敵わない 「そういえばさん、成歩堂さんを名前で呼ばないですね」 ある日突然、王泥喜がそんなことを言い出した。 は持っていた本を書棚にしまいながら、ちらりとソファに座る成歩堂を見る。 彼は何食わぬ顔をしてグレープジュースを飲んでいた。 ――そういえば確かに、オドロキ君の言う通り、だなあ。 数年を経て恋人関係に戻った、と成歩堂。 以前と違うことが、たったひとつ、存在した。 成歩堂は、を『ちゃん』とは呼ばなくなった。 名前だけで呼ぶようになったのだ。 それは、彼と再会してすぐのことだったと思う。 ごちゃごちゃ適当に詰め込まれている書籍を、棚から引っ張り出しては入れ替える作業を繰り返しながら、は唸る。 表紙を叩き、埃を散らし、法律の本とそれ以外をきちんと分別していく。 王泥喜もそれを手伝っている。弁護の仕事がないので。 「もしかしてオドロキ君て、名前で呼んでほしいタイプ? 法介くん、とか」 「な、なんかテレますね。名前で呼ばれると……」 薄く頬を染めて、カリカリと頭部を掻く王泥喜。 後ろにいる成歩堂は、一瞬、物凄く不機嫌そうな顔になったが、すぐさましれーっとした表情に戻る。 も王泥喜も、彼の様子には気づかなかった。 「そういうオドロキ君だって、私を名前で呼んでるでしょ。さん付けだけど」 「いや、だって成歩堂さんと苗字が一緒ですし。どっちを呼んでるのか分からなくなるし……」 「まあ、そうなんだよね」 「……もしかして、成歩堂さんが名前で呼ぶなって言ってるとか?」 ふざけて言った王泥喜の言葉に、成歩堂がため息をつく。 「そんなわけ、ないだろう」 「い、いやだな成歩堂さん、そんな怖い声出さないで下さいよっ」 慌ててから笑いする王泥喜。 成歩堂は軽く息を吐き、足を組む。 「………まあ、そろそろ名前で呼んでもらいたいな」 「うっ……だ、だって、でも……ねえ?」 狼狽する。 本を片手にしたままなんとなく後退りし、本棚にせき止められる。 彼は頬杖をつき、口端を軽く上げた。 「だって?」 ――絶対気づいてる。 彼と目線を合わせられず、横を向くと、王泥喜が不思議そうに首を傾げていた。 にとって、成歩堂の『名前』を呼ぶというのは、ちょっと意味のあることだ。 かつて、彼が弁護士だった頃。 恋人関係にあってなお、は彼のことを名前で呼ばなかった。 時折呼ぶことはあっても、全面的には呼ばない。 おおっぴらに彼を『龍一さん』と名前で呼ぶのは――情事をしている間か、そういう雰囲気になった時だけ。 それは当時の、成歩堂法律事務所、所員としての、のけじめのようなものだった。 常ごろ龍一と呼んでいたら、甘えが出てしまう気がして。 彼女は自分がそれほど強くないことを、知っていたから。 そうしているうちに、彼を名前で呼ぶことイコール、大人な関係の時、または恋人モードに入っている時、になった。 それはヨリを戻した今も同じ。 は今、この事務所の完全な所員ではないが、仕事をしているに相違ない。 どういう形にしろ経営者は(一応)成歩堂で、そこにも以前との差異はない。 だったらやはり、公私混同しない方がいい。 一度してしまったら、ずるずると流れて行くことは目に見えていたからだ。 5年間分の甘えを、彼に求めてしまいそうになるから。 ――実際、そうできるかどうかはともかくとして。 成歩堂は、が『名前』で呼ばない理由を知っている。 彼女が理由を口にしたことはないが、気づいてるに違いない。 かつての彼は、その辺を充分理解してくれていたのだろうけれど、今の彼は駄目らしい。 当人いわく、『厄介な大人』だそうだから。 「と、とにかく、なるほど君を名前で呼んだりしません。雇用者と被雇用者のけじめです」 「……ふぅん。オドロキ君のことは名前で呼べるのに、僕のことは呼べないんだね」 「いや、そういう事じゃなくて……解るでしょ?」 「解らないなあ」 ――うぅ。 本気で困るの様子を見てか、王泥喜は小さく手を上げる。 自分がコトの発端であるだけに、『じゃあオレ出かけますから』とこの場を立ち去るわけにもいかなかったのだろう。 「あ、あのー、成歩堂さん。オレが悪かったです……。さん困ってますし……その」 止めてあげてください、と言いたかったらしいその口は、彼女自身によって妨げられた。 