旋律





休み時間になる度に、職員室を訪れる少女がいる。
教科書を胸にかかえ、質問を山のように持ってくるのだ。
少女の名は、東雲
氷室学級きっての秀才だった。



「氷室先生!今お時間よろしいですか?」
今日も職員室に響く少女の声。
珍しいくらい貪欲に知識を求めるはすっかり有名人だ。
普段おとなしいくせに、こういう時は積極的な少女を零一は少なからず気に入っていた。
「どうした、東雲。今日は何の質問だ?」
心なしか弾んでいる声に、自分自身苦笑をもらしてしまう。
日頃、ロボットだのサイボーグだの言われている零一だ。
こういう人並みの感情があったのか、とホッとすると同時に妙に嬉しくなってしまう。
そんな心を引き出してくれたに、口にこそ出さないが感謝の念で一杯だった。
「ここはだな、この公式に当てはめてxとyを代入し……」
「えっと……あ、解けた!ありがとうございます、先生!」
ほほを紅潮させて喜ぶ少女に思わず微笑む。
滅多に見ることのできない零一の笑顔を、
こうしてはたくさん見ることができるのだった。
だから、他の生徒とは異なりさほどこの教師を苦手としてはいない。
むしろ的確に答えてくれる零一に羨望さえあった。


そして、この数日後、の日々の努力を試す祭典が行われた。
学生達の恐怖の難関、期末試験である……。



――結果発表――

今回はいつもより自信のあるは、高鳴る胸を押さえながら掲示板の前へと進んだ。
たくさん勉強したし、山のように先生達に質問もした。
最大限に教師を活用し、己の知識としてきた。
逸る心のままに、そっと下から目を上げていく。
どうか、今までの結果が出ていますように――!
「……うそ…」
目の当たりにした己の成果に言葉をなくす。
予想以上の手ごたえは確かに感じていた。
力を出し切るように試験に臨んだ。
それが、まさか……。
「うそみたい…すごーい……」
みるみる内にの顔がほころんでいく。
何度もまばたきを繰り返し、掲示板をじっと見つめる。
彼女の結果は――1位。
ALL満点の、他者をよせつけない圧倒的な結果だった。
「東雲……」
「あ、氷室先生!……あの、私…!」
嬉しい結果を報告したいのに、口がうまくまわらない。
もどかしげに見上げると、わかっている、との頷きが返ってきた。
「素晴らしい……まことにもってエクセレントだ。よく頑張ったな、東雲」
優しい微笑に最高のホメ言葉。
は喜びのあまり踊りだしそうな位浮かれていた。
ある時を境に、は成績が伸びなくなり苦しんだことがある。
そんな少女を見ていただけに、零一もおおいに嬉しかった。
今日の結果は、彼女が苦難を乗り越えた何よりの証なのだから。
一つの大きな殻を破ったのを見た時、
零一も心に閉まっておいたことを実行にうつす決意を固めていた。
もしかしたら、教師という枠を飛び越えてしまうかもしれないほど、
それは危険を含んだ行為……。
しかし、頑張っているを目の当たりにし、
最早零一が己を押さえることは不可能に近かった。
「……ところで、東雲」
「はい?」
咳払いしながら声をかける零一をまっすぐに見つめる視線が好ましい。
「君は、次の日曜あいているのか?」
眼鏡を押し上げながらたずねる零一に首を傾げる。
課外授業のお知らせかしら、と考えながら見上げた。
「特に何もないですけど……」
「よろしい。なら、今予定を入れなさい」
心なしか赤いほほで告げる零一にますますわけがわからず、まばたきを繰り返す。
「日曜は、ドライブに行くぞ」
「……先生と、ですか?」
「他に誰がいる」
即座に切り返され苦笑する。
ドライブ、という言葉に引っかかりを覚えながら微笑み、いたずらっぽく告げた。
「それは、デートですか?」
一瞬ぎょっとし、言葉に詰まる零一だったがの目にからかいの色をとらえ、
咳払いをした。
わざと気難しい顔をつくり、ことさら訂正する。
「社会見学だ」
「……先生、質問してもいいですか?」
にっこり笑うに、零一は目だけで問う。
一世一代の大勝負の時に何を質問したいのか、といった態度だった。
「それは、課外授業とどう違うんですか?」
にこにことした表情はいつも質問する時となんらかわらない。
が、しかし内容は普段と大きく変化していた。
返事に窮し、戸惑うもそんなことはお見通しとばかりに迫ってくる。
答えなどわかりきっている。
が、はそれを零一の口から聞きたかった。
「……課外授業は、大勢で行く。社会見学は……その、なんだ…つまり……。
私と君の二人だけで行く、ということだ……」
ほほを赤く染めながら伝える零一に、は微笑んだ。
本人は否定しているが、それをデートと呼ばずになんというのか。
こんな所まであまりにらしくて、少女は笑ってしまった。
「何がおかしい、東雲」
憮然とした表情で立っている零一に首を振った。
ドライブという事実に少々の抵抗はあるものの、ありがたく応じることにする。
「喜んで、お供いたします」
その返事に、零一はとっても優しい笑みを見せてくれた。





