「本当にいいんだな?」
 山奥の村の出入り口で、最後の後押しをする
 ビアンカは答える必要がないとばかりに、にっこりと笑みを浮かべた。


水門を越えて


 村を出てすぐに、主人が戻ってくるのを察したらしいプックルと、彼の背に乗っているスラリンが茂みの中から現れた。
 村の中に連れて行くわけにはいかなかったので、近場で待機していてもらったのだ。
 スラリンがの頭にぼん、と乗る。
「おかえりー」
 ぷるぷる体を揺らしているスラリンを、頭の上から手元に下ろして抱きしめる。
「ただいまっていうのも変だけどね。危険な目にあわなかった?」
「うん。プックルがいたからへいき。それに村のあたりは魔物がすくないよ」
「そっか」
「きゃあ! もしかしてこの大きいのがプックル!?」
 の横で声を上げたのはビアンカ。
 が頷くと、彼女は嬉しそうにプックルに近寄ってその頭を撫でる。
 彼もノドを鳴らして喜んでいた。
 幼い頃の恩人を、しっかりと覚えている。
 キラーパンサーといえば肉食の恐ろしい魔物として知られているが、プックルを見ていると、そんな事は何かの間違いではないかと錯覚する時がある。
 無論、全てのキラーパンサーがそうではないのだけれど。
「うわぁ〜。大きくなっちゃって。プックル、わたしの事覚えててくれたのね」
 感激とばかりに、プックルのふわふわの毛皮にぎゅっと抱きつくビアンカ。
 は苦笑いと共に彼女に声をかける。
「ビアンカ、悪いけど――」
「感動の再開ぐらいちゃんとさせてくれたっていいのに。まあいいわ。水門の鍵のことなら、このお姉さんにまかせなさい!」
 どん、と胸を叩く彼女。
 少しむせているのはご愛嬌である。


 ビアンカが教えてくれた道――まさに獣道という言葉がぴったりだった――を通って船へ辿り着いたのは、山奥の村に向かうより、断然早い速度だった。
 村の人間が非常時に使うという道だったらしく、行きの半分程度の時間で到着した。ただし、悪路というに相応しい状態で、急ぎでなければ通りたいとは思わない。
 渡り橋を出してもらい、ぞろぞろと船の中へ入っていく。
 船乗り達は、が戻ってきたことであくせくと動き始めた。
 が周囲を見物していたビアンカに声をかける。
「ビアンカ、とりあえず水門開けてくれるか」
「ええ、いいわよ。じゃあ上へ案内してくれる?」
 が頷き、それからを見る。
、悪いけど仲間の様子を見てきてくれ」
「うん。じゃあまたね、ビアンカ」
 また、というほど離れる気もしないのだが、とりあえずそう言い、は2人に背中を向けて仲間(魔物)たちの部屋へと向かった。


 ゆるりと船が動き出すのを体に感じ、上を向く。
 向いた所で見えるのは天井であり、目を楽しませるものではない。
 仲間たちは船員にきちんと食事を貰っていたようで、全く問題はなかった。
 1日、2日程度で体調に問題をきたす魔物というのを耳にした事もないが。
「さて。じゃあ私ちょっと甲板に出てくるね」
 言い、部屋を出ようとすると――プックルがついてきた。
「ん? ビアンカのとこ行くの?」
 首を横に振る。
 はしゃがんでプックルと目線を合わせた。
「なぁに。私の事心配してくれてたり?」
 これにはぐるると唸り声。
 そして、正解とばかりに頷いてくれている。
 獣の直感だろうか――に対してのの意識の変化を、プックルは感じ取っているのかも知れなかった。
 ふわふわの頭を撫で、微笑む。
「ありがと。じゃあ、一緒に行こうか」
 プックルと一緒に甲板への道を行く。
 階段を上り、海風が流れる場所へ出た。
 既に水門を抜けており、船尾のはるか後方に枠組みがかろうじて見える。
 船の進路は東。
 ルラフェンの街の方角に向かっている。
 が以前進言した通り、滝の裏側に見えた洞窟のようなものの場所へ向かっているのだろう。
 これで何もなかったら責任を感じるところだ。

 風を受けて船の縁に背を預けて夕陽を浴びていると、客室側の階段からとビアンカが姿を現した。
 がビアンカを部屋に案内したのだろう。
、彼女の部屋どこにしたの」
 てほてほと近寄る
 くっついて歩くプックル。
「ああ、の隣の部屋だよ。なにかあれば直ぐに連絡が行くだろう?」
「そだね。隣人さんよろしく」
「ええ、よろしく」
 くすくす笑いながら言うビアンカ。
 美しい金色の髪に、夕陽の橙色が映える。
 黄金色の草原の上を、柔らかい橙色の光が走っているような。
 こうして見ると、フローラとは対照的な性格のように見える。
 けれど、美しさにおいてはどちらも甲乙つけ難い。
 美醜に疎い人間でも、2人を並べてみれば彼女たちを美しくないなどとはと言わないだろう。
 知らず、は小さなため息をこぼしていた。
「どうかしたか?」
 ため息に気付いたらしいが、の顔を覗きこむ。
 ふるふると首を振り、なんでもないと答えた。
「私、今日なんか疲れちゃったから、軽く食事して早く寝るねー。『水の指輪』のありそうな場所とか見つけたら、たたき起こしてくれていいから」
 それじゃあと軽く手を振り、さっと客室側の階段を走って下りる。
 残されたビアンカとの両名は、不思議そうに顔を見合わせた。



 部屋に戻ったは、ベッドに腰かけると、足元で丸くなっているプックルの背中を撫でた。
 食堂から夕食として野菜や肉をパンで挟んだものを頂いていたので、それを自分と、プックルの口に運ぶ。
「あ、そだ。プックル水いるよね」
 大きな水入れに水を張り、近くに置いてやる。
 時折水を飲みながらパンを食べるプックルの横で、も同じように食事を済ませた。
 夕暮れが過ぎ、空が夜の帳を下ろす。
 しかし、まだ寝るには少しばかり早い時間だ。
 ベッドの上に転がる気もなくて、食事を終えたプックルの背を、ただ何となく撫でている。
 ため息をつくと、思いのほかそれは大きく部屋に響いた。
 プックルがのそりと顔を上げ、を見る。
「……ねえプックル。私、あとどれぐらい一緒にいられるかな」
 寂しげな声に彼は丸まっていた体を伸ばし、頬をの手になする。
 温かくて、優しい。
 窓の外は暗く、星が白い点となって見える。
 海と空に挟まれて、空中に浮いているみたいだ。

 は結局、夜中まで眠れなかった。



2006・5・9