帰ってきて、それから



ちゃん!!」
 病院らしからぬほどの騒音を立てて入って来た成歩堂に、半ば夢うつつの状態だったは、一気に覚醒した。
 点滴を打たれていない方の手で目を擦る。
 顔だけ動かして声のした方を見れば、今にも泣きそうな顔の成歩堂がいた。
「ただいま……なるほど君」
「――お帰り。本当に……無事で良かった」
 彼は今更ながら静かに扉を閉め、点滴のついていない方の腕側へ移動し、脇の椅子に座る。
 そんなに長い間、離れていたわけではないのに、成歩堂の姿を見るのが、やけに久しぶりな気がした。
 誘拐されていたと同じ、とは言わないが、彼も健康的とは言えない顔色で、目の下にうっすらクマがある所を見ると、ろくすぽ寝られなかったのだろう。
 成歩堂は軽く息を吐いた。
「怪我は大事なかったみたいで、よかった」
「うん。まあ、血が出た割には傷がひどくなかったから。ところで……王都楼真悟は?」
「僕としては無罪放免にして、スリルのある毎日を送って欲しかったんだけどね。自白して、有罪になったよ」
 と真宵が、唐突に解放されたのは、コロシヤが王都楼との『契約』を破棄したことによるものだった。
 破棄させたのは成歩堂。
 何よりも、依頼者との信頼関係を重んじるコロシヤ。
 だが、王都楼の方はそうではなく、あわよくばコロシヤを脅してやろうと、犯行の一部始終を、ビデオで撮影していた。
 成歩堂によってそれがコロシヤに伝わり、王都楼がコロシヤに――ビジネス抜きで――狙われることとなった。
 無罪になれば、コロシヤが命を狙ってくる。
 王都楼にとっては、有罪で刑務所に入る方が、より安全だった。
「じゃあ、なるほど君は無罪にしようとしたんだ?」
「まあね……頭にきてたから」
「黒いなあ、なるほど君」
 苦笑する
「ところで、真宵ちゃんは?」
「凄い勢いで食事してたよ。イトノコさんに任せて、僕はこっちに来ちゃったけど……今日は事務所ではみちゃんと一緒に寝るって。もう倉院の里に行くバスがないしね」
「そっか」
 は暫し考え、頷く。
「真宵ちゃんとはみちゃんに、私の部屋使ってもらってよ。事務所より快適なはずだから」
 今日は自宅に戻らないで、病院にいなさいと医師に言われている。
 真宵のことばかり気にしていて、少々自分を疎かにしすぎた結果だ。
 与えられた水も、殆どを真宵に渡していたのだから、致しかたがない。
 どうせ帰宅しないのだからと、鍵を彼女たちに渡すよう、成歩堂にお願いした。
 彼は頷くと、ほんの少し、困ったような顔をした。
 どうかしたのかと首を傾げる。
 彼は、小さな声で言葉を紡いだ。
「――失ってしまうんじゃないかって思って、凄く怖かったんだ。考えると、今でも震えがくる」
「でも……ほら、真宵ちゃん無事だし、元気だし。よかったじゃない?」
 少々ズレた発言をするに、成歩堂は目を瞬く。
 先ほどの言葉が、誰に向けられているものかを完全に取り違えていて。
 それは毎度のことだったが、今回ばかりはそのままで済ますつもりが、彼にはなかった。
 雰囲気の変わった成歩堂に気付き、は何か不味いことを言ったのかと、布団の中で縮こまる。
「……相変わらず、自分のことだって……思わないんだな」
「なるほど、君? ええと……自分のことって」
 成歩堂の指が、の手を掴む。
 彼の手が自分の指に絡まり、もう片方の手で包み込むようにされるのを、はじっと見つめていた。
 言葉を挟めなかった。
 向けられる視線は真剣そのもので、まるで法廷にいる時のような雰囲気だが、瞳は優しくて温かな彩を灯している。
 絡められた指が気恥ずかしいのに、外してと言えない。
「コロシヤが君を害したって知った時――本気で頭にきた。思考が真っ赤になるぐらい」
「……あ、ありがと」
 お礼を言うべき場所ではないかも知れないが、それしか言葉が出てこない。
 恥ずかしくてたまらないのに、成歩堂の言葉が耳に心地よくて。
 ――変だ。心臓がうるさい。
 成歩堂は言葉をすぐには続けず――何かを決意したみたいに、微かに頷いた。
 ほんの微か、先程より強く、手を握られる。
「僕……ちゃんが大事なんだ。護りたい。誰にも傷つけさせたくない」
 彼の言葉は、すぅるりと気持ちの中に入ってきて、驚くほどあっさり落ち着いた。
 以前から彼は自分を大事にしてくれているし、護られている自覚があったからかも知れない。
 けれど、真っ直ぐな気持ちは、にとってはどこか違和感を拭えない。
 だって、これではまるで告白みたいだ。
 微かに狼狽するに、成歩堂は告げる。
 大事にとっておいた言葉を、そっと空気の上に乗せるみたいに。

「君が、好きだよ」

 ――うそ。本当に告白!?
 まさか本当に告白されると思っていなかったは、驚いて身体を一気に起こした。
 右腕の点滴が引っ張られて、少々痛い。
 しかもいきなり身体を起こしたせいか、視界がぐらついた。
 成歩堂は慌てて掴んでいた手を離し、彼女の身体を支える。
ちゃん! だめだよ、大人しくしてないと」
「う、うん……っていうか、だって。あの、その……」
 彼の顔が上手く見られない。
 意を決して成歩堂を見れば、明らかに頬が紅潮していて。
 たぶん、こちらも似たような状態だろうけれど。
 成歩堂はを横にさせると、軽く息を吐いた。
「――ごめん、急にこんなこと言って」
「ううん……」
「僕、もう少しここにいるけど……ちゃんは眠って。君が眠ったら、真宵ちゃんたちのところに戻るから」
 ――返事、しないでいいのかなあ。
 不安交じりの表情で成歩堂を見やると、彼は意図するところに気付いたのか、の髪をくしゃりと撫でた。
「今は、とにかく休んで」
「……うん」
 こくりと頷き、目を閉じる。
 成歩堂の指が瞼をそっとなぞってきて、なんだか妙に安心した。
 求めるように左手を伸ばす。当たり前のように握ってくれた。
 頭の中がぐるぐるして、絶対に眠れないと思っていたのに、成歩堂の体温が気持ちよくて、あっという間に現実から遠ざかっていく。
「お休み」
 返事を返すことなく、は眠りに引きずり込まれて行った。



2007・7・1