屋上


 王泥喜から貸してもらった携帯を持つ手が、変に汗ばむ。
 病院の屋上に出た成歩堂は、2度、深呼吸をした。
 意を決して、表示されたままの表示番号に、電話をかける。
 耳にあてる携帯の感覚が、奇妙に現実離れしていた。
 コール音が幾度か鳴った後、
『――もしもし? 王泥喜君?』
 求め続けていた声が、した。
 生唾を飲み、一気にうるさくなった心臓を無視して、言葉を捜す。
「……久しぶり」
 電話の向こうで、彼女――が息を飲んだのが分かった。
 沈黙。
 後、震える声で言葉を紡ぐ。
『っ……な、なるほど、くん』
 問答無用で電話を切られる可能性も考えていたが、それはどうやらないようだ。
 軽くホッとしながらも、次の瞬間に通話を終了されるかも知れないことを恐れている。
 かつて自分が、彼女との関係を、一方的に切ったみたいに。
「元気、だったか?」
『……うん、そっちは?』
「まあまあだよ。今は少しばかり入院してるけどね」
『えっ!? にゅ、入院ってどっか悪いの?』
 不安で狼狽した声を耳にし、成歩堂は苦笑する。
 本気でこちらを心配してくれているのが分かったからだ。
「いや。かすり傷なんだけど、念のためってやつさ」
 よかったと安堵するの様子は、なんとなく想像がつく気がした。
 実際どうかは知らないが。
 成歩堂は息をつく。
 聞かなくてはならないことが、ある。
。……星影弁護士の所にいるんだって?」
 彼女は一瞬戸惑い、何かに気付いたのだろう。
 まあ、この携帯の持ち主を考えれば、状況は簡単に把握できる。
『王泥喜君情報だね。……うん。なるほど君に解雇されてから、ずっと星影法律事務所にいる』
 ――そんなに長いこといたのか。
 星影法律事務所。
 成歩堂の師匠である、故・綾里千尋がかつて勤めていた場所だ。
 確かに、弁護士資格を剥奪されて以来、出入りをしていなかったが……まさか、そこに彼女がいるとは。
『実は、御剣検事が便宜を図ってくれたの。どうしても、法律事務所で仕事していたいんだって我侭言って……』
 ――御剣め。今度文句言ってやる。
 眉根をひそめ、ため息をついた。
「どうして法律事務所に。僕の『事件』で散々いやな目に遭ったのに」
 例の事件以降、『成歩堂』は疑惑の名前になった。
 は同じ『成歩堂』の苗字を持つ。
 法律事務所――しかも弁護士の――にいたら、肩身が狭いに決まっている。
 なのに、何故。
『ずっと……例のことを調べてた。7年前の、あのこと。私が調べられることなんて、ほんの小さなことのみだけど』
 瞬間、成歩堂は語気を荒くしそうになり、慌てて息を飲み込む。
 5年間、自分がそうあって欲しくはなかった事実が、目の前にある。
 だが、彼女を怒鳴りつけたいのではない。
 冷静になれと言い聞かせるあまり、声色が冷たくなった――気がした。
「僕は、君にそんなことを頼んでいない」
『うん。自己満足だよ、こんなの』
 いっそ憎らしいほど爽やかに言われ、成歩堂は上着のポケットに手を突っ込み、空を仰ぎ見た。
 との関係を断ち切った日と同じか、それ以上に晴れている。
『……なるほど君は、もう私のことなんて、忘れてると思ってた。だから電話貰ってびっくりしたよ』
「っ……忘れるなんて、そんなこと、あるはずないだろ」
 成歩堂は、それこそ1日だって忘れたりしなかった。
 遠い親戚だからじゃない。
 事務所の所員だったからじゃない。
 一生を共にしたと願った人だったからだ。
 ――いや、だった、じゃない。現在進行形だ。
 言いたい言葉がのどにつかえて、出てこない。
 成歩堂は奥歯を噛む。
「僕は君を……幸せにしたかった。でも、バッジを奪われて、弁護士じゃなくなった。君に苦労をさせて、倒れさせた」
 倒れた原因は、成歩堂の7年前の事件だ。
 事後処理。しつこく電話してくる、ゴシップの記者たち。
 罵倒。批判。その他もろもろ。
 事件の本当の所を捜して苦労していた成歩堂に、できる限り迷惑をかけまいと、が必死に踏ん張って――その結果、極度の過労疲労で倒れた。
 その時、成歩堂は決めた。
「……僕のことや、事件のことを忘れて欲しかった。だから酷いことを言って、君を……なのに」
『忘れようと、してはみたんだよ。でも、出来なかった』
 電話の先の彼女が微笑む。
 その、気配がした。
『出来なかったの。なるほど君の傍にいる自分しか、想像できなかった。フラれちゃったのにね』
 ――まだ。まだ全部の事件は片付いていない。
 けど、それがなんだというんだ。
 失ったはずのものが、目の前にある。
 手を伸ばせば届く。
 手遅れだと言い聞かせていたものは、実は手遅れじゃなかった。
 知って、無視など――到底できようはずもなかった。
 成歩堂は口端を上げる。
「引田クリニックにいる。もし……その、良かったら……」
『会って、いいの?』
 物凄く恐る恐る問われた。
 かつての自分の愚かな発言に、パンチでも食らわせてやりたい。
「僕が、会いたいんだよ」



ささくれたなるほど君が大好きです。
2007・4・19
ブラウザback