。
「……お願い、手を、離して」

 彼女は何も言わず、静かに首を振る。
 は掴んでいた腕を離した。
「…………ごめんなさい。嬉しいけど、駄目なの。それだけは、絶対に駄目」
 は彼の瞳を見ることができず、唇を震わせた。
 ――理を崩してはいけない。
 脳裏に浮かんだ言葉に突き動かされるように、は扉から飛び出した。



2006・11・14