恋。
 妄執が支えだった男の、暫くぶりの感情の温かさ。
 姿が黒犬のその男は、確かに、恋の始まりを感じていた。
 ――あくまでも、姿は黒犬ではあるのだが。



ワンコがうちにやって来た 8



「母さん、勉強するんだから絶対に邪魔しないでよね」
 風呂上りに、は再三念を押してから、おぼんに紅茶を乗せて自室へと持って行く。
 鬱陶しいぐらいに注意しておいてなんだが、魔法学校の勉強に多大なる興味がある両親が、言葉程度でとどまるとは到底思えなかった。
 宿題をすると言えば、ちょくちょく娘の顔――否、魔法の勉強がどんなものか――を見に来る。
 この間など、母親が杖を振り回していた。
 その姿はまるで『魔法少女ごっこ』で、娘ながら軽く引いたものだ。
 ともかくは部屋に入るなり鍵を掛け、入れないようにしてしまう。
 窓から外を見ると、家路を急ぐサラリーマンが見えた。
 スーツが黒いせいか、闇の中に消えていくようにも見える。
 はカーテンを引いて、ちらりと部屋の扉を見やる。
 防音環境があるでもないので、もし廊下で両親が立ち聞きしようと思ったら中の音が漏れ聞こえてしまうが、さすがにそこまではするまい。
 万が一聞かれたら、『気のせいだろう』で押し通すつもりだ。
 アイスティーをテーブルの上に置き、夏用カーペットの上でくるまっているシリウスに声を掛ける。
「シリウス、もう元に戻って大丈夫だよ」
「ああ」
 の目の前で、彼は見る間に人間の姿へと変化していた。
 マクゴナガル先生の授業ではよく見るが、こうして別の人がアニメーガスから人間に戻るのを見ると。

 ぱちぱちぱち。

?」
「あ、思わず拍手したくなりました。あはは」
「そ、そうか」

 彼女は苦笑いするシリウスに微笑むと、途中までやっていたレポートを開きかけ――先にお茶を出す事にした。
「シリウスさんは、甘いのってダメでした、よね?」
「ああ。ん? ……言っただろうか、甘いのはダメだと」
 いいえ、とは首を横に振った。
 理由を口にするのは少々躊躇われたが、先ほどのように、一つの言葉でしんみりしてしまう事もないだろうと、彼女はなるべく明るく声を発した。
「以前、ルーピン先生が仰ってたんです。『僕の友人は、甘いのが大嫌いだった』って」
「ああ、なるほどな」
 それで納得がいったと、彼は頷く。
 はシリウスにストレートティーを入れてやる。
 彼はカップを受け取り、喉が渇いていたのか、ごくごくとほぼ一気飲み状態で飲んだ。
 まだ欲しそうだったので、すぐさま入れてやる。
 今度は一口ずつ飲んでいた。
「服は濡れてない――みたいですね。髪の毛は……少し濡れてるかな」
「あ、あぁ…」
 先ほどの風呂のせいなのだろう。
 服はまあともかくとして、髪先のほうが少しばかり湿っていた。
 黒髪で、しかもより長いとなると、乾かすのに普通はドライヤーを使わねばならないだろうに、シリウスの髪の毛は、ほんの少し湿っているだけだった。
「これ位なら、直ぐ乾きますね」
 引き出しからハンドタオルを持ち出し、シリウスの髪の毛を丁寧にふいていく。
 シリウスは自分でやると言ったが、彼女の方は首を横に振った。
「これぐらいさせて下さい。物凄い苦労かけてますし。あ、手の手当てもコレが終わったらしますから」
「……すまない」
 彼はとりあえず、好意を受けておく事にしたようだ。
 断った所で、がんとして譲らないような気がしたからだ。
 なんとなく、今までの感じから察するに、抵抗しても無駄だと思ったのだろう。
 元々そう濡れていなかった髪なだけに、ポンポン叩かれているうちに、直ぐに乾いてしまった。
 乾いたのが分かると、は直ぐに応急セットを持って来る。
 犬とのケンカ時についてしまった傷の、手当ての為だ。
 シリウスに言わせれば、かすり傷なのだが、傷を負わせてしまった側からすると、どんなものでも怪我は怪我、だ。
 今まで巻かれていた包帯を取り(これもそう濡れていない)消毒薬を取り出して、脱脂綿に液体をつけ、シリウスの傷に当てた。
 ――しみる程でもないらしい。

「ところで、何故、敬語に?」
「あ、え?」
 いきなり言われたので、なにがどう何故なのか、よく分からなかった。
 少し考え、彼が何を言っているのか理解すると、小さく唸りながら返事を返す。
「うーん、だってやっぱり……犬と人じゃ違うんで……」
 その発言にシリウスはクスリと笑う。
 自分の前で手当てをしているに向かって、暖かな――自分で出したのかと疑うくらい、柔らかい音で声を掛けた。
「普通にしてくれていい。わたしも、『』と呼ばせてもらってるしな」
 余りに柔らかな微笑と暖かな声に、一瞬の手当ての手が止まる。
 シリウスの顔を見たまま、頬を赤く染めた。
 まるで、ポッと音がしたような錯覚さえ覚える。
 シリウスはの表情を見て取るや、瞳を細めた。
 可愛いものを愛でるような表情で、は座りが悪くなる。
「えとっ、あの、はいっ……じゃなくて、うん」
 赤くなった顔を隠すように俯いて、手当てを再開する。
 最初は全く気にならなかったのだが、今や、シリウスの腕に触れることすら、顔を熱くさせる要因になってしまって。
 なんだか一目惚れする人の気分が分かる。
 包帯を巻く手が、奇妙な浮遊感に包まれている。
 ちゃんと巻けているか不安にすらなってきたが、出来上がりを見ると、普通に巻かれていた。
?」
「え、なにか」
「……その……大丈夫か?」
 どういう確認なのか。
 は首を傾げる。
「うん、大丈夫」
 微笑んで見せると、シリウスがわずかに目を伏せた。
 頬が赤くなっている気がするのは、きっと気のせいだ。


