Sweet Inganity 9



 朝から仰々しいもんだわと思いながら、は大きなあくびを噛み殺していた。
 隣の席に座っているメリルは内心を察したのか、苦笑いを向けくる。
「もうすぐ到着いたしますが……」
 運転手の硬質な声と共に、もう1つ、小さなあくびを噛み殺した。
「正面玄関に停めてくれ」
 とメリルの正面に座っている男――八ヶ瀬公平――が運転手に告げた。
 車はなだらかな道を、滑るように進んでいく。



 翠の息子、桂。
 彼が、秘密裏にフィランソロピーに接触した日の翌日、はスーツに着替えさせられ、玄関口へと出された。
 そこには黒い車があり、その前には見覚えのある人物が立っていた。
 以前、『のお披露目』と称したパーティーに無理矢理連れて行かれた時、多少なりと好意を持った人物だ。
 少々驚きを覚つつも、彼が結婚相手であると理解すると同時に、今回のターゲットだと認識する。
 ――八ヶ瀬公平。
 彼が結婚をどう思っているかは知らないが、少なくとも政略的な形のそれを認めているという部分では、自分とは相容れそうにないとは思う。
 ともあれ、公平の『自分と自分の会社を紹介する』という名目に添って、は今、八ヶ瀬の車に乗っている。
 同行を申し出たメリルもあっさりと乗せてくれる辺り、今の所、目立った不審点はないと言えるだろう。
 公平の、漆黒の髪は、前よりも随分簡単にセットされている。
 傍目にはその辺の男性――見目はいい――と変わらない。
 とても会社を経営しているとは思えない風体だ。

 スネークやオタコンたちには、既に八ヶ瀬カンパニーに向かう事を連絡してある。
 ただ、バースト通信ができるかは不明だ。
 大企業となれば、情報収集能力とて優れているだろう。
 を娶る前提ならば、あれこれと調べてたに違いないし、だとしたらフィランソロピー活動に従事していた事も理解しているはず。
 正也の話では、この会社はメタルギア兵器に関する何かを作っている。
 だとすれば、警戒していておかしくない。
 その前提の上で、ものを考えた結果。
 ――メリルがいる状態で、いきなり何かの行動を起こす可能性は……薄い、かなあ?
 仮にも、婚約者を会社に案内するという名目で連れてきていている。
 周囲にだってそれ相応の対応を求めている最中、いきなり何かの行動を起こす可能性は低いと思われるが。
 ――いざとなれば、行動をモニタリング?
 出来るかどうかはともかくとして、思考だけは巡らせる
 難しい顔をしていたのか、メリルに肘で突かれた。


 随分と大きな敷地の中に、その会社はあった。
 正面に停められた車を迎えるように、数名の社員が佇立している。
「さあ、どうぞ」
 先に降りた公平がドアを開け、手を差し出している。
 は小さく息を吐くと、その手を取った。
 ――考えすぎてしまうのは、前のフェイト・ワークス事件の場所が『会社』だったからだろうか。
 深々と頭を下げる――おそらく幹部たち――に目で挨拶しながら、とメリルは公平の後について社内へ入る。
 広々とした――というには余りある気もするフロアが、目の前にあった。
 ヒールで歩く女性の、軽く物を何処かに叩くような音がよく耳に入る。
 鬱陶しいぐらいに磨かれた床を歩き、円形に仕切られたカウンターの側に立った。
 営業スマイルを浮かべた受付のお姉さんは、当たり前のように美人だ。
「おはようございます若社長」
 形のいい笑みを浮かべた受付嬢の1人に、公平が微笑みかけた。
「これから客人に社内を見せようと思う。パスを出してくれないか」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
 短い応酬の後、受付嬢は手元の端末(だと思う。私の位置からは見えないけど)を操作し始めた。
待つ少しの間、は周りを見回す。
 2階、3階とあり、それぞれエスカレータが付いている。
 エレベータは4機確認。
 丁度登社時間なのか、ざっと見ても仕事人が多い。
 スーツに身を包んだ人たちが、思い思いの場所に散っていく。
 はメリルに呟いた。
「随分と普通の会社だね」
「さあ? どうなのかしら」
 意識していないと忘れてしまうが、メリルは普通の会社に勤めていない。
 まして日本企業の事など、聞いたところで分かるはずもなかった。
、ミス・メリル、これを」
 公平にカードを手渡され、2人はそれを受け取った。
「基本的には持っているだけで大丈夫だよ。センサーが勝手に認識してくれるから。何処にでも入れる、っていう訳じゃないし、一度外に出ると無効になるけどね」
 社内を案内するだけならそれで充分だから、と言う公平の後について歩き出す。
 はカードをジャケットの内ポケットにしまい、案内される先を見てまわる。