―日曜日―

の家まで車で迎えに来た零一は柄にもなく緊張していた。
今まで教え子の自宅を訪問したことなどなかった。
しかも本日の目的を考えたら……。
彼は徹底的に否定しているものの、今日この日はデート以外の何ものでもない。
一つ咳払いをして余計な雑念を振り払うと、ドアの前に立った。
深呼吸をし、ネクタイを直してからインターホンを押す。
いつもと違う己に戸惑いながら応答を待った。
しかし、しばらく待っても誰も出てこない。
不審に思いもう一度インターホンに指を伸ばした時……。
ドアの向こうですさまじい音が響き渡った。
反射的に手を引いた瞬間、勢いよく玄関の扉が開かれた。
「……おはよう、東雲」
「お、おはようございます〜」
息を切らせ、痛そうに膝を押さえながらも精一杯の笑顔を見せるを見つめる。
この時、本人は苦笑まじりに意識を改めた。
今日だけは教師という殻を少しだけ脱ごうと決意していたことを思い出す。



「ちゃんと起きているか?東雲。なぜ階段から転げ落ちる必要がある」
治療を勧めてみたが、大丈夫だと言ってきかないを助手席に乗せ切り出す。
困ったように零一を見つめて、ポツリとこぼした。
「緊張しちゃってて……」
「緊張?」
「……だって、先生と二人きりだなんて…」
そう告げて俯くを見、零一は妙に痛む心を覚えた。
よかれと思って誘ったことは、実は迷惑だったのか。
自分が教師だから、彼女は断わることができなかっただけなのか……。
徐々に暗い気持ちになる零一を下から見上げ、ほほを赤らめる。
そんなの表情に怪訝そうな顔をする。
「……先生と二人きりなんて…嬉しくて……昨夜もあまり眠れないくらい。
 でも、嬉しいのに緊張してて……変ですよね…」
恥ずかしそうに笑うに思わずほほを緩める。
眼鏡を押し上げて赤くなりそうな顔をかくした。
「私と一緒だな」
「……え?」
「私も、君と出かけることにとても緊張している。……こんなことは初めてだからな」
「先生も、一緒なんですか…?」
「ああ……」
頷く零一にホッとしたような顔を見せる少女。
少し心強くなったのだろう、大分緊張がとけている。
「ならば、行くか。シートベルトを締めなさい」
「あ……はい」
シートベルトに手を伸ばす少女の顔に一瞬かげりが浮かんだことに、零一は気づかない。
締め終わったのを確認すると、車を発進させた。



