友人を、美々を置いて帰ってしまった。
 申し訳なさを抱えながら、けれど一度芽生えた恐怖を殺して、またあの男に会うかも知れない場所に戻ることは、には不可能だった。
 どうしてそんなに怖いのか、せめて理由が分かればいいのに。


再度邂逅


 ただいまーと気の抜けた声を誰にともなくかけながら、靴を脱いで自室に入る。
 鞄を適当に放り出し、ついでに自分もベッドの上に放り出した。
「あー……疲れた……」
 変に疲れている。
 意味不明の恐怖を感じていたせいだろう。
 キスされ、あまつさえキスマークまで付けられたっぽいからかも知れない。
 ベッドに突っ伏し、ひとりで静かに瞳を閉じていると、眠気が襲ってきた。
 今日は親の帰りが遅い日だ。
 夕食の準備をしなくてはならないが、すでに体は覚醒に非協力的だ。
 いっそこのまま、なにもせずに眠ってしまいたい。
 とろとろとまどろんでいる所へ、いきなりチャイムが鳴った。
 一度目では起き上がれず、二度目でやっと体を起こした。
「はいはいよー。今出ますよ、っと」
 起き抜けだったのが不味かった。
 普段なら、ちゃんとインターフォンで人まで確認してから扉を開ける。今日はそのまま開けてしまった。不用心もいいところだし、開けたことを心底後悔するはめにもなった。
 慌てて扉を閉めようとしたが、足で阻止される。
 目の前の人物をきちんと見る勇気などなく、俯き加減のままで声を絞り出す。
「な……なんであなたがウチに……」
「テメェのオトモダチとやらに優しく聞いたら教えてくれたぜ」
 ――おまえ、美々を脅しただろ!!
 口をぱくぱくさせるを無視する形で、男は体をじりじり中に入れてくる。
「……どうでもいいが、中に入れろ」
「いやだ」
「あァ?」
「よく知りもしない人を家に入れるほど、不用心ではないので」
 その割に、思いきり玄関を解放してしまったわけだが。
 今、とても後悔している。だからこれ以上は勘弁してくれ。
 力を入れてドアノブを引っ張るが、男の力にかなうはずもない。
 結局、相手の侵入を許してしまう。
 不機嫌満開の表情である男を見て、その顔は私がするべきものではないかとは思う。
 とはいえ、話をしないうちには帰ってくれないだろう。
 不審者には違いがないのだが、同じ学年のようにも見えるし、警察沙汰はさすがにまずい。相手にも、自分にも。
 軽く息をつき、は扉を閉めた。


 不審人物を部屋に招いたはいいが、会話が全くないという困った事態に。
 本来ならお茶でも出すところだけれど、相手は一応『不審者』だ。
 ここへ導いた友人を激しく恨んでいいと思う。
 実に不遜な態度で人様のベッドの上に座る男は、こちらを見たまま不機嫌さを隠しもしないままだ。
 どうして自分の部屋で、怒られている子供よろしく、地べたに正座せねばならないのか――いや、正座である必要はないのだけれど。
 沈黙の居たたまれなさに、気を遣う必要などないはずのが、恐る恐る声をかけた。
「あ、あの、それで……どんなご用件で」
「お前、オレ様の名前を言ってみろ」
 知るわけがあるか!! こちとらさっき会ったばかりだろうが!
 思わず叫びかかる。相手の雰囲気が怖いのでやめたけれど。
 睨まれながら、男の面をじっと見る。
「……きれいな顔だね」
「そんなことを聞いてンじゃねえ」
「分かってる。ええと……ドミノタローとか」
「ってめ……ふざけてんじゃねえぞ!」
「んなこと言ったって、知るわけないでしょう! 私とあんたは初対め――」
 初対面――本当に?
 己が口にしかかった言葉に、違和感が混じる。
 ――どこかで会っている。最近ではない。
 名前なんて知っているはずがないのに。
 彼の顔をじっと見ていたの口唇が、ゆるりと開かれた。
「……ば、くら。ばくら……?」
 うん、彼はばくらという名前だ。
 口にした瞬間にしっくりきた。
 確認するようにもう一度、「バクラ」と呼んでみる。
 視線を上げれば、彼は口端を上げて笑みの面を作っている。
「いい子だ。ちゃんと思い出せたじゃねえか」
 今にも頭を撫でそうなバクラ。
「本当にバクラっていう名前?」
「そうだ。テメェの名前は……今は『』だったな」
 ほんの一瞬、悩んだ素振りを見せた男――いやバクラは、はっきりの名を呼んだ。
 は軽く首を傾げる。
「『今は』って、どういう意味」
「……気にするな」
 バクラは鼻先で笑い、
「それで? 他にはどうだ」
「名前以外ってこと? だったらサッパリだよ。悪いけど覚えがない」
「チッ」
 思いきり舌打ちされても、思い出せない。
 考えても考えても出てこない時は、あっさり思考を放棄しよう。
 うんうんと頷き、両手を軽く上げた。ギブアップの意思表示だ。
「教えてよ。私を知ってる理由。――貴方がどうしたいのかも」
 私が得られない答えは、彼が既に持っている。
 尋ねてしまえば簡単。答えを戻してくれるかは、彼次第だが。
 バクラは暫しを睨みつけていたが、やがて肩の力を抜いた。
「知ってる理由はテメェで思い出せ。名前を思い出したんだ。お前は間違いなく……くそっ」
 悔しそうに顔をゆがめるバクラ。微かに混じった悲哀彩が、の胸を突き刺す。
 彼の頬に指を触れさせたい気持ちに駆られて、慌てて首を振った。
 そんなことをしたら激怒されそうだ。ただでさえ機嫌が悪いのに。
 というか、まるで変態かナンパ師のようだ。
 ついちょっと前まで、彼に対して過度すぎるほどの恐怖感を覚えていたのに、おかしな話。
 の内心など知ることなく、バクラはため息をつく。
「オレ様だけが覚えていて、お前が忘れちまってるなんて予想外だぜ。千年アイテムの所持者じゃねえから、仕方ねえのか……?」
「千年アイテム??」
「……その辺もすっかり忘却の彼方かよ。『あなたを愛してるから、絶対に忘れたりしない』っつってたのによォ」
「ぎゃーーー!! 誰だそんな恥ずかしいことを言った奴は! 私じゃない間違いなく違う断じて違うッ」
 背中がゾクゾクして、は自分の体を包むように両手を回した。
 甘い台詞は苦手だ。
 テレビでラブシーンを見せられると、猛烈な羞恥に襲われる。
 己が言われているわけでもないのに。
 バクラは面白そうに紫水晶色の瞳を歪める。
 綺麗な目。
 不機嫌さを取り払って浮かんだ柔らかい笑みに、はふと気づく。
 ――怖かったのは、彼に呑みこまれてしまうからだ。彼によって、変質させられるであろう己が怖いんだ。

 バクラの指が、頬に触れる。
 振り払いたいのに、振り払えない。逃げたいのに、逃げられない。
 彼は、磁力だ。私を引きつけて、今までの私を粉々に砕く。
「オレ様のものになりてぇって、言えよ」
 喉の奥でくつくつ笑いながら、バクラはの口唇を荒々しく奪う。
 身体のどこかで、かちり、と音がした。
 なにかが一つ、嵌めこまれたような音が。


 ――ああ、誰か私の平凡な人生を返して下さい。




2008・2・5