幼子



「シュヴァーン」
 声をかけられ、書類を片手に彼は振り向くと上司であるアレクセイの姿があった。
 彼は目にかかった銀の髪を軽く指先で払うと、シュヴァーンに近づいてきた。
 シュヴァーンは頭を下げる。
「騎士団長、お疲れ様です。私になにか」
「件の少女だが、どうなったか気になってな」
「は。のことですか。騎士団長のご厚意のおかげで、特に問題もなく過ごしています」
「そうか。話に聞けば、なかなか将来有望な子供らしいな。新人兵を叩きのめしたと聞いたが」
 人の噂は早いものだ。
 思いながら、シュヴァーンはずり落ちてきた書類をきちんと抱え直す。
「いえ、偶然でしょう」
「あの幼子が実力で倒したとあっては、我が騎士団の劣化に頭を悩ませねばならんがな」
 くつくつと笑うアレクセイに、どうしたものやらシュヴァーンは曖昧な笑みを浮かべるに留めた。


 騎士団長と別れ、自室に戻ったシュヴァーンは、件の少女がわき目も振らずに文字の練習をしている様を見て、何故こうなったのかと自問した。
 答えは分かり切っている。
 自分が彼女の身元引受人になってしまったからだ。
 後ろ手に扉を閉めると、その音でやっと気付いたらしいがにこりと笑った。
「おかえりなさい! まだお仕事中?」
「ああ。書類整理なので、ここでやろうと思ってだな……」
「じゃあ、ちょっと机をかたづけます」
 は使い回しているらしい羊皮紙をどかし、シュヴァーンが作業する空間を作った。
 彼は、己の執務机でやろうと思うとは口に出せず、結果、小さな机で顔を突き合わせるようにして互いが互いの作業を進めることになってしまった。
 書類を眺めながら、シュヴァーンはの文字をちらりと見やる。
 数日前に見たときよりもずっと上達していた。
「上手くなったな」
「まだむつかしいです。でも、ご本はちゃんと読めるようになったの」
「そうか。は物覚えが早いな」
 言えば、嬉しそうに微笑む。
 子供らしいきらきらした笑みに、シュヴァーンは己の頬が緩むのが分かった。
 指先で書類を引っ掛けて捲り、何気なく記されている日付を見て、あぁ、と声を上げる。
 日々に忙殺されてあまり意識していなかったが、彼女が突然現れてから、既にひと月は経っていた。
 もっと長くと一緒にいる気になっていたけれど、案外そうでもなかったらしい。
 ふと、なにかに気付いたかのように、紙面に向かおうとしていた彼女が声を上げた。
「あのねお兄さん、あしたはお食事係のおばちゃんたちがお菓子を作るから、余ったらくれるって。いっしょに食べよう?」
「すまんが、俺は甘いものが苦手でな」
「そっか。じゃあもらったらわたしが食べるね」
 あっさりと言って、文字の練習に戻った。
 幼子の顔をなんとなく見つめ、彼女と自分がこうなるに至った経緯をを思い出して嘆息する。
 ――軽率だったが、仕方がないな。
 ・マクドール。
 現れた彼女の扱いに、シュヴァーンは当然困った。
 なにもない空間から現れましたなどと言えば、キチガイ扱いされかねない。
 気づいたら部屋にいました、では不法侵入者だ。
 出身はと聞けば意味不明な返答が返ってくるし、ちょくちょく話が通じない。
 半ばお手上げ状態だったが、上官へ報告するのにも踏ん切りがつかず。
 そんな時、当の上官である騎士団長アレクセイが現れた。
 彼の存在は、の状況を良い方向へ導くものだった。
 アレクセイは彼女の話を聞くと、その不審な出自を全くものともせず、の生活する環境を整えた――シュヴァーンにとっては少々問題のある方法で。
 