車を走らせ、しばらく経った頃。
少女はちらりと隣の運転席を見つめた。
思わず見惚れてしまいそうになるほどの端正な横顔。
前方に向けるゆるぎない眼差しに微笑みを浮かべた。
「……先生、聞いてもいいですか?」
「なんだ?東雲。……君は本当に質問が好きなようだな」
笑みをもらす零一に赤くなりながらも、気になって仕方のないことをたずねる。
「どうして、私を誘って下さったんですか?」
怯えを含んだ、小さな声に一瞬視線を向ける。
だが、は俯いてしまっていて、表情を窺い知ることはできない。
「……褒美、だ」
「ほうび?」
本当はそれだけではない。
でも、零一は心の内を全てさらけ出すことを避けた。
大義名分のみを伝え、本心を隠してしまった。
「君がどれだけ頑張っていたか、私は知っている。点数が伸びず苦しんで……。
けれど、その上を行く努力をしたことを。だから、今日はその褒美だ」
「……1位をとれたことの、ごほうび…なんですか?」
微かに曇る顔を見ることができず、零一には伝わることはない。
だから、彼は肯定した。その通りだ――と。
「ありがとう……ございます」
胸に、小さな小さなドゲが突き刺さる。
そっと手を押し当てて痛みをこらえ、は目を閉じた。





一日ドライブを堪能し、二人とも大満足だった。
日もかげり、辺りが闇に包まれてきた頃……零一はを車へと誘った。
「そろそろ、戻ろうか……」
「はい。…でも、残念です……」
「?何がだ?」
「……せっかく、楽しかったのに…今日が終わってしまう…」
心底無念そうにため息をつく少女に零一は微笑んだ。
エンジンをかけながらそっと告げる。
「また、連れてきてやるから……」
「っ本当ですか……!?」
「ああ……」
頷く零一には大喜びした。
嬉しそうに絶対ですよ、と念を押してくる少女に目を細める。
「……でも、次誘ってくれる時は…」
「なんだ?」
「…いえ、何でもないです」
「?……そうか?」
「はい、すみません…」
目を伏せるを見つめるが、何を言いかけたのか全く検討がつかない。
なんとなく、嫌だったのだ。
褒美、ということは零一は教師として誘ったのだということ。
そうではなく、教師としてじゃなくて……。
だが、願いを口にする勇気は、内気な少女にはなくて、言えなかった。
誘ってもらえるだけで、今約束しただけでいい……。
これ以上望んだら罰が当たる、と願いを飲み込んでしまった。
「……ゆっくり、帰ろうか」
「はい…」
少女が何を言いかけたのか、零一には本当にわからなかった。
でも、今日が終わることを残念がっていることは理解できていたので、零一はそう告げた。
急がずに、焦らずに、ゆっくりと……。
しかし、それがよかったのかよくなかったのか。
零一の気づかいは、この後更なる展開を生むことになる。



ゆっくり帰るため、必要以上に飛ばすことを避けて遠回りをしながら車を走らせる零一。
周りにそう車はなく、混雑していないのは珍しいことだった。
あまり混んでいない道に零一は気をよくし、楽しげに車を走らせる。
が、後ろの車は何を思ったのか、わき道があるにも関わらず強引な追い越しをかけてきた。
それと同時に、そのわき道から猛スピードで割り込んできた一台の車……。
急カーブして入ってきた車に零一はとっさにブレーキを踏んで衝突を逃れた。
「ぁっ……!!」
真横から突然あらわれた車に怯えるを見、湧き上がる静かな怒り。
追い越しはこの際目を瞑るとしても、割り込んできた方は見逃すことはできない。
「大丈夫か、東雲」
「は、はい……平気です」
気丈に振舞っているのがバレバレなくらい震えているの姿に怒りは爆発した。
「しっかりつかまっていなさい…」
「え……先生?」
零一の声に嫌なものを感じ、思わず凝視する。
この時の彼の怒りを、自分は一生忘れないだろうと後には回想した。
そう感じさせるほどの、殺気を含んだ怒気……。
「一言注意しなければ気がすまない」
「せ、先生……!?ちょっと待っ…!」
「話は後だ!」
急発進する車の勢いに負け、イスの背もたれに押し付けられる。
シートベルトがきつくなっていくように感じ、徐々には青ざめていった。
口元を覆い、懸命に呼吸を整える。
目前の車を追跡することにのみ意識を集中させている。
零一は、この事態を深く後悔することになるのだった。



