(大きくなったおんなのこ)



 男――レイヴンは、自分が手入れしようとしていた弓が、宿屋の床に転がる音を聞いた。
 同室であるユーリとカロルはレイヴンの状態を見て唖然とし、何が起こったのかさっぱり分からない様子で口をぽかんと開いている。
 状況が把握できないのはレイヴンも同様だった。
 ベッドの上で胡坐をかいていたはずの自分の上に、どうして女の子の顔があるんだ。
 押し倒されたような状態だが、どう考えても彼女は上から降って来た。
 圧し掛かられているレイヴンはともかくとして、ユーリとカロルは、彼女が何もない所から突然現れた様をはっきりと見ている。
 誰もが硬直したままで、無言の空間が暫し続く。
 最初に動いたのは、件の女だった。
「お兄、さん」
「え……」
 懐かしい呼び方。
 正体不明の少女の指が、そっとレイヴンの頬に触れる。指先が僅かに震えていた。
 ベッドに背中をあずけたままの気恥ずかしさに耐えきれず、レイヴンは身体を起こす。
 彼女もレイヴンに押し上げられるような形で座った。
 彼の足の間に、ちょこんと座っている格好。互いの距離は殆どない。
「お兄さん」
 今にも泣き出しそうな声だと思った。
 肩までの真っ直ぐな黒髪は、一連の行動のせいでか少し乱れ、緑色の瞳は潤んでいる。
 艶やかな女性と関係することが多いレイヴン。
 この程度で揺さぶられるなど、普段の彼からしたら考えられない。
 けれども彼女の眼を見た途端、逸らせなくなってしまった。
「お兄さん、会いたかった」
 首元に抱きついてくる彼女を、無意識に抱きとめる。
 ――まさか、そんな。信じられない。
 彼女の温もりは、10年以上前に失ったそれと奇妙に合致して、レイヴンの記憶を引っ張り出す。
 本当に、幼子だった彼女なのだろうか。
 あどけなさの抜けきらない、でも女性のからだを持つこの子が?
「お、おい……おっさん」
 明らかに戸惑ったユーリの声に、レイヴンははっとした。
 抱きとめていた手を解き、彼女の両肩を掴んで引き離す。
 もしもこの子が本当にあの時の幼子だとしたら、かなり厄介な問題になってしまう。
「お、お譲ちゃん、名前は?」
 レイヴンの反応に少し違和感を覚えたような顔をし、
「……私、です。……覚えてない……?」
 表情を曇らせる彼女。
 ああ、そんな顔しないでくれ。覚えていない訳じゃない。
 言いたいのに、言えない。
 彼女に出会ったときと今とでは環境が違う。今はレイヴンとして活動している最中だし、本名を口走られたら指令をまっとうできなくなる。
 ぐるぐる回る思考。レイヴンは小さな困惑の呻き声を上げる。
 それを聞き取ったらしい彼女は、
「ちょ、ちょっと!」
「ご……めん、なさい」
 ぼろっと涙を落とした。見ていたカロルがぎょっとする。
「れっ、レイヴンなに泣かして」
「っ、泣くなって! ちょっとこっちおいでっ」
 レイヴンは目を擦るの手を掴み、全く状況が掴めないでいるユーリとカロルを無視して部屋の外に出た。