 帝都ザーフィアスの王城やその直近に住まうには、それなりの身分や保証が必要となる。
 給仕のひとりとして、身辺不如意なものはない。
 しかも叩き上げが利く騎士と違い、周囲は貴族に何かしらの繋がりを持つ者ばかり。
 には身分も保証もない。
 そこでアレクセイは、シュヴァーンをの保護者に仕立て上げた――親戚筋として。
 探られれば痛い胎だが、騎士団長が後ろ盾とあっては表立って事を荒立てようという者もない。
 もしもシュヴァーンが彼女の保護者係を拒否していたら、は孤児として扱われるはずだった。
 妙に懐いてくれている少女を無下に扱えず、結果、は一時的に・オルトレインとしてこの城の中で生活をしている。
 立場は小間使い。厨房の婦人などと一緒に仕事をするが、半ばシュヴァーン専属のようになっていた。
 使用人の部屋に彼女の寝床はあるものの、主な活動拠点はシュヴァーンの自室。
 陰口を言われそうな環境であるのに誰も口を挟まないのは、騎士団長のお墨付き以外にも、オルトレインの名が威力を発揮しているからだろう。
「お兄さん」
「ん……なんだ?」
「わたしの顔、へん? じっと見てるね」
「あ、ああいや……すまない。考え事をしていた。騎士団長と顔をあわせて、君のことを聞かれたものだから」
「騎士団長さまに?」
「君が騎士を倒したことを知っていた」
「ふぅん。あの人、ぎらぎらしすぎてて、ちょっとコワイ」
 の発言に、シュヴァーンは軽く目を見開いた。
 ――彼が怖い?
 アレクセイは騎士の中の騎士、騎士の鑑、英雄と称される人物だ。
 たいていの騎士がそうであるように、シュヴァーンもまた彼に尊敬の念を抱いている。
 平民上がりのシュヴァーンが、周囲から見れば円滑に昇進できたのはアレクセイの推しがあったからだ。
 今では彼の隊で中隊長を任されているし、彼の存在なくして己はないとさえ感じる。
 だから、この小さな少女の発言に疑問を持った。
「どこが怖いんだ?」
「わたしのお父さんが言ってた。えっと、『ケンジンとボウクンは、ひょうりなんだよ』って」
「賢人と暴君は表裏……。だがそれがどうして」
「団長さまは、まっすぐすぎてコワイと思ったの。……でも、うーん。よくは分からない、です」
 ごめんなさいとペコリ、お辞儀をする。子供の感覚的なものだろうか。
 少しばかりしょんぼりしてしまった彼女に、シュヴァーンは別の話を振った。
「君は、本が好きみたいだな」
「ここのご本、おもしろいの。わたしの国にはないものがたくさんあって」
「……まあ、別の場所から来たらしいからな、君は」
 の会話の中には、シュヴァーンにとって明らかに意味不明なものが含まれることがある。
 というのも、彼女はどうやら魔導器のない世界――つまり別世界からやってきたからだ。嘘か真かはともかくとして、少女自身はそう認識している。
 シュヴァーンが耳にした限りの情報では、確かに彼女の住まう場所とこことでは、まるで成り立ちが違った。
 魔導器の類を一切使わない。代わりに、別の力を用いている。
 の手の甲に浮かんでいる印が、魔導器代わりなのだそうだ。
 彼女が騎士を叩きのめしたのも、件の力に依るところらしい――武具の扱いも年齢にそぐわない程ではあったけれど。
 都の外に魔物がいるという点は同じだが、結界魔導器のようなものはなし。
 じゃあどうやって魔物を回避しているのかといえば、人間の多い場所には、あまりいないのだそうだ。
 聞けば聞くほど奇妙な話だった。
 けれどもシュヴァーンは、が嘘をついているとは思っていない。彼女が空中に突然現れたことを考えれば、何が起きても不思議ではないと考えていたからだった。

 文字の練習に少々飽いたのか、は手近に置いてあった本を手にとって読み始めた。
 数日前には読めていなかったはずの物だ。
 ――末恐ろしいな。
 シュヴァーンは胸の内でそんなことを思う。
 彼女の物覚えの速さときたら、砂場に水を含ませるような勢い。
 苦手なものなどなさそうだが、少し手ほどきした弓術は不得手のようだった。
 得意武器は棍であり、幼いながらも両親に技を叩きこまれているらしい。
 ――親は心配しているだろうな。
 一刻も早く帰宅させてやりたいが、己の力ではどうにもならない。
 涼しい顔をして紙面を見つめているを眺め、シュヴァーンは小さく息を吐いた。


2010・1・23