執念だけで距離を縮め、割り込み車を捕まえた零一はすごいとしか言いようがない。
注意するために降りる姿を視界の端にとらえながら、
しかしはもう起き上がる気力がなかった。
わきあがる吐き気をこらえるよう目を閉じる。
イスに全身を預け、少しでも楽になれるよう深呼吸を繰り返すしかできなかった。
やがて、厳しい叱責をしたことでスッキリしたのか、どこか楽しげに零一が戻ってきた。
「やはり、ああいった者にはきちんと注意しなければな」
鼻歌でも歌いだしそうな零一だったが、それに同意するだけの力がない。
ぐったりと呼吸している少女の姿に、この時零一は初めて気がついた。
慌てて運転席を飛び出し、助手席にまわる。
「東雲……?どうした!しっかりしろ!」
シートベルトを外し、そっとほほに触れた。
微かに開かれた瞳を覗き込み、青ざめた顔色に己を責める。
そんな零一の心情が手に取るようにわかったは、
そっとほほにある手に己の手を重ねた。
「……東雲…」
「大丈夫です……ちょっと、車酔いしただけ…」
弱々しく微笑む少女に零一は激しく後悔した。
辛そうにしわを寄せる姿を見、口唇を噛みしめる。
そっと髪を梳き、寝やすいようにイスを倒してやった。
「……先生…」
目を閉じたまま手を伸ばしてくるに、零一は胸が熱くなるのを感じた。
ぎゅっと握りしめ、そばにいることを教える。
「少し眠りなさい……ここにいるから」
「……でも…」
「昨夜、眠っていないのだろう?少しでいいから……」
嫌がるの目を片手で覆い、手を強く握る。
その温もりに安心したのか、観念したのか……。
やがて、静かな寝息が響いてきた。



気持ち良さそうな寝顔を見つめながら、零一はため息をついた。
最後の最後で辛い思いをさせてしまった。
せっかく楽しんでくれていたのに。
やりきれなくて目を伏せる。
だが、少女はこんな自分を笑って許すのだろう。
容易に想像がつくだけに、後悔は計り知れない。
「……あそこに寄るか」
今日の思い出がこれでは、あまりに悪すぎる。
やはり、一日の最後は楽しく締めくくってもらいたい。
そう考え、零一は寝ているを起こさないように気をつけながら静かに車を走らせた。
本来ならあまり行きたくはない店へ……。



微かな身じろぎ……次いで、開かれる双眸。
そろそろ起こそうと思っていた矢先だったため、零一はホッと肩を撫で下ろした。
「……先生…?」
まだハッキリしていない頭で零一を見つめる眼差しはまるで甘えているようで。
思わず愛しさがこみあげ、そっと髪を梳いてやった。
気持ち良さそうに目を閉じると、体の向きをかえじっと零一を見つめる。
「もうすぐ着くから、待っていなさい」
「……え?」
家に帰されるのか、と眉を寄せる少女に微笑む。
そっと手を握り、首を振った。
「少し寄り道をしようと思う。……かまわないか?」
「……はい。でも…どこに?」
嬉しそうに返事はするものの、予定コースに入っていない寄り道なだけに
不安はかくせない。
だが、零一が優しい瞳で笑うから……もそれ以上は聞かず再び目を閉じた。



