分厚いレポート






「東雲、その代入は間違っている。このケースは何度も教えただろう」
「はい」
「東雲、XとYが逆だ」
「はっ!‥‥す、すみません」
「東雲、プラスとマイナスを間違えている」
「‥‥‥‥‥‥(げんなり)」
「聞いているのか」
「は、はいっ、すみません!!」
「‥‥今日はこれまで。明日までにきちんとまとめておくように」
「あ、ありがとうございました‥‥」



先日宣告されたとおり、は担当教師の氷室零一に、
毎日放課後1時間程の、数学の補習を受けていた。
数学の、というのは間違いか。
その日の不出来具合によって、語学だろうが芸術だろうが、なんでもやるのだから。
ちなみに、美術の場合は、美術理論を主に勉強している。
ともかく、毎日零一に怒られるという恐怖があり、
まさに登校拒否を起こしたい気分だった。
一度、学校を休んだ事があって、その日だけは補習がなかったのだが、
次の日の補習は「昨日の分も含めて、2時間やる」と言われてしまい、
何にも変わらない事が判明。
毎日必死で家でも勉強している娘に、両親はご満悦らしいが、
当人としては、たまらない事この上なし。
教室から出ると、友人の紺野珠美がこちらに気付いて、ヒラヒラと手を振った。
「あ、たまちゃん!」
ちゃん、お疲れさま。大丈夫?」
「なんとか」
大変そうだね‥‥と苦笑いし、珠美は周りを見回す。
零一がいると、なんとなく大変な事になるような気がして。
いない事を確認すると、珠美は改めてに話し掛けた。
「あのね、喫茶店寄って帰らない?」
「うん、いいよ」
久しぶりのお茶を楽しもうと、2人は意気揚揚と学校を後にした。
少しぐらい、気を抜かなければ倒れてしまう。


