去りし日



『肝試ししよう』
 友人の提案は、なんの変哲もない戯れのはずだった。
 仲の良い数名で避暑として訪れた海。
 怪談好きのひとりが選んだ宿は決して高くないビジネスホテルで、けれどその近場の山は、嘘か真か『目撃談』が多数あるところらしかった。
 特に、山に入って少し行ったところにある古びたお堂は、地元の人たちの畏怖を集めていると。
 噂話には尾ひれが付き物。
 誰も彼も、本気になぞしてはいない。
 他愛もない話をしながら、暗闇に潜むありもしない存在に時折怯えながら、ただただ歩いて。
 お堂を見て、なんでもないじゃんと笑いあい、ホテルに帰って雑談をしながら眠りに落ちる。
 ただそれだけのはず。
 ――なのに。


 どこからか聞こえてくるけたたましい笑い声に身体を強張らせながら、ひたすら歩を進める。
 どこで靴を脱いだか定かではないが、彼女は素足だった。
 地面を踏みつけているうち、なにかで切ったのだろうか血が出ているが、痛みは感じない。
 息を切らしながら、何気なく腕に触れる。
 ぬるりとしたものが指先に付いて、腕も怪我しているのだと知った。
 夜であるはずなのに、世界は腐り始めの桃のような色で覆われている。
 森の木々が自分に覆いかぶさってくるような圧迫間を感じながら、ふと、何故歩いているのか考えた。

 ――逃げるためだ。
 なにから?
 ――友達から。
 なぜ?
 ――変わってしまったから。

 げらげらと、およそ人とも思えない笑い声が真後ろから聞こえ、反射的に身を捻る。
 伸びてきた手が、まるでもぎ取るみたいにスカートの裾を引っ張った。
 必死に振り払う。手が離れたとき、掴まれたスカートの部分は、綺麗に消失していた。
 悲鳴を上げたつもりたったのに、声らしき声は自分でも聞こえない。
 今や耳を塞ぎたくなる程になった、周囲のけたたましい笑い声や、誰とも知れないざわめきにかき消されたのかも知れなかったし、そもそも音を成していなかったのかも。
 つるりとした手が伸びてきて、間一髪で避ける。
「なんで? なんでこんなことするの?」
 震える声で手の主に訊ねる。
 正面の彼女の口が、歪んだ弧を描く。
 やたら耳障りな声で、
「だって、わたしたち友達だもの。ひとりでこんな所においていったら、かわいそう」
 言われた。
「ね、あなたが最後なの。もうだぁれもいないのよ」
 ケタケタと笑う彼女。
 確かに肝試しにきた仲間は、自分と、前に立つ彼女を除いて『存在』していなかった。
 頭蓋に響き渡る笑い声や絶叫、肉が蠢くように揺れる奇妙な木々、今にも頭上から落ちてきそうな血色の月。
 そのせいなのか、それ以外の要因でか、友人たちは次々と――言うなれば発狂したのだろう。
 涎を垂らし、頭を掻き毟ってのた打ち回り、そうしているうちに、ふ、と姿が消えてしまった。
 否。
 消された――目の前の、彼女に。

 彼女は確かに友人だった。
 なのに、名前が思い出せない。
 それどころか自分の名前も思い出せなくなっている自分。
 ――もう狂ってしまったのだろうか。他の、やっぱり名前が思い出せないけれど、消えてしまった友達と同じように。

 手が、伸びてくる。
 赤い月の光の中にあってなお、それは陶器のように白かった。
 掴まれれば存在が失せるのかも知れないのに、最早抗う余力はない。
 逃げる場所など、どこにもないように思えたからだ。
 瞬きすらせずに近付く彼女を見つめる。
 指先が触れる、その直前。

