きみが消える日


 いつの間にか閉じていたらしい眼を開くと、白い天井が見えた。
 腕に異物感を感じてそちらを見れば、細いチューブが腕にくっついていて、点滴から液体を流し込んでいる。
 ――病院?
 状況の把握がいまいちおぼつかず、硬いベッドの上から体を起こそうとして――入り口の戸が開いた。
 少し顔色の悪い成歩堂と、不安げなみぬきが入ってくる。
「なるほど君、みぬきちゃん」
「あっ、ママ、おはよう!」
 おはようの時間にしては、外が薄暗くなってきているから、目覚めの挨拶といったところか。
 一方の成歩堂は、難しい顔をしている。
 は首を傾げながらも、とりあえず状況を尋ねた。
「ここって……病院だよね?」
「……ああ。でも大丈夫、変な病気とかじゃないから。……倒れたときのこと、覚えてる?」
 どうやら自分は倒れたらしい。
 全く記憶がなく、首を振る。
 確か、雑務をしていたはずだ。
 例の『偽造』事件以降、成歩堂法律事務所はなくなった。
 現在は、成歩堂芸能事務所。
 だが実質はどうであれ、もうだいぶ時間が経つのに、それでも法律相談の電話がかかってきたり、ゴシップ記者の取材申し込みがあったり、いわれのない誹謗中傷まで、相変わらずだった。
 成歩堂は、それらの件に一切手を出していない。
 すべてが処理していた。というより、が成歩堂に手を出させなかった。
 これ以上、彼に不愉快な思いをさせたくはなかったから。
 法律関係で困っている人には、別の事務所を紹介し、事務所にまで来てしまった依頼人には話を聞いたうえで、やはり他所を紹介。
 記者や誹謗中傷は蹴散らした。
 そんな生活を、ずっと続けていたは、知らぬうちに疲労が蓄積していったのだろう。
 ついに今朝、倒れた――と、そういうことらしい。
「……ごめんね、心配かけて」
「いや。点滴が終わったら、帰っていいって」
「ママっ。今日は、みぬきが特製とんこつラーメン作るからね!」
 は微笑む。
「ありがとう。……じゃあ、点滴終わったらすぐに帰るから」
「みぬき。ちょっと外に出ててくれるか?」
 急な成歩堂の申し出に、みぬきはきょとんとしたが、すぐに頷いて外に出た。
 彼は軽く息をつき、に向き直る。
「30分ぐらいで点滴終わるそうだから、もう少し辛抱してくれ」
「うん」
 子供にするように頭を撫でられ、は軽く瞳を閉じる。
 成歩堂の手は温かくて優しくて、安心できた。
ちゃん。僕は君が大好きだよ」
「い……いきなり、何を言ってるの」
 唐突な告白というか発言に、は閉じていた目を開いた。
 彼の表情には、からかいや照れが全く入っていない。
 真剣そのもの。
「なるほど君……?」
「本当に好きなんだ。誰にもあげたくない」
「ええと……あ、ありがとう……」
 礼を言ってみるものの、何かしっくりこない成歩堂の態度に、疑問の音が混じる。
 おそらくは疑問に気づいている成歩堂は、けれどに自分の態度を説明する気もないらしい。
 彼はいつもの通りの、明るい笑顔をに向けた。
「もう少し、ゆっくりしているといいよ」


 彼の態度が決定的におかしいと気づいたのは、その翌日で。
 気づいた時には、ぜんぶが遅かった。

 いつも通りに出勤し、みぬきが使い散らかした道具を片付けながら、はふと時計を見た。
「……今日はずいぶん遅いなあ」
 どこかに出かけたくなる程の快晴だが、成歩堂はたいてい定時に事務所に来る。
 今日は、その『いつもの時間』をとっくに通り過ぎていた。
 何かあったのだろうか。
 眉を潜めていると、電話が鳴った。
 一気に疲れがやって来たような気がして、軽く息をつく。
 受話器を取ったと同時に、成歩堂が事務所に入ってきた。
 とりあえず、用件を片付けてしまおうと口を開きかけた途端、ぶつ、と音がした。
 後、無音。
 唖然として電話機を見やれば、成歩堂が電話のジャックを引き抜いていた。
 表情はいつにも増して険しい。
「……なっ、なるほど君?」
「電話なんて、出る必要ない」
「でも」
 続けようとした言葉は、音にならなかった。
 成歩堂が向けてくる視線が、今までに感じたこともない位、冷たくて。
 彼は戸惑っているを余所に、無言のままソファに置いてあった彼女の鞄を手に取る。次いで、彼女に乱暴に投げた。
 放られたそれを、慌てて受ける。
「ちょっ……なるほど君!」
「解雇する」
「―――え?」
 聞き間違いかと思った。冗談かとも。
 だが成歩堂の瞳には、本気の彩しか見えない。
 ――解雇?
 一気に体温が下がった気がした。なのに、鞄を持つ手が汗ばんでいる。
「私……何かした?」
「別に。――僕はこれでも一応ここの所長で、君は従業員。でも今は法律事務所じゃないし、君を雇う理由もなければ余裕もない」
「でもっ」
 すぅ、と成歩堂がの目の前に立つ。
 威圧感を感じながらも、彼女は彼を睨み付けた。
 ここで折れてはならないという、意地にも似た感情は、成歩堂の言葉に、あっさり粉砕されることとなる。
「恋人関係も解消するよ。もう、君とは付き合えない」
 彼に、表情の変化はない。
 さも当然のような、けれど冷たい口調で、言葉は続く。

「――もう僕に関わらないでくれ。2度と君の顔なんて見たくない」

 押し出されるようにして、事務所の外に追いやられる。
 抗議をしようと声を荒げるが、扉はぴたりと閉ざされ、開く気配がない。
「なっ……なるほど君! なるほど君てばっ! ねえ、どうしちゃったの!?」
 返事は、ない。
 それでも冷たい雰囲気だけは不思議と伝わってきて、は唇を噛む。
 何かがおかしくて、でもその何かを戻すことは、今の自分には出来そうになくて。
 ただ、無力感だけが体に横たわっている。
「なるほど君……」
 はため息をつき、扉に背を向ける。

 ――家に帰ろう。


逆4からだいたい5年前のお話。3話で唐突に終了します。
…まあ、彼らがその後どうなったのかは分かってるわけだから、こーいうのを書くんですが(笑)

2007・5・8
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