喫茶店ALUCARD。
のお気に入りのお茶がある喫茶店で、
葉月珪の行きつけのお店でもある。
と珠美は、空いている席へと着くと、紅茶を2つ注文した。
「ふぅー‥‥今日も一日頑張った‥‥」
まだ、家に帰ればレポート提出の為に頑張らねばならないのだが、
あえて今はそこに蓋。
少しぐらい、先生のことを考えないでゆっくりしたい、というのが本音。
考えすぎると、神経性胃炎になりそうだし。
運ばれてきた紅茶をホクホク顔で飲みながら、珠美と談笑する。
「先生の補習は効果ありそう?」
「ん‥まあ、ね‥‥」
本当の所は、効果あるんだかないんだか、本人にすら分かっていないのだが。
少なくとも、先生に対しての恐怖は、以前と変わらず根付いている。
‥‥むしろ、その恐怖具合は、増加していると言ってもいいだろう。
四六時中、静かに怒られているのだから、無理もない。
「本人なりには頑張ってるんだけどねぇ‥‥」
「氷室先生、厳しいから‥‥」
それも、並大抵の厳しさではないから大変。
親切丁寧に教えてくれるのだが、厳しい、という単語が入るだけで、
的には色々と問題が発生してしまうのだ。
やる気はあるのだが、こう毎日だと拷問である。
「で、でも、先生カッコいいって言われるし、いいんじゃないかな?」
珠美がフォローしてくるものの、その言葉には思い切り怪訝そうな顔をした。
何処がっ!と、表情が叫んでいる。
「えと、あの切れ長な目とか、クールな所とか‥‥」
「目つきが悪いとか、人を睨むのが上手いとか、そういう事よっ」
「そ、そうかな‥‥」
そうよ!とテーブルをゴツッと叩く
珠美が慌てて周りを見たが、視線を浴びている様子はない。
は肩を震わせながら、珠美に訴える。
「あの目で睨まれると、頭の中が真っ白になるのよぅ〜!!」
睨まれると、が、見つめられると、の場合は、その人の事が好き、という風に取れるが、
言葉一つでこんなに違うものかと、珠美は頭の中で思った。
「あの声で”東雲”とか呼ばれるたびに背筋が‥‥」
「東雲」
「‥‥ぎゃあああーーー!!!」
その恐怖する声が急に背中から振ってきて、は思わず悲鳴を上げてしまった。
客の視線が一斉にこちらに向き、珠美は慌てて謝る。
はワナワナしながら、後ろを振り向いた。
‥‥‥‥あぁ、この場で一番見たくない顔かもしれない。
美味しい紅茶が、酷く不味く感じられてしまう。
「店内では静かに。何を叫んでいる」
「い、いえ‥‥驚いて」
無理矢理笑顔を作る。
だが、零一は眉根を寄せるばかり。
‥‥確かに状況は悪い。
家に帰って勉強でもしているかと思っていたのだろう生徒が、
こんな所で紅茶を飲みながら、友人と談笑しているというのは‥‥。
先生にとっては、宜しくない事だろう。
にとっても、その先生がここにいるのは宜しくない事なのだが。
それにしても、どうしてこんな所に‥‥‥‥不可解極まりない。
イメージとして、なんとなくだが、直ぐに家に帰るような感じがする先生だけに、
不思議感も強まる。
「あの、先生、どうしてここへ?」
「君の姿が見えたのでな、少し寄ってみた」
「‥‥ご、ごめんなさい」
何故謝る、といいながらも、零一の表情は厳しい。
にしてみると、いつも怒っている感じがするのでどうしようもないが、
とにかくマズイ状況にいるのだから、謝っておけ的な感じ。
「えと‥‥勉強しないで、ここに‥‥いたので」
とにかく謝っておこうかと。
そう言って、は俯いた。
珠美もハラハラしながら、状況を見守っている。
零一は端正な表情を崩さず、と珠美を立ち上がらせると、喫茶店の外へ出た。
怒られるのかと思ったが、どうやらそうではないようで。
「先生??」
「あそこでは、注目の的になってしまうだろう。
‥‥東雲、確かに学校帰りに喫茶店なんていう所へ寄り、
勉学をおろそかにするのは好ましくない」
ピっと言われ、シュンとするが、零一は気にせずに言葉を続ける。
「だが、気を抜く事は無駄な事ではない。
リラックスする事により、頭の回転が良くなる。無駄に長い時間でなければよろしい」
「‥‥‥‥は、い‥‥」
てっきり怒られると思っていたのに。
寄り道=無駄、という認識をする訳ではないようだ。
「だが、明日からのレポートはまたきちんとやってもらうぞ」
「‥‥あぅ‥はい‥‥」
判っているなら宜しい、とピシャリ。
「では、また明日」
「はい、失礼します」
珠美とがお辞儀したのを見て、零一は車へ乗り込み、立ち去った。
盛大に溜息をつく2人。
まさか、あんな所で鉢合わせするとは思わず。
「‥‥先生、ホントに何しに来たんだろうね」
珠美の素朴な疑問に、はフルフルしながら答える。
「私を‥‥私を威圧しに来たのよ‥‥!!」
「え?」
「プレッシャーを与えに来たのよ!家でもしっかりやるようにって」
「考えすぎじゃぁ‥‥だって先生がちゃんを見かけたのだって偶然でしょう?」
確かに偶然なのだが、にかかればそれも悪意ある必然になってしまう。
‥‥零一に対してのみだが。
「あぁぁ‥‥明日の補習が怖いよう‥‥」
どんな無茶苦茶な難題を出されるのだろう。
昨日遊んでいたからな、とか言われて、ドドドと大量にプリントを持ってこられたりとか。
は1人、明日の惨状に頭を悩ませた。
実際はそんな事はないと思うのだが、恐怖フィルターがかかっているには、
それを言っても無駄な事。
「‥‥ちゃんが氷室先生を好きになる事なんて‥‥あるのかな」
少なくとも、目線に耐えられるようになれば、少しは状況打破なのだが。
先行きの暗い彼女の数学(勉強)を思い、
珠美は1人溜息をつく。



翌日の補習プリントは、いつもと同じ量だった。




2002・8・4
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