 ギルドの巣窟ダングレスト。
 その中核を担う5大ギルドのひとつ、天を射る矢の幹部として働いているレイヴンは、名前も顔もよく知られている。
 名が通っているのは仕事をする上で有利であるが、こと、泣き顔の少女を連れていると悪目立ちして仕方がない。
 を外に連れ出し、どこか落ち着ける場所をと思ったはいいが、考えつかないでいる。
 酒場は論外。喧し過ぎる。かといって、天を射る矢の幹部が使う部屋も駄目だ。茶々が入る。
 結局、人が来そうもない路地に、彼女を連れ込むことになってしまった。
「ふー。参ったわね。帰ったらユーリとカロルの質問攻めかしら……」
 魔導器の灯りがそれなりに届いているため、路地に入ったところだがの様子はよく見える。彼女は俯いたままだ。
 レイヴンはため息をつくと、彼女の頭をぽんぽんと叩いた。
「顔を上げなさいな」
「おに……お兄さん……私のこと、忘れたんじゃ」
「さっきは事情があったのよ。俺様の名前を呼ばれる訳にはいかなくてね」
 やれやれと肩をすくめたレイヴンは、未だ涙の浮いた彼女の目じりを指先で拭ってやった。
「久しぶりね。随分と大きくなっちゃって。――見違えたわ」
「だってもう10年ですよ」
 ふにゃりと微笑む
 レイヴンの相好も自然と緩みかかり、はて、と疑問を差し挟む。
「あれ、なんかおかしくない? 俺様もう35歳なんだけど……あの時は何歳だったのよ」
「私は確か、8歳でした」
「……3年ぐらいのずれがあるわね。自分だけ、より年寄りになった気がして嫌だわ」
「ね、お兄さん。さっきから思ってたんですが、その口調と格好」
 の視線が、男の格好を眺めて上から下へと動く。
 無理もない。幼子のの前にいたのは『シュヴァーン』だが、今は『レイヴン』。
 10年も会っていない相手――しかもかつてとは雰囲気からしてまるで違う――を一度で見抜いたらしい彼女の観察眼は、凄まじいものがある。
 レイヴンは念のため、周囲に気配がないことを改めて確認し、『レイヴン』を止める。
 にとってはどこか見知った、ユーリ達旅仲間は知らない雰囲気がそこにあった。
「……君と離れてから色々とあってな。今はシュヴァーン隊を率いている。上からの命令で働いているから、隊員とは離れているが」
「つまりさっきまでの態度は、偽装工作のひとつ、ですか」
「ああ。だから彼らの前ではシュヴァーンの名は秘匿されておくべきものだし、君の口から名を語られては不味かったので、ああいう態度に……すまなかった。それに――まさか本当に君が」
「戻ってくるなんて、思ってなかった?」
 訊ねに頷くレイヴン。
 突然現れて、突然消えてしまった。
 当時から漠然と、が戻ってくることはない気がしていたし、後に起こった様々な出来事で、正直な話、と過ごした時間などなかったのではないかとさえ考えるようになっていた。
「何度も何度もここに戻ってこようとしたけど、できなかった。小さな私には言葉に出来ない類の感情だったけど、お兄さんの傍にいたかったから、凄く辛かった」
 レイヴンは何も言えず、ただ彼女の話を耳にしていた。
 紡がれる内容よりもの声色に集中し、心地よさを感じている自分に、我知らず失笑を浮かべる。
「父と母に、『いつかきっと行けるから、その時に備えなさい』と言われて、出来ることを頑張ったの」
 は困ったように眉を下げた。
「お兄さん。……迷惑だってことは分かってます。今の貴方に、騎士の姿を知る私は迷惑で、仕事に邪魔になりかねないって知ってる。でも」
 一拍置き、彼女はレイヴンの瞳を真っ直ぐに見つめ
「一緒にいさせて下さい」
 言った。
 レイヴンははっきりと、戸惑いを面に浮かべてしまう。
、俺は、あの頃とは何もかもが違う」
 彼女は知らない。戦争で、実質『シュヴァーン』は故人と化したことを。
 こうして話をしていると、不思議と己の身体に命が巡っている気になる。だが、レイヴンであれシュヴァーンであれ、人としての容を特殊な方法で保っているに過ぎない。
 そこに感情があったとして、ひどく薄っぺらなものではないかと思えてしまう。
 最早シュヴァーンは人間というより人形で、だから意地もなければ覚悟もなく、ましてや人の好意を受け取るなど出来ない。
 少なくとも、彼当人はそう感じていた。
「違っているのは、勿論、君もだ。君はもう幼子ではない」
 幼い面差しをどこか残しつつも、今やは完全に少女と女性の境目にある。
 記憶の中の彼女は、時に悪戯っ子の顔をのぞかせる優しい顔をしていた。
 今はどことなく瞳に力強さと鋭さを持ち合わせた、凛とした印象を受ける。
 愛らしさを感じるのは贔屓目だろうかと、レイヴンは軽く頭を振った。
「私は、保護して欲しいのではありません。確かに私はこちらに対して無知で、放り出されたら困ったりするかも知れませんけど、自分の食い扶持ぐらいはなんとかなります」
「それはつまり、どういう」
「幼子の私は、貴方から受けるだけでした。だから今度は、貴方の力になりたい」
 微笑む彼女は恐ろしく綺麗に見える。
「好きなんです。まだ、貴方のことが」
 ――ああ、止めてくれ。
 瞬間的に湧きあがった正体不明の衝動を、レイヴンは無理やり圧し潰した。
 何も知らないままでいて欲しい。二度と会わない方がいい。
 思考とは裏腹に、レイヴンは否定の言葉を発せなかった。
 幼子の彼女へそうしたように、やんわりと抱き締める。
 温かさが、冷えた自分の身体に心地よかった。
「……
「まだお返事いりません。会ったばかりだもの。それに、お断りされたら泣きます」
「泣くな。お前の泣き顔には抵抗できそうにない」
「はい。――で、一緒にいていいでしょうか?」
「仲間の許可がいる。それと……」
「口裏は会わせます。大丈夫、父と母のおかげで色々身につきましたから」
 くすくす笑う。レイヴンも彼女を腕の中に収めたまま、口端を上げた。


「ところで、どうやってここに?」
「知り合いに、今度は事故じゃなくて意図的に飛ばしてもらいました。あ、もうあちらには戻れませんので」
「!?」



2010・2・9
とりあえず戻ってきたということで。