シリウスは、ある意味ピンチを迎えていた。
 犬としてではなく、一人の男としての。



ワンコがうちにやって来た 7



「シリウス、ちょっと待ってて。私先に体洗っちゃうね」
 は現状を――諦めとも言うが――享受することに決めたらしい。
 そっとシリウス(犬)の頭を撫でると、彼を隣に置く形で自分の体を洗い始めた。
 勿論、シリウスは横を向いている。
 ――見てしまったら、何かが一気に崩れそうな気が。
 極力、彼女の方に目を向けないようにし、しばらくあちらこちらに目を走らせる。
 当たり前だがマグル世界の上に日本製だろう品ばかりで、シリウスの見知ったものは全くない。
 十数年もまともな暮らしをしていなかったから、今更洗顔がどうの、などと言わないけれど。
 じゃばりと湯が一気に流れる音がし、の体を覆っていた泡が拭われた。
 目にそれが留まってしまい、シリウスは自らの体が固まったのを感じる。
 黒犬、ある意味危険。

「んじゃ、次はシリウスね」
 彼女はいつの間にか敬語を使わなくなっていた。
 それがどれ程の問題であるかと問われると、少なくともシリウスにとっては全く問題がない。
 故に別段注意も文句もないのだが。
「いや、別に、俺は――」
「あ、しゃべった」
 二人きりだから問題はないのだが、いきなり言葉を発したため、少しだけが驚いたようだった。
 動揺のあまりにか、人称が『わたし』ではなく『俺』になっているのも、驚きに一役買っているだろう。
「俺は、別に――いい、遠慮する」
「そうはいかないの。だって、母さんに怒られるもん」
 そういえばそうだった。
 仕方なく、シリウスは「頼む」と、彼女に体を任せる事にした。

 はおとなしくしているシリウスを、わしわしと洗いはじめる。
 母親はちゃっかり『犬用シャンプー』なるものを買って来ていたらしい。
 鏡の前にひっそりと置かれていたそれを、折角なので使うことにした。
 アニメーガスの体を洗う。
 服の上から洗ってる事になるのか?
 疑問を覚えつつも、彼の方からは特に注意をされていないのでそのまま洗っていく。
 背中やら足やら尻尾やら。
 ともかく目に付く所――というか、全身を撫でるように洗っていった。
 時たま、くすぐったそうに身を震わすシリウスが可愛い。
「シリウス、痒いトコない?」
「………ああ」
 泡が、シリウスのほぼ全身を覆い隠していく。
 ――泡立ち過ぎじゃないのか?
 白い固まりのように見えるレベルなのだが。
「さて、流しまーす」
 シャワーを使って、シリウスの体を覆う泡を流していく。
 泡のなくなった部分から、本来の黒い綺麗な毛並みが現れた。
 は嬉しそうに、足の先まで洗ってやる。
 普通の犬と違って、爪で攻撃されたりはしないから安心だ。
 物凄く嫌がったりもしないし。
「こんな姿をリーマスが見たら、なんと言うか……」
「ルーピン先生? あ、そういえば旧友さんなんだよね」
「……ああ」
 その『ああ』は、寂しそうな音を含んでいた。
 は彼らの辿った――または辿っている――経過を思い直し、はっとする。
 己が不用意に漏らした言葉が、彼の心を幾ばくか突付いてしまったことに気づいて。
 ほんの小さな接点すら、今の彼には辛いものなのかもしれない。
 元気を出して。
 そう言うのは簡単だけれど、通り一遍の言葉で元気なれるようなものなのだろうか。
 には、彼やハリーほどの経験がないから分からない。
 彼らの辛い経験と比べたら、自分の『辛い』ことなど、あってないようなものに違いない。
 温かい風呂場に、一瞬――冷たい空気が流れた気がした。
 は、濡れてぺったりしているシリウスに、背中から抱きつく。
!? は、離れ――」
「……シリウス、私、無神経だった。ごめんなさい」
 突然謝られ、シリウスは目を瞬いた。
 彼女がなにに対して謝罪しているのか、察することができなくて。
 彼は己の背中に、彼女の涙が落ちたことに気づいた。
 濡れた体。分かるはずもないであろう、その一滴。
 けれどもどうしてか、涙の――たった一滴の温かさが、体に染み渡る気がした。
「……は、感受性が強いんだな」
「そんな事、ない……っ」
 きゅぅっと抱きつかれる。
 シリウスは彼女の温かさを感じ、心地よさに目をつむる。
 暫く抱きついていた彼女は、裸でそれをしている事に、ある種の気まずさを感じたらしい。
 頬を赤らめながらほんの少し離れた。
 シリウスは、まだ泣き出しそうな顔をしている彼女の頬を舐める。
「シリウス……」
、俺……わたしのために泣く必要は――」
 ――ないんだよ。
 彼が声をかけようとした、丁度その時
「男の声がするぞ!!!?」
 父親が、ドアを開けて入ってきた。
 その目がまじまじと、一人と一匹を見る。
「ぎゃーーーーーー!!! 父さん見るなーぁっ!!」
 がさっとシリウスの後ろに隠れる。
 シリウスはシリウスで、ぱっと彼女と父の間に立ちはだかり、裸の彼女を見せないよう歯をむき出して威嚇した。
「おうっ、す、すまん。いや、男の声がしたような……そんな訳あるはずないな、犬だな」
「いいからさっさと行ってーー!!」
 はっはっはと爽快なんだか豪快なんだかよく分からない笑いを発しながら、父親はドアを閉め、リビングの方へ戻って行った。
「シリウスありがと……」
「い、いや」
 瞬間的に自分がとった態度が信じられなかった。
 無意識にだろうか。
 彼女の体を見せないようにするために、自らの体が動いてしまうなんて。
「んじゃ、浸かろうか」
 シリウスはあっちね、とが指を指す。
 大きな風呂桶に、お湯が張ってあった。
 要するに『シリウス用』なのだろう。
 二人して、ちゃぽん、と浸かった。
 ――何を和んでんだ、俺。
 こんな男泣かせなシチュエーション真っ只中で。
「シリウス、気持ちいい?」
 問われ、一瞬声を発しようかと思ったのだが、先ほどの父親の一件があったので、無難に「ワン」と吠える。
 その様をどう思ったのか、がクスクスと笑った。
「犬の姿は不便だろうけど、私の部屋でなら人間でいいからね」
 ――そういうワケにもいかないだろう?
 とは思うものの、彼女に可愛く「ね?」と言われると、イエスとしか言えなくなるのはどうしてだろう。
 まるで、恋でもしているようだ。
 ――恋? まさか。

ー、もうそろそろ上がってね、後がつっかえてるわ」
「あ、はーい。それじゃあシリウス、私先に上がって着替えるからね」
 ワン、と答えながら――ハリーに『彼女の裸を見た』などと言ったら物凄く怒られそうだと、頭の隅で考えていた。



2003・1・15
2009・8・17(修正)