砂の城 弁護士になってから築き上げてきたものが、波に浚われて一気に消え失せてしまった。 その上僕は、これから自分が最も大事にしているもの――人を、手放そうとしている。 自分がしようとしている事を、感情はひどく恐れているのに、頭のほうはやけに冷静だ。 軽く息を吐き、決意を腹に打ち立てて、事務所に足を踏み入れた。 「――もう、僕に関わらないでくれ。2度と君の顔なんて見たくない」 泣きそうな表情にならないよう、必死で顔を作りながら、僕はに宣言した。 彼女は呆然としていた。 怒りは見えない。 言われた言葉を、頭の中で反復でもしているのだろうか。 冷たい態度をとるんだ。彼女がどんなに愛おしい存在だったとしても。 僕はとにかく平静を努め、出来る限りの冷ややかな対応で、彼女を事務所の外に追い出した。 外から僕を呼ぶ声がするが、答えるわけにはいかない。 しばらくすると、気配が消えた。 諦めたのか。呆れたのか。 ため息すら起きないほど、感情が底に沈む。 「……ごめん」 決して彼女に届かないのに、それでも謝らずにはいられなかった。 僕がとある裁判で、『証拠品の捏造』をしたと騒ぎ立てられてから、およそ2年。 今ではそれなりに親子らしくなったみぬきと僕、それからは、何とか日々を過ごして行けていた。 自称ピアニスト、でも本当はプロのポーカープレイヤーの僕は、今は無き『成歩堂法律事務所』に関しての雑務から、すっかり離れていた。 現状では成歩堂芸能事務所だが、それでも偽造事件は大きな問題になったから、一部のマスコミは執拗に事務所に電話をかけてきたりする。 偽造疑惑など嘘だと信じて疑わない、ある種勇気ある依頼人からの電話もある。 それら全てを、一人がこなしていた。 彼女はそれらのことに対して、僕に全く手出しをさせなかった。 僕が不快な気分になるのが嫌だから、と。 朝から夕まで事務所に待機し、必要があれば、こちらに依頼に来た人を任せるため、文句を覚悟で他の法律事務所に連絡をし、夕方からはボルハチ――僕とみぬきの仕事場――でアルバイト。 幸いにして、今まで彼女が体調を崩すことはなかった。 だが。 つい昨日、彼女は倒れた。 それが僕に、今日の発言をさせた。 ――2度と、君の顔なんて見たくない、と。 「ただいまー。パパ、ママは? 今日はみぬきのお仕事の手伝いをしてもらおうと思ってるんだけど」 学校から帰ってきたみぬきの言葉に、僕は軽く頭を振った。 どうも、眠ってしまっていたらしい。 電話のジャックは外してあるし、全く物音がなかったから、起こされることがなかったのだろう。 「……パパ?」 みぬきは一目で、こちらの状態がおかしいと気づいた。 「みぬき。ママは出て行った。パパが追い出したんだ」 「えっ、どうして!? ケンカでもしたの?」 喧嘩。それだったらどんなに良かっただろう。 これは僕から彼女への、一方的な――なんというか、恐らくはた迷惑な好意かも知れない。 「ママは、ここに居るべきじゃないんだ。僕のせいで酷い目に遭い続けて、昨日ついに倒れたしね」 「でもっ、ママはパパのこと、本当に好きなんだよ?」 「パパも彼女が大好きだよ。だから、ママが苦しいのは嫌なんだ」 今の僕は、彼女を幸せにできなくて、苦しめるばかりで。 大事だからこそ、幸せになってほしいからこそ、ここに居ちゃいけない。 事件を起こした、成歩堂龍一の傍に居ちゃいけないんだ。 いつかと一緒になるかも知れない、まだ見ぬ誰かを思うと、腹の底から不快感が上がってくるけど、それは僕の我侭でしかない。 以前の僕なら、彼女は僕が幸せにすると豪語しただろう。 今の僕では、そんな大それたことを言える気がしない。 弁護士を辞めた、ポーカープレイヤーの僕には。 「みぬき、ごめん。お前もママが大好きなのに」 少女はしばし俯き、それからぱっと顔を上げた。 表情には希望が溢れている。 今の僕には眩しい。 「だいじょうぶだよパパ。ママはきっと、パパの所に戻ってくるよ。時間がかかっても、戻ってきてくれるよ」 「………そう、かな?」 「そうだよ!」 どこから来る自信で、そんなことを言っているんだろうと思った。 彼女はきっともう、僕の手をとってくれない。 あんなに酷いことを言ったんだから。 ふうわりと漂ってきたコーヒーの香りに、僕はいつの間にやら閉じていた瞳を開いた。 ――夢、だったのか。 夢の中でも夢を見るなんて、器用なこった。 眠りこけていたらしい僕の隣で、女性がコーヒーを淹れている。 一瞬、どうしてここに居るのかと訝った。 「……あ、起きた?」 「……………」 僕はなんだか居ても立ってもいられず、ソファから体を起こし、の手を引いた。 彼女は慌ててカップをテーブルに置く。 「ちょ、ちょっとなるほど君!?」 咎めと疑問符の入り混じった言葉を無視して、彼女を抱きしめた。 何も言わずにそれを続ける僕に、は不思議そうに訪ねてきた。 「なるほど君、どうしたの? なにかあった……?」 「――何も。何もないんだ。君が愛しいだけだよ」 きっと彼女は赤くなっているだろう。 おとなしく腕に収まってくれているのは、おそらく、僕の様子が変だと分かっているからで。 今まで、幾度となく悪夢を見てきた。 たいていは、掴まされた偽造証拠を出す夢。 その他にも、多くの悪夢を――実際に起きたこともそうでないことも――見てきた。 けれど、僕の悪夢の最もたるものは、が――彼女が僕の元から去る夢だ。 去るように仕向けた、愚かな自分の夢。 ――大丈夫だ。はここにいる。 抱きしめた身体は温かく、現実だと理解させてくれる。 僕は彼女の首筋に顔をうずめた。 抵抗は、ない。 「離れないでくれ」 そして、離さないで。 言外の言葉を理解したかのように、は軽く息をつき、僕を抱きしめてくれた。 ちょっとだけ弱気なニットくん。 2007・5・12 ブラウザback |