彼女の異変



 八相、フィドヘルを何とか撃退した後――タウンに戻った三人――ブラックローズ、 カイト、は、サーバーに異常が起きていない事を確認し、とりあえず――安心した。
 このまま何事も起こらないという楽観的な思考は持てなかったが、とりあえずは。

「…とにかく、今日はもう落ちるわ、私」
 ブラックローズが至極疲れているといった様子で、カイトとに手を振る。
「うん、じゃあまた」
「またね」
 やはりどこか疲れたような感じに、カイトとも手を振った。
 ブラックローズがログアウトしても、残った二人はまだ<ザ・ワールド>内にいた。
 戦いで消耗したアイテムやより高いアイテムへのトレードを少しして、カオスゲートの前に戻ってくる。
 Δ(デルタ)やΘ(シータ)にも足を運んでみたが、そう遅くない時間にも関わらず、PCは殆どいなかった。
 ここの所の異常続きでプレイヤーの数は減っているから、そのせいかもしれない。
 フォート・アウフに戻った二人は、記録を済ませ、ゲート近くに腰をすえた。

「じゃあ、そろそろ僕らも落ちようか」
「うん、そう――…」


 ぐにゃり…

 そうしよう。
 その言葉を吐こうとした一瞬、の視界が奇妙に歪んだ。
「わっ…」
 倒れかかる彼女を、カイトが慌てて支える。
 カイトの手の暖かさを感じて、自分が倒れ込みそうになっていたのだと、理解した。
「……どうか、したの?」
 カイトの問いに、体を立て直しながら、いつもの調子で――
「ううん、別に」
 と明るく答えてやる。
 不安を膨らませる心をなんとか押さえつけ、「先に落ちていいよ」 と彼に言ってみるものの、カイトは何かを感じているのか、首を横に振り、”が落ちるまで、いる”と言い張った。

 仕方なく苦笑いし、「じゃあ、お先に」 と言い、言葉の通り先にログアウトしようと杖を振り上げた。
 ………。
 ?
「……あれ?」
?」
 カイトの不思議そうな目に、思わず冷や汗をたらす。
 ――そんな、まさか。
 ありえない。
 が、は、今自分達が直面しているのは、”ゲームではありえない事”だというのを思い出し、手にじっとりと汗をかいた。
 だいじょぶ……だいじょぶ…。
 何が大丈夫なものか。
 理性が小さく呟いた。
 背中を汗が流れていく。
 リアルでか、ネットでか。
 どちらかは分からないが――とにかく。

 ログアウトすると言いながら、一向にログアウトしない彼女に何かを感じ、カイトはに近寄った。
「…何か…変だよ、
「だ、大丈夫だって。ちょっとしたコマンドミス…」
 近寄ってきた彼に無理矢理笑顔を向けると、彼女は杖をぎゅっと握りなおし、それを――祈りを込めて――振り上げた。

 リアルへ戻る儀式。
 体がふわりと浮き上がるような感覚。
 長いトンネルを渡り――向こう側へ――。

 いつもと同じ作業。
 終われば、自分の部屋が待っている――が。

「っうあ……!」
 の頭に、強い衝撃が走る。
 耳鳴りのようなキィンとした音と、酷い頭痛。
 余りの不快感に彼女は杖を持っていられなくなり、手からすべり落としてしまった。
「そんな……」
 視線をデジタルの青い空にさまよわせながら、ペタンと床にへたり込む
 カイトは驚きの眼差しを向けていた。
 ――ログアウトする時、彼女の体は普通に半分まで透けた。
 普通にログアウトするんだと思った。
 が、何かがそれを阻むかのように、足元からまたこちらへ――<ザ・ワールド>へと戻ってきてしまった。
「あ、はは……落ち、られない……」
 乾いた笑いを浮かべながら、とんでもない事を言い出す。
 だが、今、カイトの目の前で実証して見せた。
 落ちる事が出来ないという、事実を。
「…、僕、今から君の家へ行く! 落ちるよ!」
「え、う、うん……」
 カイトは言うと、さっとログアウトした。
 一人取り残されたは、もう一度ログアウトしようとして――更に頭痛を引き起こすだけの結果になり、自分はいよいよ本気でログアウト出来ない――少なくとも今は――という事を思い知らされた。

