(おわかれ)



 無意識だった。
 掴んだ手の平には暖かな温もりがある。繋がった先の少女は、シュヴァーンの行動に驚いているのか、大きな眼をぱちぱち瞬かせていた。
 ――なんだ今のは。目の錯覚か?
「お兄さん、痛い」
 知らず力を入れていたらしい腕に、は非難の声をぶつけてきた。シュヴァーンは慌てて手を離すと、己の掌と彼女の姿を交互に見やった。
 シュヴァーンの室内にあって、はいつも通りの姿でそこに在る。彼女が先程まで読んでいた本は床に落ちてしまっていた。
 息を吐き、本を拾うと埃を払って彼女に渡す。彼女は受け取りながらも、目線で疑問を訴えてくる。
「すまない。その、君が一瞬消えたように見えたんだ」
「そんな力もってないです」
「だろうな。気にしないでくれ」
「ん……」
 小首を傾げ、ややあって、は椅子に腰を下ろして読書に没頭し始めた。
 いつもと変わらない風景。垣間見た歪を、彼は頭を振って追い出した。
 ――の全身が透けていたなんて、気のせいだ、きっと。


 アレクセイ隊の中隊長であるシュヴァーンの仕事は、他の同位の者たちと比べれば少しばかり多い。
 元々、中隊長という身分は、隊長よりも現場に近く仕事が多くはある。
 小隊長からの報告を吟味、他、細かい雑務などの全てが圧し掛かってくる中間管理職だ。
 他のそれよりシュヴァーンが大変なのは、アレクセイが騎士団長であるから。
 時には他の団長からの書類も、シュヴァーン経由で騎士団長に回ったりするため、業務を溜めると捌ききれなくなりかねなかった。
 ――溜め込んでいた未処理のものを一気に仕上げた疲れで、妙なものを見たか?
 件の現象を思い返し、シュヴァーンは苦笑する。
 いくらなんでも気にしすぎだろう。見たのは昼間、今は夜だ。悶々と考え続けていたわけではないが、仕事の合間にふと浮かんできてしまうのはどうしたものか。
 ため息交じりに自室に戻って扉を開くと、
「起きていたのか」
 窓際の机に頬杖をついて座っているの姿があった。
 普段なら眠っている時間だろうに、眠たそうな素振りも見せず、こちらを振り返る。
「おかえりなさい」
「ただいま。……灯りも点けずにどうした。眠れないのか」
「ううん、お兄さんの顔見てからと思って」
「なにをだ」
 シュヴァーンはとりあえず騎士服を脱いで楽な格好になると、ベッドに腰を下ろした。それを見たが彼の傍に移動する。
 彼女も同じようにベッドに上がると、なにを思ったのかシュヴァーンの両頬に手を添え、じっと顔を見つめた。
 暗い室内だが、窓から差し込む光で互いの表情は視認できる。の緑の瞳が目の前にあるのは、少しだけ居心地が悪いように思えたが、シュヴァーンは視線を逸らすことはなかった。
 の指が、彼の目元をそっと撫でる。
「わたしに優しくしてくれて、ありがとう」
「……?」
「お兄さんがだいすき」
、一体――っ」
 ちゅ、と可愛いリップ音を立てて、の口唇が頬に触れた。
 硬直するシュヴァーン。
 少女は泣きそうな、それでいて幸せそうな、およそ子供らしからぬ複雑な表情を浮かべている。
 ぎゅっと首元に抱きついてくる体を、彼は何気なく抱きしめ返してやった。
「ど、う……したんだ?」
「もうちょっとだけ、ぎゅってしてて」
 言われるまま暫く求めに応じていると、首元に顔を埋めたまま、が呟いた。

「だいすきだよ、シュヴァーン」

 瞬間、抱き留めていたはずの手が、その感触を失う。
 信じられない面持ちで彼は己の両腕を見やり、確認する必要もないのに念入りに室内を見回した。部屋の中には、当たり前のように自身しかない。
……?」
 急に、室内から温もりが消え失せた気がした。
 腕に残る少女の体温は、最早余韻でしかなくなっていて。
「帰った、のか……?」
 光と共に現れた彼女は、夜闇の中に溶けるようにして去って行ってしまった。そうと理解したシュヴァーンは、誰かに脳天を揺さぶられたような衝撃を受けた。
 明日は久しぶりに、ふたりで町へ出ようと思っていた。興味がありそうな魔導器の本も手に入った。苦手な甘味だが、一緒に作ろうと約束してもいた。なのに。
 昼に感じた、が透けて消えてしまうようなあれは、錯覚ではなかったのだろう。少女自身も違和だかなんだかに気付いて、だからお別れのために夜遅くまで自分を待っていた。
「参っ、た」
 シュヴァーンは額に手をやり、自然と歪んでしまう顔を堪えるように奥歯をぎゅっと噛みしめる。
 あの綺麗な目を持つ少女を失ったことで、こんなに衝撃を受けるとは。多少の予想はしていたが、その威力たるや予想以上だった。いつか帰るのだと分かっていたのに。
 ――嘘だと言って出てきてくれたらいいのに。
 口付けを落とされた左頬へと自然に手をやる。大きくなったら結婚してくれと言った彼女の姿が脳裏に浮かんだ。成長した彼女の姿を見ることなど、きっとないだろう。
 何処から来て、何処へ去ったかも知れない幼子。
「――元気でいろ、
 窓から覗く帝都の景色を眺めながら、シュヴァーンは呟いた。
 二度と会えないかも知れない少女の幸福を祈りながら。




2010・2・3