旅籠で、商いに出ている薬売りを、いつもの通りに待つ
 道往く人々や町並みを見つめていると、少女が道端で転げるのを目にした。
 泣き出した彼女に母親らしき女性がさっと近付き、あやしている。
 その様子を見やりながら、はやんわりと微笑んだ。
 場所や時代は違っても、親と子の関係に大きな差異はないように思う。
 ――ところと、じだい。
 ふわり、どこかからやってくる記憶の断片。
 視野に被さるように、視界の裏に瞬く、それ。
 同時に香る、酷く埃っぽい空気。
 喧しい音の中を歩く人々。皆、着物ではないものを身に着けていて、忙しなく動いている。
 は、それら全ての事柄を、理解できた。
 コンクリートの路面を走る物が『車』であることも、人々が着ているものが『洋服』であることも。
 そしてかつては、自分も同じように洋服を着て生きていたことも。
 初めてこれを認識した折は、終ぞ己の頭がおかしくなったのかと思った。
 周囲の者には、が視ている物など、誰一人として認知出来ないようだったから。
 モノノ怪を斬る薬売りでさえ、視ることができなかった――否、彼の場合は見えていたとしても、口にしたりはしないだろう。必要さえあれば、口に上りもするのだろうが。
 ――これは、記憶の残り香だ。
 そう気づいたのは、一日中同じような景色を、こちらの風景と二重写しで見続けた時だった。
 その時は歩行すらままならず、日の高いうちから薬売りに宿入りをさせてしまった。
 薬売りの邪魔をしたくないにとっては、苦々しい日。
 けれど、自分という存在を、少し紐解いた日でもある。
 少なくとも、は自分がこの『江戸』と呼ばれる時代の人間ではなかったことを理解した。
 誰かが確認してくれた訳でもない。
 むしろ確認なぞ、出来るはずもない。
 の存在していた時軸は、ここより遥か未来であったから、時代を飛び越える力を持つ人でなければ、真か嘘か、調べられるはずもない。
 それでもは、己の存在が『未来のもの』であることを確信していた。
 自分の中に居座っていた違和感が、すとんと落ち着いたからだ。
 こちらでは誰も使わないような、知りえぬ言葉を識っている。そういう自分を知れたことだけでも、充分だ。
 名しか覚えていないのは、あまりに空ろであるように思えるから。

 ふぅ、と息を吐き、目蓋の裏に映るものの名前を何気なく呟く。
「……ハンバーガー、ポテト、シェイク、アイス、クッキー」
 言いながら、お腹が減っているのかと自問する。
 全部食べ物の名前だったから。
「なに、を、ぶつぶつと、言っていなさるんで」
 聞きなれた男の言葉で、閉じていた目をぱちりと開く。
 いつの間に帰ってきたのか、薬売りが戸を開いて座敷の中に入ってきていた。
 相変わらず、気配を感じさせない動きだ。
 背にした薬箱を置く彼に、首を傾げる。
「今日は随分と早いんですね」
「ええ。思いの他、繁盛したんでね」
「それは良い事ですね。懐が暖まって」
 お茶を貰ってきましょうかと訊ねると、薬売りは「いいえ」と答えた。
「それより、先ほどの」
 言葉を最後まで言い切らないのは、彼の癖のようなものなのだろうか。
 こちらがそれで理解するから、必要がないと思っている節もある。
「食べ物の名前です。あちらの」
「ほう。あちらの」
 薬売りの目が、すぅ、と細められる。
 見る人が見れば、妙な色香が漂っているその行為も、にとっては見慣れたもの。
 故に、含む意味合いも理解できてしまう。
 これは『警戒』だ。何に対してかは知らぬが。
「随分と思い出したもんだ」
「薬売りさん、やっぱりあちらを知ってるんですか」
「さぁ、どうですかね。それを知って、どう、します」
 帰りたいとでも?
 雰囲気で伝えてくる薬売り。は少し考え、ふるふると首を振った。
 それは『違う』。
 自分という存在を意識した時点で、は薬売りと共に在ることを選択していたように思う。
 だから、彼の後ろを歩いてついていく――彼と一緒で在る――ことだけが、重要で。
 それ以外のことは、全く思慮しなかった。
 記憶の残りを芽吹かせても、帰りたいなどとは思わない。
 薬売りの往く道についてゆけなくなるなど、モノノ怪に屠られるよりずっと怖いものだと思っている。
 じぃ、と彼の瞳を見つめる
 薬売りのつるりとした爪先が、次いで指先が、の頬に触れた。
 近づいてくる顔は、いつも通り綺麗。
 言えば怒らせるだろうが、その辺の女性より――の感覚では、花魁より美麗だとさえ思える。
 そんな顔が近づいてくるのを、普通に見つめていられるのも、慣れ、なのだろうか。
「……そう見つめられると、照れる」
「無表情で何を言ってるんですか」
「顔に出ないだけ、だ」
「そういうものですか?」
 薬売りが離れようとしないので、もそのまま彼と顔をあわせ続ける。
 誰かが見たら、妙な光景だろう。又は、恋仲だと勘違いされる。
 当人たちにその意識はないが。

「はい」
「思い出せば、あんたはきっと、俺を、厭う。だから」
 これ以上、思い出してくれるな。
 と、彼の口唇が動いた。
 はぎゅっと眉根を寄せ、薬売りを真っ直ぐに射抜く。
 そうして、笑った。

「傍に、居ます」

 例え思い出しても、傍に。



実は何も考えないで書いてます…。うっかり続きができたら更新します。
2009・3・13