 一方のカイト――は、の家へと全力疾走していた。
 学校が同じという事で、つい最近訪れたばかりの家だったので、家への道順は容易に思い出すことが出来た。
 彼女の家へたどり着くと、切れた息を出来るだけ平静に保ち、インターフォンを押し――中へと入れてもらう。
「夜分遅くすみません!」
 丁寧にお辞儀をし、何か切羽詰った顔をしているに、応対したの母は、顔に手をやって首をかしげた。
「えと、君…よね、この間来た。どうしたの?」
「いえ、ちょっと用事があって――…」
 追い返されるかとも思ったのだが、の親はいきなりの訪問であるにも関わらず、を快く受け入れてくれた。
 切迫しているように感じられたから、かもしれないが。

「失礼します」
「帰りは、娘に鍵をかけろって言っておいてね」
「はい、分かりました。すみません」
 彼女異変に気づいていないらしい両親だが――部屋でゲームをしているのだから、無理もない話かもしれない。
 母親は二階への階段を指で示すと、「ごゆっくり」と言い、部屋の一つへ入って行った。


 二階にある彼女の部屋。一応ノックをし、それから入る。
が部屋の中に入ると――彼女は無我無為中でコントローラーをいじくっていた。
 彼はの横に立ち、肩を揺すった。
 ぴたり、と指の動きが止まる。
、分かる?」
「……カイト…?」
 ゲームと現実、どちら側からの声なのか一瞬判断がつかなかったようで、とまどった様子を見せただったが、がもう一度肩を軽く押すように揺すると、リアルの方で呼ばれていたのだと理解したようだ。
「FMD(ヘッドマウントディスプレイ)取るよ?」
「待って! 邪魔になんないトコに移動する……OK」
 なるべく通行人の来なさそうな所まで移動し、コントローラーを置いた。
 どうやら、手は離れるようだ。
 ……当たり前だと言われそうだが。
 ならば、どうしてFMDを取らないのだろう。
 その疑問を口にする前に、の方が疑問の答えを口にした。
「ヘッドマウント…外そうとすると、凄く頭が痛くなるの…」
 ここまで来ると明らかだった。
 八相、フィドヘルとの戦いか――それ以外の要素があるのかもしれないが、元々普通ではなかったのPCに、更に何かが起きている。
 もしかしたら、これから起きようとしている――のかもしれないけれど。

 の耳元で、ゆっくり、落ち着かせるように声をかけた。
「我慢、できそう?」
 彼女は、答えなかった。自信がないのかもしれない。
 何か訳の分からない事に、自分が今置かれている異常性に、恐れを抱いているのかもしれない。
 はことさら優しく、声をかける。
「…、僕の手を握ってて。いい?」
「――うん」
 彼の温かい手の――現実の暖かさを感じながら、ぎゅっと目を瞑った。
 ゆっくりと――の手によって、FMDが外されていく。
 耳鳴り。
 頭痛。
 まるで、PCを、<ザ・ワールド>から出すまいとしているかのよう。


「…、目を開けて。もう、大丈夫だよ」
 優しい声がし――掴んでいた手が外れ、それが、頬へと移動した。
 目を開けると、の顔が目の前にあった。
「戻れないかと……思った……!」
 ぼろっと涙をこぼす彼女の頬を、そっと撫でてやり――溢れた涙を、指先でぬぐってやる。
 の笑顔は、不安を溶かすように、どこまでも優しかった。
「…、大丈夫だよ、僕が……一緒だから」
「うん」
 そっと――優しく。
 壊れ物を覆う布地のように、を抱きしめた。

 パソコンのディスプレイには、ザ・ワールドの世界と、プレイヤーのコントロールを離れ、道具屋の横で座っている、PCの姿が映し出されていた――。






2003・9・10

ブラウザback