ブレーキの音に、まどろんでいたは覚醒を強いられる。
だが、まだこの空間にいたくてじっと目を閉じ続けた。
助手席のドアが開き、軽く体を揺すられた。
「着いたぞ、東雲。……起きなさい」
優しく告げられればられる程、なぜか困らせたくなる。
起きたくない、と首を振って目を閉じた。
そんな子供のような仕草に零一は苦笑をもらす。
「東雲、起きなさい…」
ぐずる少女を更に揺するが依然として知らん顔。
少々いたずら心の湧いた零一は、そっとの体に手をかける。
「そんなに起きたくないのなら……」
声に、漠然と不安を感じたは、慌てたように目を開く。
だが、時はすでに遅い。
零一はイスのレバーを引いて起こすと、あっという間にを抱き上げてしまった。
「っや……先生…!おろしてっ……!」
焦ってもがくが、所詮大人の男と未成熟の女。
勝敗は火を見るより明らかだ。
「おとなしくしていなさい」
楽しそうにお姫様だっこをしたまま目的の店の中へ入って行く。
「せ、先生……私重いから…!」
「安心しなさい、私はそんなに非力じゃない」
「そうじゃなくてっ!……おろして下さい…」
「この方が見晴らしがいいだろう?」
何を言ってもきかない零一に、の顔は赤くなるばかり。
困ったように顔を伏せると、力をこめて抱きしめられた。
「っ……!!」
「具合、少しはよくなったみたいだな……よかった」
心底ホッとしたような、優しい表情。
抱きかかえられているせいで、いつもより近くで見ることができた。
柔らかな眼差しに、はそれ以上抵抗できない。
「心配かけてしまって……ごめんなさい」
ほほを染めながら謝る少女に向かって首を振る。
「悪いのは私だ、君が謝ることはない。……すまなかった、苦しい思いをさせて」
「先生……」
眼差しに引き込まれ、そっと零一の首に両腕をまわし体を預けた直後……。
「お前……ラブシーンやりたきゃ他の店行け!」
「っきゃあ!」
背後からの声に驚き、思わず零一にしがみつく。
そんな少女を優しく抱きしめながら、この店のマスターであり友人の彼を睨みつけた。
「客に向かってその態度はなんだ」
「ほ〜。最近の客は店の入り口でいきなり熱い抱擁をしながら愛を囁くのかい。
そりゃ知らなかったよ、零一」
「知らなかったのなら覚えておくことだ。……それと、別に愛を囁いていたわけではない。
誤解のないよう言っておくが、この子は私の教え子だ。
気分が悪くなってしまったから休みに入っただけだ」
二人の会話におそるおそる顔をあげるを見ながら、意味ありげな笑いを浮かべる。
例え生徒とはいえ、零一が女性をこの店に連れてきたことがなかったから……。
(この子の方はともかく、零一は自分でも気づかない内にぞっこん……て所か)
開いている席にそっと少女をおろす仕草を盗み見ながらマスターは見当をつける。
すでに友人の恋を実らせるために一肌脱ごう、と決意しながら。
「注文はレモネード2つ、だったよな?」
「ああ、そうだ。……これなら大丈夫だろう?東雲」
手渡され、微笑んで頷く姿を観察する。
だいぶ体調もよくなってきているのだろう、さっきより顔色もいい。
ホッと肩の力を抜いてを見つめる零一の肩をつかまえ強引に己の方を向かせる。
「なんだ、お前は……」
声を荒げる零一をとらえ、の方ににこやかな笑みを向ける。
「ちょーっとだけ、こいつ貸してね、お嬢さん」
「え……?」
「大丈夫大丈夫、すぐ返すから」
軽い調子で言い放つと、零一をカウンター席の方へ連れて行ってしまう。
さっきの会話からお友達かな、と予想をつけていたは、
おとなしくレモネードを飲むことにした。



「さーて、一から説明してもらおうか」
無理やり少女から引き離され、カウンターまで連れてこられた零一は
すこぶる機嫌が悪い。
だが、学生の頃からの友人であるマスターはそんなこと慣れっこのお構いなしだ。
「お前……勘繰るのもいい加減に…!」
「昔のあーんなことやそーんなこと、お嬢ちゃんにバラしていいのか?」
「………」
身に覚えのある零一は口を閉ざすしかない。
そして、過去を知っているという強みのあるマスターには、
結局逆らえず話す羽目になるのだった。


