風邪っぴき


 その日、成歩堂龍一は風邪を引いていた。
 マスクで口を覆い、咳をしながらそれでもソファに座っている。
 ……依頼人がいないのが救いともいえる(普通に考えたら、仕事がないのは大問題だ)。
「うぅ……げほっ、げほっ!!」
「なるほど君、少し横になった方がいいんじゃ……いや、それ以前に今日はもうお休みしちゃうとか」
 立場的には、成歩堂法律事務所員のが、部屋の片づけをしながら言う。
 所長の成歩堂がこの有様では、もし依頼人が来たとしても、とてもマトモに調書が取れないだろう。
 は咳をしている成歩堂にお茶を出しつつ、彼に進言する。
「お休みが駄目なら、私が代わりにここで電話番してるから。なるほど君は家に戻って――」
「いやいや、大丈夫だからさ。気にしないでよ」
 気にするなと言われても、近場で咳をとめどなくされていては気になる。
 もう1人のお手伝い、綾里真宵はというと、知り合いの弁護士『星影法律事務所』の所長のところに、遊びに(勉強しに?)行っていた。
 成歩堂を説得するなら、自分だけでせねばならない。
「気になるから。すっごく。悪化したら困るし」
 とはいえ、は法律知識を持っていない。
 案件についての詳しい説明など、当然できない。
 結局のところ、成歩堂が帰るのであれば、事務所を閉めてしまった方が良いような気もする。
「平気だよ。風邪薬もあるしな」
「うぅーん……どうしても帰らない?」
「さすがにヤバいと感じたら帰るけどさ、今はまだ熱もないから平気だよ」
 今は、という辺りが既に危険な気がするのだが。
 仕方なくは、事務所に常備してある毛布を彼に渡して、楽な姿勢を取らせる。
「……うん、少しは楽かな。ありがとう、ちゃん……っげほっ!!」
「風邪用の水あめでもあればなぁ。……そういえば」
「?」
 唐突に何かを思い出したかのように、は成歩堂の顔をまじまじと見やった。
 どうかしたのかと、目をパチパチさせている彼を暫く見つめた後――ばちこん、と手を叩く。
「思い出した!!」
「思い出したって……何を」
 けほけほとむせつつ問う成歩堂。
「なるほど君、何年か前に被告人席にいたでしょう!!」
 ぶは! と大仰に噴き出す彼。
「な、なな……なん、で知って」
 うんうんと勝手に納得しつつ、は感慨深げに言う。
「私ね――実は傍聴席にいたの。父親に連れられて」
「う、うぇぇぇ!! 本当に!!??」
「ホント。凄いねぇ、人って変われば変わるもんだわ……。風邪のマスクしてる、なるほど君を
見てて思い出すなんて、ちょっとマヌケかも知れないけど」



 ――成歩堂龍一が被告人として法廷に立ったのは、21歳の時。
 その裁判を、は何の偶然か傍聴していた。
 三角関係のもつれからの殺人容疑――と、当初は考えられていた裁判。
 実際は、もっと複雑な事件だったのだけれど。
 ともかくは、彼が法廷で何度もくしゃみしたり、付き合っていた彼女の悪口を言われて大泣きしたりしたのを覚えている。
 とってもとっても、コドモっぽい人だなぁと思ったのだ。
 運命の人だと言えるなんて、凄いなぁとも思っていた。
 彼の判決は勿論、無罪放免。
 でなければ、今こうして成歩堂が事務所にいるわけがない。
 ともあれ、それが成歩堂との、最初の出会いだ。
 一方的ではあったけれど。


 は、ふぅ、と息を吐き、成歩堂の座っているソファの端に腰を落とす。
「今のなるほど君を見てると、当時の事が嘘みたいに思える」
「……」
 無言の成歩堂に、はしまったと首をすくめた。
 あの記憶は、当然ながら彼にとって面白いものではないだろう事だった。
 簡単に口にしていい物じゃなかった――。
「ご、ごめんなさ――」
「い、いや、そうじゃなくてさ」
 違うんだと苦笑する成歩堂。
 は首を傾げた。
「……あの当時の僕、確かに物凄く勘違いというか……子供っぽかったしなぁ。ちゃんに見られてたかと思うと、恥ずかしいんだよ、凄く」
「泣いたりしてたもんね」
 それこそ、大泣きだ。
 その彼が、こうして弁護士になってバリバリ働いているのを見ると、本当に不思議である。
 ふとした疑問が浮かび、はそれを口にした。
「――なるほど君、今でも運命って信じてる?」
「運命、ねぇ……けほっ」
 鼻を軽くすする彼。
 ほとんど悩まず、答えが返ってきた。
「あればいいと思ってるよ。ちゃんがここに来たのだって、偶然、というより運命って言った方が、なんかちょっとカッコイイだろ?」
「そういう問題かな」
「全面的に信じてるわけじゃないさ。昔とは違うよ、さすがにね」
「……運命の恋かぁ。そんなの感じたことないわ、私は」
 の言に、成歩堂は小さく笑う。
「運命なんて、感じる必要ないさ。その人が好きかどうか、ただその事実があればいいだけだろ?」
「ま、まあそうだけど……」
 は少しだけ照れ笑いし、うーんと唸る。
「でも……それだけなるほど君に想われてるって、いいな」
「……ちゃん? もしかして……嫉妬してる?」
 返事の代わりに、は、ぱふ、と彼に掛かっている毛布の上から圧し掛かる。
 なんだか、自分が急に子供っぽく感じられた。嫉妬なんて。しかも、彼の過去の恋人に。
 胸の辺りがムズムズしているのは、無視した。
「か、風邪うつっちゃうぞ!」
「なるほど君の風邪ならうつってもいーや」
「え」
 ぼ、と音が立ちそうなほどに成歩堂の顔が赤くなった。
 ぶるぶると首を振り、熱を逃がす彼。
「い、いやいやいやっ、そ、それはちょっと不味いし」
「……冗談だってば。ネクタイ緩めて、シャツのボタン1個外して、それから寝なよ。苦しくなっちゃうかもだから」
「あ、ああ……うん」
 言われたとおりに行動する成歩堂。
 見届け、は彼の上からどいて、端っこにちょこんと座りなおす。
「お望みなら、膝枕するよ?」
「い、いいよ、大丈夫。ありがとう」
「そう? それじゃ、ゆっくりね。私ここにいるから、何かあったらすぐ言ってねー」
 ばふ、と毛布を頭までかける
 成歩堂は暫く困っていたが、結局そのまま眠りについてしまった。

 起きた時、何がどうなったのか分からないが、成歩堂の頭はしっかりの膝の上にあったという。


2008・4・22