初夏 ある日の午後。 成歩堂なんでも事務所でお茶を飲んでいたに、王泥喜が訊いて来た。 ――そういえば、さんは先生と牙琉先生って、よくお茶してましたよね? と。 の横に座っている、彼女の恋人、成歩堂龍一の表情が、少々険しくなる。 王泥喜はそれに気付いていながらも、今更質問を引っ込められなかった。 訊ねられた当人は、彼の様子に気付いているのかいないのか、苦笑すると、口を開いた。 牙琉霧人。 がその人物に最初に会ったのは、まだ成歩堂が弁護士をしていた頃。 『事件』の前だ。 次に会ったのは、が成歩堂の事務所を追われてから、1年以上が経った夏の始め頃。 当時、は星影法律事務所で正式に仕事をしながら、司法書士の免許を取る事に必死だった。 仕事と勉強を並行しながら、成歩堂が弁護士資格を剥奪されるきっかけになった『事件』を探っていた。 そんな折、唐突に彼――牙琉は現れた。 やって来た理由は、知らない。 確か、弁護上の雑務の件――だったような気もするが、定かではない。 とにかく彼は、久しい顔ですねと微笑み、をお茶に誘った。 以来、少しずつ親交が増えた。 が彼の事務所に行くこともあった。 「そういえば、最近は成歩堂と連絡を取っていますか?」 ある時お茶をしている時に、ふいにそう聞かれ、は身体を強張らせた。 ある意味心より、身体というのは感情に正直なのかも知れない。 なんでもないことのような顔をするのが、ひどく難しかった。 「……いいえ」 「そうですか……。わたしはあなたの言う通り、成歩堂にあなたがどうしているのか、どこにいるのかを言っていません。約束しましたからね」 牙琉の指が、コーヒーカップの取っ手をなぞる。 はその様子を、ただ見つめていた。 牙琉と会うようになってから、は彼に再三お願いをしていた。 ――絶対に、私のことをなるほど君に言わないで下さい。 向こうが自分を気にしている訳もないと思いながら、それでも言わずにいられなかった。 牙琉は成歩堂と親交があり、ちょっとした話の中で自分の名が出てくるとも限らない。 それを考えての『お願い』だった。 「……もう、あそこは法律事務所ではありません。今の成歩堂龍一は、かつての彼とは違う。あなたが法律を勉強しても、成歩堂法律事務所には戻れない」 は瞳を伏せる。 そんなつもりで、法の勉強をしているんじゃない。 勉強は単純に『仕事』のためだ。かつて自分が失った場所を取り戻すための手段ではない。 星影法律事務所にいるのは、成歩堂の『事件』の真実を、断片でもいい、知りたいからだ。 ――牙琉霧人。 彼が、元は成歩堂が請け負った例の事件の、最初の弁護士だったことを調べた。 その他、幾つかの断片も顔を覗かせた。 けれども、多くの事実は霞の向こう側にあって、には手どころか指先だって届かない。 届きそうになると、自覚する。 手持ちの情報が足りず、とっかかりもなく、また、それを探す手段は自分にはないのだと。 俯くに、牙琉は首を振る。 「今の事務所では、あなたも肩身が狭いでしょう」 「……どういうことですか?」 「星影弁護士は、あなたや成歩堂を快く思っている。だから、特に何を言うでもないでしょうが……周り全員がそうだとは限らない」 「それは……そうですけど」 今はだいぶマシになったが、最初は酷かった。 成歩堂の事件は、弁護士やその卵たちに衝撃を与えた。 そのため、同じ『成歩堂』の苗字を持つが、法律事務所の一員としていることを、かなり鬱陶しく思っている輩もあった。 「今は平気です」 「だが、快い環境ではないでしょう。――どうです、うちに来ませんか」 は目を瞬く。 牙琉はやんわり笑っているが、その瞳は実に真剣だ。 ――正直、怖いぐらいに。 「成歩堂のことは、もう忘れてしまった方があなたのためです」 「牙琉さんは、なるほど君……成歩堂と仲が良いはずですが……友人に対しての言葉とも思えませんね」 皮肉にも似たの物言いにも、彼は笑顔だ。 「友人だからですよ。かつて彼が愛した人が、わたしの目の前で不幸になっていくなんて、楽しいものではありませんから」 彼はテーブルの上で指を組む。 眼鏡の奥の瞳は笑ってる。けれど、鋭い。 「わたしは、あなたに側にいて欲しいんですよ。成歩堂を忘れて、わたしの所へ来ていただけませんか。あなたは、忘れるべきなんです。成歩堂龍一を――過去の男として」 「………忘れるべきか否かは、私が決める事です。お誘いは嬉しいですが、星影先生の下で、やっていきます。今まで通り」 しん、と静まった空気が、互いの間に横たわる。 感覚の上では数分以上経った頃、牙琉は肩をすくめた。 「仕方がありませんね。あなたの気が変わったら、すぐに連絡を下さい。いつでも待っていますから」 理知的な瞳の裏に、打算や計算が視えるのは、はたしての気のせいだったのだろうか。 「……とまあ、そういう事で、私はずっと星影先生の事務所に。正直、疲れてたから、一瞬ぐらついたけど」 軽く笑うの横で、成歩堂は相変わらずの仏頂面だ。 王泥喜がフォローでもしようかと口を開きかけた瞬間、成歩堂がべろりとの首を舐めた。 「ぎゃーーー!」 「うわぁっ!」 は叫び、王泥喜は真っ赤になって万歳をしている。 ただひとり、成歩堂だけが我関せずな顔で、そっぽを向いていた。 「なぁっ、成歩堂さん! なにをしてるんですか!」 王泥喜に、 「ん……? ………別に。気分」 興味のない声が返る。 「気分で、変なことしないでよ!」 が極力成歩堂から離れようと、腰を浮かせた。 しかし、移動は叶わなかった。 成歩堂が彼女の腕を、がっちり掴んでいたからだ。 「」 「は、はい?」 「これ以上のことをされたくなかったら、離れないように」 そっぽを向きながら、実に適当な声色で言っているのに、妙な本気を感じては表情を引き攣らせる。 素直に彼の横に戻った。 王泥喜は、成歩堂の妙な迫力に圧されてか、何も言えないようだ。 はそっと溜息をついた。 「……7年前は、もっと……なんていうか、迫力がなかったのになぁ……」 「僕も大人になったからね」 はははと笑う成歩堂。 は溜息をついた。 ――厄介な大人になったなあ。 …やっぱり、4の成歩堂氏はこんなイメージなんだろうか、私。 2007・5・1 |