 りん、

 と軽やかな鈴の音が、した。
 頭蓋の中でがなっていた音が、ぴたり、止まる。
 僅かに動くだけで触れるであろう指から、視線を外す。
 そうして音を立てたものの存在を見た。
 少し離れたところに、さも当然のように立っている、奇妙に派手な姿をしている人物。
 きょうび、和服を着ている人は珍しい。
 紫の頭巾を被り、顔には独特の化粧を施しているその人は、艶やかな雰囲気を持つ男性だった。
 手には、先程の音の元であろう、鈴のついたなにか――短剣のようなものを持ってる。
 彼の眼が、こちらを射抜いた。
 途端、目の前にするするとどん帳が降りてきたが如く、視界が薄闇に包まれていく。
 男性に気を取られるあまり、友人の手が触れ、己の体をほかの人たちと同じように消していることに、全く気付いていなかった。



 額に触れる冷たいものに、意識がふわり、浮上する。
 目の前にあったのは、視界が途切れる前に見た例の和服男性だった。
 のそりと体を起こし混乱する頭で周囲を見回す。
 真っ暗だった。
 自分の指先すら見えないのではと思うほどに光源がなく、けれども不思議と男性と自分の姿だけがその場に浮いて見えている。
「あの」
「名は」
「私の、名前ですか」
 ――名、わたしのなまえ?
 先程まですっかり忘れていたにもかかわらず、あっさりと
、です」
 口をついて出た。
 男は全く表情を変えぬまま、細く息を吐き出す。
「奇妙な娘だ。並の人間ならばとっくに自我を失い、異形と混じってしまうだろうに」
「すみませんが……なにを仰っているのか」
 は言いながら立ち上がる。
 天も地もないような真っ暗闇の中では、立つというより浮いているような感覚に陥る。
 常識では考えられないような状況だ。
 しかし、手前であれだけの経験をすれば、ちょっとやそっとのことでは驚けない。
 黙りこくったままの男に、説明を求めようとし、
「狂ってしまった方がよかったと思えるかも知れん」
 先に口を開かれ、絶望的な言葉を告げられた。
 唖然とするに、珍妙な男は続ける。
「アンタはここから出られぬよ」
「なん……」
「アンタの体は『神隠し』に呑まれ、既に常人のそれと違う。帰る道を、既に失った」
 混乱する頭で必死に男の言葉を理解しようとするが、解ったしたのは、自分は帰れないのだということだけだった。
 理不尽極まりない発言も、すとんと腑に落ちるのは、やはり異常の真っただ中にいるからに違いない。
 男は鈴のついた剣鞘らしきものを眺めている。
「寂しさのあまりに次の『隠し神』になる前に、斬り捨てた方がいい――しかし」
 ――斬り捨てる?
「私の友達を、まさか」
「斬った。モノノ怪は、斬らねばならん」
「――っ!!」
 モノノ怪がなにかは判断がつかなかったが、無表情で『友人を斬った』と言われ、顔が強張るのが分かった。
 どうしてそうしたのか、理由は分からない。
 分からないけれど、だとしたら次は自分なのではないか?
 はなにをも言えずに男を見つめ続ける。
 男は続けた。
「アンタはまだ『人間』だ。斬らん。――そして、助けと成り得るかはともかく、俺はアンタをここから出す方法を持っている」
「えっ! 助けてくれるんですか!?」
「人の話を聞いていたか。『助けと成り得るかは分からない』と言った」
「説明して下さい」
 彼はやはり無表情で、
「『斬り離す』。そうすることでこの地から人の領域へ戻れはするだろうが、真実、在った場には返れやしませんぜ」
 言いきった。
 言葉もないは、ただ体の冷えを感じながら棒のように突っ立っていた。
「アンタがアンタであった証は消える。記憶も、生い立ちも。全てをここへ置いて往かねばならない」
「そんな」
「異形に遭って、それでも個を確立していられるアンタなら、いつか手放した記憶を取り戻すことがあるかも知れんが」
 は震える指先を握り込む。
 自分が自分でなくなると言われれば、もちろん恐ろしい。
 けれどもこの場に独り、取り残され続ける――それこそ気が狂うまで――のなら。
 畢竟、取るべき道などあってないようなものだ。
 決意を秘めた目で極彩色の男を見れば、彼の紫紅を引いた口端が上がった気がした。
 元々笑っているような化粧。実際に笑ったのかまで確かめる余力は、にはない。
「ここを出て、アンタがどこに居るかは、俺には分からんよ。記憶もないまま何処ぞで彷徨い、結局のたれ死ぬ事とて」
「あなたを探します。私の事情を知っている人だもの」
「人の世話をしてやるほど、温かい心の持ち主じゃあ、ないんですが、ね」
 彼は表情のないまま、剣の柄を指先でつぅ、と撫でる。
 は拳を握って、気のない素振りの男をまっすぐ射抜く。
「今喋っていることは、ここを出たら忘れるんですよね」
「十中八九、忘れるだろう」
「もし……もしもあなたに出会って、私があなたの名前を覚えていたら、その時は連れて行ってください」
 その間にどこぞで手折れていたら、それはその結末しか用意されていなかったのだと、諦めよう。
 実際その立場に立ったら、こんなに冷静でなどいられなかろうが。
 男は興味深そうにをしげしげと眺め、ふ、と口元を緩める。
 先程と違って、はっきりした笑い顔だった。
「約束は、しやせんぜ」
「はい」
 男はぽそりと自分の存在を成している言葉を告げ――直後、目の前に金が広がった。
 闇の中にあって、恐ろしく美しい、非人間染みた存在が振るう剣を目にしながら、は己のどこかが砕けていくのを知る。