「オドロキ君が謝ることないよ! ……と、とにかく、名前呼びはしません!」 「………そう」 彼は、いかにも『やれやれ』といった風に腰を上げる。 嫌な予感を感じ、は思わず持っていた本を王泥喜に手渡し、所長室から急いで避難し――ようとした。 実際は、王泥喜に本を手渡そうとしている間に、顔の両脇に成歩堂の手があったわけだけれど。 ――オドロキ君が狼狽しないで、ちゃんと本を受け取ってくれていればこんなことには! いやいっそ、本を持ったまま逃亡すればよかった。 思ったところで時既に遅し。 目の前には成歩堂の顔があって、本棚に突かれた彼の両手が、見事にを閉じ込めている。 羞恥が先に来るはずの状況なのに、今は焦りが先だ。 背中を流れる冷や汗は、感覚だけなのか、それとも現実にあるのか。 視線のみをちらりと、隣の王泥喜に向かわせれば、彼は真っ赤になってその場に直立している。 「。どこ向いてるんだい? 今、君が注視すべきは僕だよ」 目を合わせたら不味い! 天啓がやって来たかの如く、は成歩堂から出来る限り視線を逸らす。 そうすると自然に、王泥喜の方へ目が行くわけで。 それが成歩堂の機嫌を降下させると理解していても、そうせざるを得ない。 まさか呼び方のせいで、こんな風に追い詰められるとは思っていなかった。 素直に、彼の要望の通りにしてしまえば良いのだろうが……。 ――うう、アノ時に呼ぶ癖がついてるから、恥ずかしいし!! この間みぬきに薦められた、『今日からできる大脱出』を読んでおけばよかったと、半ば本気で思う。 「……な、なるほど君。あの」 離れてくれと、そう言いたかったのに。 出てきたのは 「あぅんっ!」 自分を呪いたくなるような、世にも色っぽいお声でした。 とげついた無精ヒゲの感触と共に、生暖かい湿ったものが首筋にあって。 一気に頬が染まり上がる。 彼の肩を押してはみたものの、力の差は雲泥。 ノド元をべろりと舐められて、再度、昼間から出すべきではない声が上がった。 止めようと口を開いた瞬間、今度はキスを落とされる。 深く絡みつく、濃厚なそれを済ませた成歩堂を思わず睨み付けた。 出てくるはずの文句は、ノドの奥に転がるばかりで出てこない。 「ずっ……ずるいよその顔は!!」 「ん……? その顔って言われても、どんな顔か分からないなあ」 ――絶対に確信犯だ。 王泥喜には見えないように腕でうまく隠しながら、成歩堂はかつて法廷でよく見せていた顔を、に向けている。 普段はだらけた33歳ピアニストのくせに! こういう時に、『弁護士』成歩堂龍一の顔をしないでよ!! 彼はくすりと笑み、の耳朶に唇を寄せ、 「……ちゃん。ね、呼んで? 僕の名前」 囁く。 弁護士な成歩堂をまだ続けている。だから、『ちゃん』付け。 なんだかもう、色々な意味を含めて身体が熱い。 こんな調子でお願いされ続けていたら、まず間違いなく心臓がもたない。 現状でヤバいのに。 「あーもう! わかった、わかりました! 龍一さん!!」 「…………もう少し粘ってくれたら、イイコトできたのになあ」 何を考えてるんだこの男は。 つぅ、と離れた彼の身体に、ほっと息を吐く。 そういえばと横を見れば、王泥喜はまだ棒立ちの状態で――目を覆い隠している。 成歩堂は彼の肩を軽く叩いた。 「オドロキ君。もう終わったけど」 「はっ、はいっ、オレ、大丈夫です!!」 大丈夫ではなさそうだった。 「なるほどく……。うぅ……龍一さん」 「うん、なんだい?」 妙に嬉しそうな成歩堂を見ていると、なんだか全部を許しそうになるけども。 とりあえず、言うべきことは言っておかねば。 「お願いだから、人前で凄いことするのは止めようよ」 「あー…………まあ、努力する」 物凄くやる気のなさそうな声で、そんなことを言われた。 王泥喜はやっとで肩の力を抜いて、ずっと持ったままだった本を、本棚に突っ込んだ。 「さん……大変ですね」 同情の声。 は失笑するしかない。 「私、基本的になるほ……龍一さんに敵わないんで」 「無敵ですね、成歩堂さん……」 話題の人は何気ない顔で、ソファに腰をおろしていた。 …自分の中では微エロ風味なので印つきなわけですが。しかしやる気のないニットの、たまの本気は心臓に悪いと思う。 2008・5・7 ブラウザback |