心、満たされて。




 成歩堂が怒って帰ってしまってから、は身も世もなく泣き崩れたい気分に駆られた。
 実際、泣きそうな表情をしていたのだろう。
 正面にいる御剣は、ひどく狼狽しているように見えた。
君。あの男に気持ちを伝えるのなら、手遅れにならないほうがいい」
 俯くに、御剣の声は温かい。
 ――そうだよ。こんな所で、女々しく泣いてる場合じゃない。
「御剣検事」
「行きたまえ」
 言って、彼は微笑む。
「……結果を知らせてくれれば、嬉しい。上手くいくことを願っている」
 微笑む御剣。
 もつられて笑みを浮かべると、こっくり頷き、荷物を持って店の外へ向かう。
 成歩堂への気持ちをきちんと理解させてくれた御剣に、心の中で、何度もお礼を言いながら。



 事務所に帰ってきた。
 すぐには入れず、扉に手をかけて、深呼吸する。
 落ち着かなくては。
 勢いに任せて、訳の分からないことを口走る可能性がある。
 もう一度深呼吸してから、はドアを開いた。
 応接室には、誰の姿もない。
 普段は真宵がいるはずなのだが、携帯も何もないし、もしかしたら帰ってしまったのだろうか。
 まあ、終業時間までめいっぱいきちんと、彼女がいることは珍しくもあるのだが。
 ――いなくて良かったような、悪かったような。
 物音は所長室――成歩堂の執務部屋からのみしている。
 意を決して、戸をノックした。
「な、なるほど君。ただいま……入るよ」
 入っていいと言われてはいないが、勝手に入る。
 駄目だと言われたら、引き下がってしまいそうな自分がいたから。
 成歩堂は、余り使われない机に座り、書類に目を通しているところだった。
 仕事を邪魔するべきではない。
 用件が、果てしなく個人的なものだからだ。
 思うと同時に、これは言い訳で、きっと今を逃せば言えなくなると、なんとなくだがはそう理解していた。
 勇気を出せ。
 成歩堂は顔を上げない。
「あのっ、あのね、成歩堂君。私、言いたいことが」
「……分かってるよ」
 彼は顔を上げないまま、硬い声色で告げる。
 の言葉はノドの奥に引っ込んだ。
「なにが……?」
「僕なんかより、御剣のほうがずっと頼りになるもんな。相談ごとだってなんだって、あいつを頼るに決まってる」
 そんなことない、と否定の言葉を上げる前に、成歩堂の冷たい声が刺さる。
「僕には教えたくないんだろ」
「だ、だって……」
 それは、成歩堂に相談できる種のものではなかったからだ。
 『貴方が好きかもしれないんですけど、どうしたらいいでしょう』なんて、言えるわけがない。
 教えたくないのではなく、教えられなかっただけ。
 今、は自分の気持ち――その答えを手にしている。
 けれども、今の状態でそれを口に出せるだろうか。
 成歩堂は明らかに不機嫌で、だから、気持ちを口にするためには、ちょっと以上の勇気が要る。
 彼の指先が、書面の字面をなぞる。
 暫しの後、書類がめくられた。
 新たなそれを、また同じように指でなぞりながら、視線で追っていく。
 これ以上機嫌を悪くしてくれるなという雰囲気が、口にせずとも大いに伝わってくる気がした。
 でも。
 ――言わなくちゃ。これ以上、遅くなる前に。
 勇気だの根性だの、旅の恥はかき捨てだの、場にそぐわないんだかそうでないんだか、とにかく言葉が脳裏を駆け回っている。
 は、覚悟を決めた。
「なるほど君。この間の返事……なんだけど」
 途端、成歩堂の動きがぴたりと止まった。
 視線は書類に固定されたままだが。
 懸命に自分を落ち着かせながら、は急速に乾きだしたノドを無視して、言う。
「なるほど君が……私、龍一さんが、すき、です」
 成歩堂の視線が、やっとでを捕らえる。
 彼の目は驚きに満ちていた。
 先ほどまでの怒りはどこかへ消えうせ、今は驚愕しかない。
「で、でも……御剣、は?」
「……相談したのは、なるほど君のことなんだよ。私、ここんとこ……あなたの顔も見れなくなってたでしょ」
「うん……そう、だね」
 言いながら、成歩堂は腰を浮かせて立ち上がった。
 彼に近くまでこられて、はぎゅっと目を瞑り、それから成歩堂を見上げた。
 近距離に彼の顔があって、心臓が躍り上がる。
 頑張れ自分。
「このままじゃ駄目で、でもどうしていいのか分からなくて。困ってたら、御剣検事とちょうどよく会って……だから、相談、したの」
「じゃあ……ちゃん、御剣が好き……とかじゃあ」
 まっすぐ、気持ちが伝わりますように。
 願い、もう一度口にする。
「違うってば。……成歩堂龍一さんが、好き、です」
 今度こそ信じてくれたのか、成歩堂は真っ赤になって、口元に手をやっている。
 赤くなりたいのはこっちだと思いつつ、実際、自分も顔を染めているに違いないと、は思う。
 彼は暫しの後に軽く息をつき、苦笑した。
「僕、バカみたいだ。勝手に誤解して、八つ当たりして……ごめん」
 やっとでは肩の力を抜く。
 今更受け入れてくれないかも知れない言葉は、けれど、とりあえず彼にしっかり伝わった。
「御剣検事に、謝っておいてね。……後で電話することになってるから、その時にでもいいよ」
「あ、うん……」
 成歩堂は少々微妙な表情を浮かべたが、すぐに頷いた。
「それで、さ。その……恋人ってことで、いいのかな。ちゃんと、僕の関係」
 もし、成歩堂にその気があるのなら、に異存などあるはずもない。
 彼のことが好きなのだから。
 成歩堂法律事務所で仕事を始めた時には、全く考えもつかなかったけれど。
「……なるほど君が、まだ、私でいいって思ってくれてるなら……コイビトに、して下さい」
 彼は軽く笑み、そっと――というより、恐る恐るかも知れない――の身体を抱きしめた。
 ゼロ距離が嬉しく感じられて、は瞳を閉じる。
 成歩堂がどんな顔をしているのか見えないけれど、彼も、少しは喜んでくれていたらいい。
「……これから、よろしく」
「こちらこそ……よろしくお願いします」


 この日を境に、成歩堂龍一と成歩堂の関係は、大きく変化した。
「でも、あんまり2人の態度って、今までと違わないよねえ?」
 付き合いだしたことに気づいた真宵が問うと、成歩堂は言葉を詰まらせ
「ひ、人前でイチャイチャするわけないだろ!」
 赤ら顔で答えたりした。


人前でイチャつかないと言う弁護士は、未来ではイチャコラしまくりニットになるという。
2007・9・7