 雨が、降っている。
 頭の上から足の先までずぶ濡れでいるのに、誰も彼女に声をかけることはない。
 彼女も、自分が異様であることを理解していた。
 着ているものひとつとって見ても違う。
 周囲は着物を着ているのに、自分が身にしているのは訳のわからないもの。
 ひざ丈のひらひらしたものと、羽織りのような何か。草履ではない履物――声掛けされなくとも無理はない。
 歩調が徐々に速くなり、最早走っているも同然であったが、体はどんどん冷えていく。
 それでも、探さなくてはいけなかった。
 誰をかはきっと会えば分かる。
 理由もなくそう思いながら、町の外へ向かう大通りに差し掛かった。
「――薬売りさん!!」
 探していた人を、彼女は大声で呼び止める。
 あと半刻遅ければ、彼はこの場所を立ち去ってしまっていただろう。
 彼はぴたりと足を止め、ゆっくりとこちらを向く。
 彼女はその間に距離を詰めた。
 荒い息が、外気に触れて白くなる。
「みつ、けました……。と、いうか、薬売りって、名前じゃないです、よね……はぁ……」
「……覚えて、いるのか」
「はい」
「……己の、名は?」
「それはもちろん――っ……忘れ、ました」
 薬売りは呆れたような表情を浮かべながら、傘の中に入れてくれる。
 気をつけないと彼の着物に体がぶつかって、濡らしてしまいそうだ。
「呆れたもの、だな」
「す……すみません……」
「そのなりでは、人目を引く。……、宿へ行くぞ」
 
 それが自分の名前。
 思い出したというよりも、腑に落ちたといった感じがした。
 他に覚えていることは塵ほどにもなかった。
 理解しているのは、自分は薬売りについていくことでしか、生きられない――ただ、それだけ。




 日が沈み始め、暗くなりつつある外をぼんやりと見ながら、は今しがた舞い戻った薬売りと自分の出会いの記憶を、複雑な思いで抱いていた。
 商いに出ている薬売りは、未だ記憶が戻ったという事実を知らない。
 彼は、思い出して欲しくなさそうだった。
 思い出せば自分を嫌うと、彼はそう言っていた。
 はため息をつく。
 薬売りは確かに、友人を『斬った』し、それまでのの生活を一変させた。
 けれども彼はただ助けてくれただけであるし、こうして面倒を見てくれている。
 ありがたみこそあれ、嫌うなどどうしてできようか。
「帰ったら、話をしておかなくちゃ」
 記憶を思い出しました。
 言いたいことがあります。
 ありがとう。それから、これからも宜しくお願いします、と。
「……迷惑がられないといいな」



実は何も考えないで書いてますな題4回。
2009・11・1