検事と私




「よう、子猫ちゃん」
 世の中に自分をそんな風に呼ぶ人はひとりしかない。
 は振り向きざまにその人の名前を呼ぶ。
「ゴドー検事。こんにちは」
 白い髪に不可思議なゴーグルを着けている男性は、微かに笑む。
「時間があるならどうだい。ゴドーブレンド……おごるぜ」



 弁護士と検事は、立場的には敵対関係だ。
 だから、その弁護士助手であると検事であるゴドーが、一緒のテーブルでコーヒーを(ちなみにゴドーブレンドではなく、普通にアメリカンだ)飲んでいるのは、ある種異様な光景かも知れない。
 周囲の人がちらちらと自分たちの方を見ているのは、ゴドーが身に着けているゴーグルのせいだろう。
 法廷で見慣れているにとって、それは既に違和感のないものと化しているが、見知らぬ人にとっては何事だという代物だから。
「……クッ、動物園の住人になった気分かい?」
 口端を上げて笑み、ゴドーはコーヒーカップに口をつける。
「というより、いかに法廷が順応性の高い所なのか、改めて思い知ったというか」
 まあ、御剣検事はともかくとして、狩魔冥は法廷内で鞭をびしばし振り回していたし。
 成歩堂が相手にする検事は、ひと癖もふた癖もある人ばかりで、だからも慣れてしまっているのだけれど。
 考えてみたら、法廷で鞭を振り回したり、コーヒーをがぶ飲みしたりするって、非常にオカシイ。
 一般人が聞いたら、なにそれ的な感じになると思う。
 それ以前に、法廷内は飲食禁止ではなかっただろうか。
 ゴドーは軽くカップを持ち上げ、
「長いものには巻かれる。雰囲気には流される……それが法廷のルールだぜ」
「いやいやいや、不味いでしょ、それは」
 雰囲気で有罪無罪を決められたら、たまったものじゃない。
 彼も本気で、そんなことを言っているわけではないだろうけど。

 2杯目のコーヒーに口をつけるゴドーを、は静かに見つめる。
 彼に対して、不思議に思うことがあった。
 初めて検事席に現れた時、彼は明らかに成歩堂を知っていた。
 ゴーグルで目は隠れているのに、全身から溢れ出る敵意は、今でも簡単に思い出せる。
 それが疑問のひとつ。
 もうひとつは……。
「ゴドー検事……聞いていいですか」
「駄目だと答えても、あんたは聞くだろう? なら、前置きはなしでいこうぜ」
 余裕で言う彼。
 もしかしたら、これからする質問を知っているのかも知れないと、は頭の隅で思う。
「検事は……私と初めて会った時、言いましたよね。――すまなかった、って」
 正面きって言われたわけではない。
 彼の初公判の後、すれ違いざまに、ほんの小さな声で放たれた謝罪だ。
 明らかに自分に対して向けられていたそれ。
 何に対してなのか確認することなく、今まで来てしまっていた。
「私と検事はあの時初対面でした。謝られる理由、見当たらないんですけど……」
 ゴドーは軽く鼻を鳴らし、カップを満たす、彼曰く『闇』を見つめている。
 決して付き合いが長いわけではないので、には、彼が考えをめぐらしているのか、そうでないのか分からない。
 仮面があるので、表情も読めない。
 だから、だということではないと思うが、黙られたままだと少々居心地が悪い。
 変にむずむずして、軽く椅子に座りなおすに、ゴドーの目が向く。
「……灰色にしておくべきままのことも、世の中には存在すると思わねえか、子猫ちゃん」
「灰色ですか……」
 弁護士や検事は、真実をつまびらかにするために居ると、は思っている。
 ナルホドの影響であることは、間違いないが。
 その片割れ――検事から、『灰色のままがいい』といわれると、少しばかり微妙な感じがする。
「完璧な大人の味に、甘くて白い子供の味を突っ込む――あんたは、そういうことをしたいのかい」
「……………あの。甘くて白いのって、ミルクか何かですか」
「クッ、分かってるじゃねえか」
 ゴドーブレンドの中に、ミルクを入れてしまうとか、そういうことだろうか。
 ――や、違うでしょ。そうじゃないでしょ。
「えーと……。つまり、知る必要がないことに首を突っ込むなと?」
「その通りだ」
 彼はテーブルに肘をつき、の方少しだけ身体を寄せる。
 聞き分けの悪い子に言い含めるように。
「あんたは今、幸せなんだろう? だったら余計なことは考えず、良い子にしていればいいのさ」
 言い、ゴドーはコーヒーを煽った。
 何を聞いても答えてはくれないのだと、は漠然と理解する。
 胸の内はモヤモヤしているが、相手に全く答える気がないのに、言葉を引き出すような真似は、自分にはできない。
「子猫ちゃん。……あんたが、まるほどうのせいで不幸にならないことを願ってるぜ」
「私、なるほど君と一緒にいられて幸せですよ。だから、不幸になんて、ならないと思います」
 軽く片手を上げて、宣誓するかのごとく言う。
 ゴドーは咽喉の奥で笑った。
「まるほどうが聞いたら、喜んで卒倒するだろうぜ」
 たぶん、それはない。



「コーヒー、ごちそうさまでした」
 店の外へ出て、ぺこりと頭を下げるに、ゴドーは軽く鼻を鳴らした。
「気にすることはねえ。……また法廷で会う事になるだろうぜ」
「私は傍聴席の住人ですけどね」
 軽く肩をすくめるの鞄から、携帯の音が聞こえてきた。
 電話ではない。
 成歩堂からのメールだった。
「なんだ。王子様からの手紙か?」
「お、王子。それはちょっと……なるほど君には似合わないよ……。でもまあ、そうかも」
 了解、とだけ簡単に返信を済ませて、携帯を閉じる。
 仕事ができた。
 春美が駅に来ているから、迎えに行かなければならない。
「それじゃあ、ここで。また!」
 急いて駆けるを、ゴドーはただ静かに見ていた。





2008・4・29
ゴドーさん…難しい。