―説明中―


途中口の重くなる零一を半ば脅しながら話を聞いたマスターは、まず感心した。
このサイボーグのような友人に、ここまで人間らしい性格を植え付けさせた少女に対して。
そしてますます彼は、二人を仲介しようと決意するのだった。
「よし、話はわかった」
ポン、と肩を叩くマスターとは裏腹に、零一は疲れたようにため息をついた。
とにかく、もういいだろうと席を立った瞬間、いきなり命令された。
「わかったから、お前はピアノ弾いて来い」
「……なぜそうなる」
「彼女に申し訳なく思ってるんだろう。詫びたいんだろう。
 だったら、あの子のために最高の演奏してやれ」
意外に真摯な眼差しの友人に、一瞬零一は動きを止める。
席でおとなしく飲み物を口にしている少女をちらりと見、カウンターに寄りかかった。
「……それで、喜んでくれるのか…?」
「さあな、そりゃ知らん。……でも、今のお前ができる最高のプレゼントだろう?」
にやりと笑う旧友に零一は苦笑をもらした。
そのまま、まっすぐピアノに向かって歩き出しているということは、
一理あると感じたのだろうか。
零一の背中を見送ってから、マスターはゆっくりと少女へ歩み寄った。



「楽しんでるかい?……って言っても、俺が零一とっちゃったんだもんな。ごめんごめん」
「いえ……あの、先生とはお友達なんですか?」
「そうよ、あいつとは古い悪友でね」
「へえ〜」
普段人見知りするくせに、零一の友人ということもあり人懐っこく話す少女に、
マスターは早くも好感を抱いていた。
ちゃっかり隣の席に座り、にこやかに切り出す。
「ぶっちゃけて聞くけどさ、あいつのことどう思ってんの?」
「え………ええっ!?」
瞬時に耳まで赤くなるを面白そうに見つめながらマスターは笑った。
(こりゃ脈ありどころか、モロじゃんか……。零一の春も近いな)
一人にまりとしながら、ピアノの方を向く。
「あいつは、君をきっと生徒以上に想ってるよ」
「……そんなこと、ないです」
「え?」
「先生は……先生のままです。……きっと、ずっと…」
そう告げ、驚くほど素直に少女はマスターに己の心情を話した。
朝たずねて告げられたこと。
褒美だ、と優しく言われたことを……。
だが、その話はマスターに笑い飛ばされた。
「相変わらずだなあ、零一は…」
少なからず笑われたことにショックを受けたは気分を害し、
プイと横を向いてしまった。
そんな少女の髪を撫で、流れてくる演奏に耳を澄ませる。
「わかるかい?お嬢ちゃん。今弾いてるのは、君のための曲なんだよ」
「え……?」
言われて、初めてピアノを振り向く少女を優しく見つめる。
不器用な二人を応援するように――。
「あいつは変な所教師だから、誤解しやすいと思うけど……間違えないでやってほしい。
俺が言わなくてもわかるだろうけどさ、零一にとってピアノって一番大切なものなんだ。
それを、今、君だけのために弾いてる……わかるね?この意味…」
「先生が……私のために…?」
「そう、君へのプレゼントだって。今日辛い思いをさせてしまったことへの詫びだって言ってたよ。君に……少しでも喜んでもらいたい、って」
以前聞いた、放課後零一が弾いていた曲。
それがへのプレゼントだった。
少女がとてもきれいだ、と褒めたそれを……零一は選んだ。
あの時よりもっと心をこめて、弾いていた。
音は、言葉なんかより雄弁に心に訴えてくる。
彼の、口に出せない想いを感じ取り、そして、
特別な存在であるピアノを自分へ贈ってくれることに。
喜びが、心の許容量をこえた。
我知らず涙が溢れる。
何をもらうより、最高のプレゼントだった。
泣きながら、胸をあたたかくさせる曲に聞きほれた。
そんな少女を見つめながら、マスターは微笑んだ。
(俺がしてやれるのはここまで、かな……後は自分で頑張れよ)
これ以上ないくらいのお膳立てはした。
あとは……二人の心次第。