「1階は受付と、各部に移る移動手段が主。2階を案内するよ」
 通りすがりの男性が公平に声を掛けるが、全て『来客案内中だ』の言葉で一蹴する。
 挨拶は勿論返しているが、それ以外の案件は全てシャットダウンという感じだ。

 エスカレータで2階に上がる。
「ここの階はまあ大体大体接客とか……社員の休憩所だな」
「そうみたい、だね」
 は頷いた。
 下からで分からなかったが、食堂(というよりは立派なレストラン)やカフェ、ファーストフードまでがずらりと並んでいる。
 3階は医療関係、ヘアーサロンその他。

「仕事はどこでしているのかしら?」
 メリルの言葉に公平が上を示す。
「これからご案内しますよ」
 エレベータに乗り、上へと向かう。
 次に着いたのは6階。
「ここは営業部署の中枢」
「うん」
 見たところ、殆どの机が埋まっているが――まだ営業には出ていないのだろうか。
「あの、まだ営業さんたち出ないんですか?」
「ああ、ここの部屋の人間は殆ど営業に出ない。営業人員を管理している所だからね、送られてくる報告書や状況経過を把握して、次の指示を出す」
「ふぅん」
 言われて見れば、報告書らしきものが次々とプリントアウトされている気もする。
 今が見ているのは廊下に向かって左の部屋だが、右の部屋には大きなサーバーらしきものが置いてあった。
 4、5階が営業部らしいが、そちらは殆ど人がいないそうだ。
 何人の営業社員がいるか知らないが、要は、営業管理をするこの階の人たちは、秀でた能力の持ち主なのだろう。

「7階から上2階までは海外事業部関係」
 案内されながら、はあちこち目を走らせる。
 上司に怒られている部下、無表情でモニタに向かう人、コーヒーを零したらしく慌てる男性。
 部下を教育しているのか、側に付き添って話をしている中年の男性。
 カラーコーディネートの必要に迫られているのか、色彩チャート表と睨めっこしている女性。
 電話で、英語ではない言葉を静かに喋る男性、女性。
 大声で英語を喋る男女、黙々とファイルを整理している女性。
 絶え間なくキーボードの上を統べる手。
 多分――普通の会社の風景だ。
 その他にも、総轄部、システム系などの部署を案内される。
 かなりざっとした説明だったが、公平曰く、会社が広すぎて全部を回るのは骨が折れる、だそうだ。
 見せられるような場所は、全部見せてもらえたらしい。
 あくまで『見せられる場所』だが。
 少なくとも、が見てきた場所の中に、不審点など――当然ながら見当たらない。
 ごく普通に、働く人たちのための場所だった。
 メリルの方を見やると、彼女も引っ掛かりを覚える所が見つからなかったのか、肩をすくめていた。
 公平がとメリルを見やる。
「疲れただろう? もうそろそろ昼食だけど、一緒にどうかな」
 はちらりとメリルに視線を送る。
 彼女は肩をすくめた。
「公平さん、あの……申し訳ないですが次の機会に」
「君は、お祖母さんに苦労してるみたいだから、こういう時に気を抜きたい?」
 微笑みながら公平が言う。
 は失笑しながら頷いた。
「どこか適当なカフェに下ろして頂けると、とても感謝しますけど」
「そうだね……いいよ。ただし交換条件だ」
「条件、ですか?」
「敬語を止めて、以前のように楽にしてくれること。肩が凝るんだ。ついでに名前で呼んでくれないかな」
 は目を瞬き、公平が冗談を言っているわけではないのだと理解した。
 苦笑いしながら頷く。
「わかったよ公平」
「それじゃあ、下に車を待たせておくから、好きな所に行くといい。君のお祖母さんには内緒にしておくから」
 お礼を言うと「婚約者だからね」と返され、は微妙な表情を浮かべてしまった。


2008・11・28