昏い場所にいる。 息さえも出来ない程の不安な心が、どこから来るのか知らぬまま、彼女はパソコンの前に立っている。 いつ電源を入れたのかすら知れぬパソコンのモニタは、昏い場所でジリジリとした電気的な白い光を放つ。 マウスに触れると、ぶつん、と酷い音がして一旦電源が切れ、また点く。 画面には、ロゴが映し出されていた。 ――The・World かつては見慣れていたその文字。 彼女は自然な動きで、いつの間にか現れたFMDを着け、ログインしようとする。 目の前に広がる酷いノイズ。 そうして響いてくる声。 かつてアウラが彼女に言った、その言葉。 『世界の予防薬。世界の被害を抑えるワクチン』 音を認識しながら、彼女はただずっと、気の狂いそうな程視界を侵すノイズの嵐の中にいた。 断章再編 1 「――っ!」 ベッドから勢いよく起き上がり、彼女は胸に手を当てたまま、駆けた後のように荒くなった息を整えようとする。 悲鳴を上げたのではないかと思ったが、実際、口唇はぴたりとくっついたままだった。 慎重に息を整え、手の甲で薄っすら汗ばんだ額を拭う。 そっと隣に眠っている彼を見やったが、起きた様子はない。 その事に少々ホッとした。 こんな風に、何かがあったみたいにして飛び起きた所を見られたら、彼は絶対に心配する。 たかだか夢の話だけれど、その内容が何かを啓示しているようで。 間を置かずに同じ夢を――しかも悪夢的でもある――見るので、眠りが浅くなって、身体が疲労を回復しない気がする。 彼を起こさぬようにそっとベッドから抜け出し、彼女は部屋を出、パソコンの置いてある部屋に移動する。 電源を入れるでもなく、ただ薄闇の中にある無機質な機械を見やる。 「……私に、なにをさせたいの」 機械は当然なにも答えない。 床の冷たさを足裏に感じながら、それでもただじっと機械を見つめていた。 PCネーム・。 リアルでは。 かつて、ザ・ワールドで、は呪紋使いをロールしていた。 ザ・ワールドで俗に言う『黄昏』事件に、PCネーム・カイトを始めとする仲間たちと関わったのは、もう随分前の事に思える。 あれから幾年も経った。 途中、シューゴとレナという仲間にも出会ったし、たくさん楽しい思いもした。 がザ・ワールドから離れたのに、特にこれといった理由はない。 主な理由は学業――だといって良いだろう。 大学は遊びだと豪語する者もいるが、少なくともにとっては、学業も大事なことだ。 バイトと勉強の二足のワラジは、確実にログイン時間を削ってゆき、そうこうしているうちに同棲を始めて、更にザ・ワールドから遠のいて行ってしまった。 ログインしたいと言えば、きっと同棲中の彼は何も言わずに一緒にログインしてくれただろうけれど、ザ・ワールドは以前までのデータを、完全にリセットし、新しいザ・ワールドになっていた。 PK――プレイヤーキラー――が容認された世界。 それに対して別に文句も何もありはしないが、自分が身を置くには少しばかり辛い場所な気もして、だからアカウント取得もしていない。 ザ・ワールドは以前ほどの新規参入もないと聞く。 緩やかに衰退しているかと思えば、減れば減ったなりに人数が増えていくのは、さすがはザ・ワールドといった所か。 かつて、カイトとが駆けたのと同じ大地は、もうあの世界には存在しない。 相変わらず消去できないであろう、隠されし禁断の聖域あたりは、同じものかも知れないけれど。 「?」 ふいに後ろから声をかけられ、は苦笑しながら振り向く。 「ごめん、起こしちゃった?」 同棲相手――は、少しばかり寝乱れた髪をそのままに、別に平気だと笑った。 彼はの横に立つと、同じように、電源の入っていない無機質な箱に目をやる。 「もしかして、ザ・ワールドの事を考えてた?」 「どうして分かったの?? 私、言ったっけ」 はくすりと笑む。 「最近、ザ・ワールド関連の記事を一生懸命読んでるなと思って」 そんなところを見られていたのかと、ちょっと恥ずかしくなる。 頬を掻き、息を吐いた。 「気になる夢を見るの。たぶん、なんでもない事なんだけどね」 「聞かせてよ、その夢の話。っと、ここは寒いし、戻ってからにしよう」 バイトや授業があれば、適当な事を言って話を濁してしまっただろうが、都合がいいのか悪いのか、翌日はどちらも休みだった。 彼の言に同意し、2人は連れ立って寝室に戻る。 まだ温もり覚めやらぬ布団に入り、横になって互いに向き合う。 「それで、どんな夢?」 「うん……そうだね、不思議な夢というか、どちらかというと怖い夢なのかも」 ――そうしてはに、自分の見た夢を話した。 すっかり話を終えると、ほんの少し気持ちが楽になる。 怖い夢は人に話してしまえばスッキリする、なんて誰かに言われた覚えがあったが、あれは本当かも知れない。 はの髪を撫ぜ、真剣な表情で彼女を射抜く。 「……は、どうしたいんだい?」 「私は……どうかな、考えてなかった。アカウントを取っても、それは以前の『』ではなくて、だから何かがあるとは思えないけど」 あっさり消されてしまった、愛着のあるPC。 苦労を分かち合った戦友のようなものだったから、余計に喪失感があったのかも知れない。 「やるなら、僕も一緒にプレイするよ?」 「忙しいのに、無理に私に合わせなくていいよ。もし、本当にやりたくなったら、やればいいし」 「は? やるの?」 分からない。 たぶん、何かに誘われてはいるのだろう。 だけれども、踏ん切りがつかない。 『黄昏』の時は、カイトがいた。 後にはシューゴが。 けれど、今はいない。 ザ・ワールドに初めてログインした時みたいに、誘ってくれる友達もいない。 まして今やPKが横行する世界で、のような、どちらかというと甘っちょろい人間が、嫌にならずにゲームをプレイできるだろうか。 出来ることなら、ザ・ワールドを嫌いたくない。 何度もPKされて、嫌になったりしたくない。 温かで優しいザ・ワールドを知っているから、しり込みする。 「……もう少し、考えてみる」 「そう。焦らずゆっくり考えなよ」 頬を撫ぜられ、は瞳を閉じる。 の温かい体温に、潜まっていた眠気がむくむくと上がってきて。 「お休み、」 「お休み、」 2度目の眠りの言葉を口唇に載せ、は彼の体温を感じながら、柔らかな眠りへと誘われていった。 Rootsぐらいのお話です。ログイン前の話。カイトと同棲してるとかいう、無茶なことやらかしてますので、話の流れに矛盾が出たら無理やりこじつけます(汗)だから、あれこれヒドイとこがあると思われますが…寛大な処置を。 ※9・24修正。 2006・6・17 |