やがて演奏は終わり、零一は立ち上がった。
真っ先に見つめたのは――
初めて、愛しいと思った、欲した存在。
気に入ってくれただろうか、喜んでくれただろうか。
そんな期待と不安をこめて見ると少女は……泣いていた。
両手で顔を覆い、静かに涙を流していた。
とっさに横にいる己の友人を疑ったのは、まあ仕方ないことだろう。
ゆっくり近づく零一をマスターは苦笑して見上げる。
一言怒鳴りつけようとした瞬間、小さな存在が胸の中へ飛び込んできた。
「え……」
「っ先生…!先…生……っ!」
「……東雲…」
ぎゅっとしがみついて泣く少女をどうしていいかわからず、友人を見つめる。
零一の困っている姿を面白がって見るマスターを睨みつけた。
だが彼は、後はご自由に、と言わんばかりに席を立ってしまった。
残されたのは、泣き止まない少女とそんな女の子の扱いになれていない教師の二人。
両手のやり場に困り、零一は思わずじっと見つめてしまった。



「東雲……そろそろ泣き止んでくれないか?」
ぎこちなく頭を撫でるも、は嫌だと首を振りただしがみつくばかり。
零一の心が嬉しすぎて、涙が溢れて止まらない。
お礼を言いたいのに、声すら出てこなかった。
「……東雲…」
しゃくりあげる体をそっと抱きしめ、背を撫でる。
なんとなく、怒ったり悲しんだりしている涙ではないと感じ取ることができた。
だからこそ、まだ安心していられた。
「……先生…っ」
「どうした?」
そっと目尻に残る涙をぬぐってやると更にきつく抱きついてきた。
微笑めば、なんとか涙を止め答えようとの姿が……。
いじらしくて、ついきつく抱きしめてしまう。
「……ありがとう…先生……」
「東雲……?」
「ありがとう…」
心からの言葉に、零一は思わず答える声を失った。
胸が熱くなり、喜びに顔がほころんでいく。
お礼を言われたことに対して、また礼を言いたくなる……。
そんなことは嘘だと思っていたが、実際、今言いたい衝動にかられている自分がいる。
だから……。
「ありがとう、東雲」
万感の想いを込めて伝えた零一を涙目で見上げ、は微笑んだ。
そうしてまた、甘えるように胸にほほ寄せる少女を零一は優しく抱きしめた……。



「全く、手のかかりそうな二人だこと……」
あれだけお膳立てしてやったというのに、キスもできない零一に歯噛みする。
だが、それが彼というものか、と無駄に納得しマスターは苦笑した。
まだまだくっつくには時間のかかりそうな二人。
けれどその方が自分も楽しいし、やりがいもあることだろう。
今は、微笑ましいまでの姿に目を細め、ひっそりと笑っていた…。







やっとこ終わりました、先生夢2本目です。
いかがでしたでしょうか……?
思っていたより長くなり自分でもビックリです。
文章力ないってやーね……(泣)
前作はお互いに想いを殺しあってしまったので、こっちは前向きにしてみたのですが。
でも手は出しません、先生ですからvv
その内更に積極的な彼を書いてみたい気もしますけど☆


はい、白状します。
車酔いネタ、犯人は私です(爆)
珪くんに続いて再び苦手なもの……。
普段は平気なんですが、何かしら悪条件が重なると最悪なことに。
最近の車酔いのもとはシートベルトだ!と勝手に決め付けています。


ではでは、今回はこれにて。
こんな駄分に最後までおつきあい下さった心暖かい皆様と、
最愛にして偉大なる管理人へ(笑)
おおいなる感謝をこめて――

                                     葵 詩絵里


2002・9・4
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