「さて、と。私はレポートやっちゃいますね」
「……奴のか」
 スネイプ、という言葉すら口に出したくもないのか『奴』と表現した彼に、は思わず噴き出しそうになった。
 確かにスネイプ先生はいい人ではない。
 いつも不機嫌面だし、特にグリフィンドール寮にとっては天敵以外の何者でもない。
 彼らの同級生時代というのは、一体どういう事になっていたのか。
 の興味は尽きない。
「分からない所は?」
 殆ど全部です!
 全力で言いたいところではあったが、それを言ってしまうには、まだ教科書を調べてはいない。
 一応努力した上で、聞くなればよし。
 そうでなければ、ただの怠慢になってしまう。
 シリウスに『適当な子』と思われるのは辛い。
 は、
「どうしても分からなくなったら聞く」
 とだけ言い、教科書を開いた。
「オーケー。じゃあわたしは、ハリーに手紙を書くことにするよ」
 はシリウスに羊皮紙を渡し、勉強机を使ってもらう。
 ちなみ自分は床机を使うことにした。


 しばし互いが無言になる。
 シリウスはそう長い時間もかからず手紙を書き上げた。
 内容は、の自宅に故あって世話になっている事。
 今は、危険が自分に及んでいない事。
 体の方は、全く問題がない事。
 それらを書いて、文末にハリーへの気遣いを記し、羊皮紙を丸めた。
 彼は梟を持っていないので、のものを借りることになるだろう。
「ふぅ…」
「うううぅぅ…………」
 シリウスが小さく息を吐くのとほぼ同時に、自分の後ろの床で机に向かっていたがいきなり唸り始めた。
 洗ったばかりでつやつやの黒い髪に手をやり、羊皮紙に向かっている彼女。
 問題に詰まったのか、耳の後ろをカリカリと掻いてうんうん唸っている。
 丸めた羊皮紙を机の上に置いたまま、シリウスは立ち上がって彼女の隣に座った。
 肩が少し触れる。
 自分の心拍が上がったような気がしたが、無視した。

「どうしたんだ」
「ここ……つっかかっちゃって……」
「どれ」
 示された問題の部分を見て、彼は思わず眉をひそめた。
 問題文をさっと読む。
 元々、魔法薬学というのは手先と手際の良さが必要とされる。
 同時に、薬草についての特徴の把握が必須で、教科書に書かれていることをそのままやっても、上手くいかないことが多い。
 基本の情報に一工夫。
 それが、魔法薬学の特徴で、他の授業と一線を隔すところでもある。
 が詰まっている箇所は、問題を出した人間の性格がよく分かるような類のものだった。
 シリウスは実際その人物を知っているだけに、『相変わらずひん曲がっているな』という感想を抱く。
 たいていの問題は、記されている材料の、それぞれの部位の違いによって現れる効能を、出来うる限り細かく正確に記せ――というもの。
 しかもが引っかかっているのは、独学で学ばなければ到底答えられないような類のものだった。
「これを習った覚えは?」
「うー……もしかしたら授業中にスネイプ先生が口にしてたかも知れませんが……記憶に」
「ないか」
「はい」
 スネイプも、大半の生徒が答えられないことを承知の上で出している節があると、シリウスはため息をつく。
 かといってレポートにそのまま『分かりません』などと書こうものなら、例の嫌みったらしい口調で、
『君は予習という言葉を知らないのかね? グリフィンドール5点減点』
 などと言い出しかねない。
 が「はふ」と息を吐き出した。
「魔法薬学の教科書ってだいたいが大雑把だから、苦手意識も高まるってもんですよ……私、実地も得意じゃないですし」
 教科書だというのに、実に分量が適当というか、大雑把に記されている事が多いのは確かだ。
 あれを一掴み、これを一切れ、といった感じで書かれていることが大半。
 色が変わったらそれを投入、なんて書かれているが、色が何色に変わったらなのかまでは書いていなかったりすることもざらにある。
 苦手意識を育成するのには、担当教師も一役買っているが。
、そうしょげ返ることもない。わたしが教えるから」
「あ、ありがとうございますぅぅ!」
 嬉しさのあまりにか満面の笑みを浮かべる
 振り向いた彼女の顔が物凄く近い。
「あ……」
「……っ」
 の動きが固まる。
 一瞬、互いに身動きが取れなくなった。
「ごご、ごめんなさい!」
「い、いや……」
 二人はぱっと顔を離すと、直ぐに羊皮紙に目を移す。
 まるで、ほんのり染まった頬を隠すみたいに。

 今しばらく、勉強を見てやっているシリウスが、に気づかないように――横顔に見惚れていたりするのは、彼だけの秘密。


 シリウスの、ハリー宛の手紙の文面の最後は、こう締めくくられていた。

 追伸。
 ハリー、もしわたしが……君の同級生を好きになったと言ったら……どうする?



2003・2・13
2009・8・17(修正)