廻る歯車



 ここ数日、成歩堂法律事務所に切羽詰った依頼はない。
 元々、依頼数自体が多くはない事務所なので、所長以下の者たちはそのことに対して焦りがない――というのも問題かも知れないが。

 は吹き付けるビル風から自分を守るように、コートの前を合わせる。
 2月の始めだが、今日は特に冷えた。
 買ったばかりの事務用品を持つ手が、風に中てられてひどく冷たい。
 夏の盛りになれば冬が恋しくなるが、冬の寒さに身を切られている間は、夏が恋しくなる。
 人間って勝手なものだなと思いながら、成歩堂法律事務所が入っているビルに足を踏み入れた。


「ただいま戻りましたー」
「あっ、お帰り!」
「おかえりなさいませ!」
 元気に返事を返したのは、綾里真宵、春美の両名。
 あるべき声がひとつ足りず、はその人物――所長の成歩堂を見やった。
 彼はソファに腰かけ、難しい顔をして雑誌を見ている。
 手にしているのは、彼が普段読まないようなゴシップ満載のものだろう。妙にテラテラした見出しが多い。
 そういう本を読むにしては、あまりにも瞳が真剣で、だから余計に目を引く。
「ねえ、真宵ちゃん……って、あれ? 帰るの?」
 いそいそい帰り支度をしている真宵と春美。
 事務所の終業時間までには、まだ随分と時間があるというのに。
「あっ、そうだ。ちゃん、明日から修行だからね。いつもより早い時間に、事務所に集合だよ!」
「集合です!」
 真宵の言葉に、合いの手を入れる春美。
 は瞬きする。
「…………はい?」
「なるほど君とちゃんも、保護者として一緒についてくることになったから。よろしくね!」
「ごめん。話がよく見えないんだけど」
 真宵の説明によると、葉桜院というところで霊媒の修行ができるらしく、それに申し込んだのだそうだ。
 実際に申し込みをしたのは、春美なのだそうだが。
 未成年者は保護者同伴でなければならず、よって、成歩堂とが一緒についていくことに。
 ……正直には、自分が行く必要性を余り感じないのだけれど。
「なるほど君、最初は嫌がってたんだけど、あの雑誌見せたら急に行く気になってくれたんだよ。変だよね」
「へぇ……確かに」
「さあさあ真宵さま、早くお支度しなければ!」
「あ、そうだね。じゃあちゃん、また明日!」
 言うが早いか、真宵と春美は事務所から出て行ってしまった。
 とりあえず手荷物を置き、買った品を所定の位置に置いて、それから成歩堂に声をかけた。
「……なるほど君?」
「…………うん」
 完全に思考がどこかへ飛んでいる。
 手に持った本を、飽きることなくじーっと見つめている彼。
 そんなに凄いことが書いてあるのだろうか?
 は、ぼうっとしている彼の手から、本を奪い取った。
「あっ、ちゃん!」
「何をそんなに、死ぬほど真剣な目で……ひゃぁっ!」
「だめだ!!」
 読もうとしたの手から、半ば無理やり本を奪い返す成歩堂。
 凄い勢いで取り返されて、は目を丸くすることしかできなかった。
 腹が立つという以前に、何が彼をそこまでさせるのかという疑問が浮かぶ。
「そ、そんなに見せたくないモノなわけ?」
 彼は押し黙ったまま、雑誌を鞄の中に突っ込んだ。
 明らかにおかしい彼の態度。
 その原因が、先ほどの雑誌であることは明白だが、表紙すらまともに見ていないには、立ち読みすることもできない。
 成歩堂は難しい顔をしたまま、静かに謝る。
「……ごめん」
「いいよ」
 いつもなら、多少気の利いた言い訳でも考えるのだろうが、今の彼はそうしない。
 は軽く息をつき、キッチンでコーヒーを2つ淹れてくると、片方を成歩堂に渡した。
「はいこれ。少しは落ち着くよ」
「あ、ありがとう。………それで、さ、ちゃん」
「明日のこと?」
 先に問えば、頷かれる。
「個人的には、留守番していて欲しいんだけど……」
「いやだ」
 きっぱり断る。
 彼はやはりと肩をすくめた。
 の答えが、最初から分かっていたみたいに。
 成歩堂が何を隠しているのか知らないし、それが何を意味するのかも分からない。
 けれど、彼が苦しそうにしているから。
「なるほど君が辛そうなのに、私だけのんびりしてられないよ。――まあ、邪魔だって言うなら話は別なんだけど」
「邪魔なんて! そんなの……思うはず、ないだろ。でも……嫌な予感がするんだ。だから」
「それなら尚更ついて行く。何も出来ないかも知れないけどね」
 肩をすくめて笑うに、成歩堂はやっと表情を緩めた。
「……ちゃん、ごめんな」
「なんで謝るのかなあ」
 何も悪いことをされていないのに。

 
 ――その『ごめん』の意味が分かったのは、翌日のことだ。




2008・5・21