なんでいるんだ




 バクラと衝撃の出会いを果たした日、は彼がどうやって我が家から帰ったのかを、よく覚えていなかった。
 あれから既に数日が経過している。彼が前回と同じように、家の扉前にいることはない。
 彼の存在は幻だったのかも知れない。
 そう思い込もうとする度、彼の指先を――紫水晶色の鋭い瞳を――思い出す。
 彼の存在を想えば、自分のひとかけらが歓喜の悲鳴を上げる。
 同時に、別のひとかけらが恐怖に慄く。
 出会ったばかりの人に抱くには不釣合いな、しかも相反した感情。
 ――気分が悪い。正体不明の感覚が、物凄く腹立たしい。
、どうしたの?」
 見知った声に、ははっと顔を上げる。
 前の席に座っていた友人の美々が、箸を片手にして、不思議そうにこちらを見ている。
 周囲には、昼食休憩で騒ぐクラスメイトたち。
 それで、ここが学校だったと思い出した。
「食事しながら寝ぼけてるとか、そんなことないよね」
「まさか。……ちょっと思考が飛んでたのは認めるけど」
 手に持ったままだったパンに食らいつく。
 無言のまま咀嚼していき、元々半分もなかったそれを、あっさり胃に収めた。
 美々は不思議そうにを見つめ、なにかに気づいて顔を緩ませる。
「あの不思議な男の子のこと考えてたんでしょう」
「――っぶ!!」
 危うく噴き出しかかる。
「図星ね! そうだよねえ、彼、凄く格好よかったもの」
「そういえば……あんた、よくもあいつに家を教えてくれたね。恨むよ」
「だってー、あんなカッコイイ人に脅されたらわたし、参っちゃってなんでも喋るわよ」
 参ったのはこっちだ、コノヤロウ。
 ……つーか、本当に脅されたのか。予想はしてたけど。
 美々は瞳を輝かせ、身を乗り出してくる。
「ねえ、それで? 彼とどうなったの?」
「なんでそんなに食いついてくるわけ」
「だってったら最近、恋愛のれの字もないんだもの。心配なのよ」
 どこかの母親のような口調で言う名前4。
 友人に心配されるほどかと、は苦笑する。
 確かに、自分には浮ついた話がない。
 かつてはこんな自分を彼女にしたいという、奇特な男もいたが、丁重にお断りした。
 以来、恋愛沙汰はない。
 は美々のように、いかにも『女の子』なふわふわした雰囲気がないし、態度も同様だ。
 意識して行動したつもりはないが、男友達に『男友達』扱いされる質らしい。
 それで困ったことはないが。
「おい
 わきあいから声がかかり、がそちらを見ると、
「なんだ、あんたか」
 仲のいい男子生徒が立っていた。
 守谷護。名前が守備的過ぎるとよくからかう。
 彼は同じクラスで、同じマンションに住んでいる。
 美々のニヤニヤした顔をちらりと見て、邪推は勘弁してくれと独りごちた。
 守谷は美々の様子には気づいていないようだった。
「今日、お前の親父さんいるか?」
「またカードゲームですかー。残念だけど、出張中」
 どういう経路で知ったのか、守谷との父親はカードゲーム仲間だった。
 以来、ちょくちょく遊びに来ては、カードに興じて去っていく。
 カードといっても、ポーカーなどのトランプではない。
 マジック&ウィザーズ。
 世界的に有名な、海馬コーポレーションが推進するゲームだ。
 も一応デッキは持っているが、とことん弱い。
 戦略を駆使して戦うことが得手ではないらしい。引きも弱いし。
 テレビゲームの方なら、それなりなのだが。
 守谷は残念そうに肩を落とすと、
「デッキ持ってきたのになあ」
 そのまま廊下へと出て行った。
「……少しは気づいてあげればいいのに」
 美々が呟く。は首を傾げた。
「は?」
「なんでもない。それで?」
 それで?
 しばし考え、話が戻ったのだと理解する。つまり、バクラのことを聞かせろと言っているのだ。
 正直、考えたくない。
 なかったこととして、忘れてしまいたい。
 美々はそうさせてくれないようだが。
「いきなり熱烈なキスする人と一緒にいて、なにもなかったとか言わないわよね。向こうは貴方のこと知ってたわけだし……隠さないで教えてよ」
「きっ、キスとか言うな!!」
 思わず大声で叫んでしまい、周囲の学友たちがぎょっとしてこちらを見た。
 は慌てて口をつぐむ。
「はぁ……もう勘弁してよ、この話題。たぶんあの人、2度と来ないし」
「どうして?」
「もう何日も会ってないし。だからこの話は――」
 これでお終い。
 言った瞬間に、教室の扉が物凄い勢いで開かれ、誰もがそちらを見る。
 しん、と静まる室内。次いで、女生徒の、なにかに浮かされたようなため息やら、歓喜の声やらが溢れてくる。
 と美々は、自分の席に座ったまま固まっていた。
 ――ちょっと待ってくれ。ここは私の学校でしょ? なんで――なんで?
 完全に思考が空回りしている
 突然の来訪者は、前回がそうであったように、まっすぐに近づく。
「よォ、
「ばっ、バクラ……サン」
「さん付けなんてすんじゃねェよ、気色わりぃ」
 教室内のざわめきが、どんどん大きくなっていく。
 助けを求めて美々を見るが、彼女はバクラの姿に釘付けになっていて問題外だ。
 友達の女生徒は全員アウト。バクラの容姿にきゃーきゃー言うだけだ。
「あんた、変なフェロモンでも出してるんじゃないの? 教室に入ってきただけで、卒倒しそうな子がいるんだけど」
「は? あったとして、お前に効かなきゃ意味ねえよ、ンなもん」
 ……微妙に口説かれてますか、それは。
 首筋あたりがぞわぞわする。勘弁してください。女の子たちが睨んでくるし。
「ご、ご用件は」
「一緒に来い」
「断ったら?」
「今すぐここで犯すぞ」
 は思わず身体を引いたが、逃がさないとばかりにバクラの腕に捕まれる。
 指が食い込んできて、痛い。
「本気じゃないよね。そんなことしたら、犯罪者かつ変態――」
 バクラはにやりと口端を上げて、見ようによっては非常に邪悪な笑みを浮かべる。
 自信に満ちてもいる。
「本気かどうか、試してみるか?」
 腕をつかんでいる方とは逆の手が伸びて、の胸元に指を這わせる。
 1つボタンを外され、鎖骨をつぅとなぞられた。
 もう消えているはずの、キスマークがあった場所。
「ひっ……!! わーっ、分かった、分かったよ!!」
「遠慮しないでいいぜぇ……?」
「いらない! いいからさっさと行こう」
 このままここにいたら、クラスメイト(女子)に殴られそうだ。
 立ち上がって、先をゆくバクラについていこうとしたのだが。
「おい、荷物も持って来いよ」
 外まで出る気だよ、コイツ……。
「逆らうのか?」
「仰せの通りに」
 変に抵抗して、抜き差しならぬ状況になるよりずっとましだ。
 鞄を片手に、はバクラの背中についていった。



2008・2・9