注意:このシリーズの話は、悟チチ好きさんには物凄くお勧めしません。
チチさんが痛いです。ちょっとドロっとしたのが苦手な方はすぐさま戻りましょう。
見てから文句言われてもどうしようもありませんので…よろしくお願い致します。




多重次元 10



 ――朝方、は目を覚ました。
 周囲を見回すとまだ少し薄暗く、空は灰水色だ。
 膝を抱えた格好のままで眠ってしまったのか、体が凝り固まっている気がする。
 伸びをし、体に血液と酸素を行き渡らせた。
 ゆっくりと立ち上がり、深呼吸をする。
「……顔、あらお」

 崖下に下り、幾分か流れの緩やかな川で、水を顔に叩きつけるようにして洗った。
 ……タオルを忘れてきた。
 仕方なく手で水気を取り、そのまま自然乾燥させる。
 冷たい水を飛ばそうとする山の空気は、朝方とあってまだ涼やかだ。
 寒くはないけれど。
 手頃な岩に座り、ぼーっと空を見上げる。
 この分だと、今日も小憎らしいほどに天気がいいだろう。
 は何の気なしに口唇に指を馳せた。

 ――おめえが、好きだ。

 夫と同じ声、同じ姿で告げられた他人の夫の言葉に、は大きくため息をついた。
 どうすればいいのか分からない。
 彼に『ごめんなさい』をしてしまう事は、当然として考えている。
 けれど、それで納まるとは思えない。
 こちらの世界の悟空とチチの仲が悪くなるのは確実だし、それが自分のせいとなれば、放り出して行くのは気が引ける。
 ……自分が介入したせいで、余計こじれてしまう事も考えられるが。
「……はぁ。どうしよう」

「なにがだ?」

 降りかかった声に驚き、瞬発的に立ち上がって後ろを見やる。
 姿を見て、ホッと息を吐いた。
 彼じゃない。
「悟空」
 自分の夫の姿が、そこにあった。
 彼はおはようと軽く声をかけ、と同じように顔を洗うと、持ってきていたタオルで水気を拭った。
「ぷは。目ぇ覚めたぞ。んで、どうしたんだ?」
「別に、何でもないけど……」
 悟空はに近寄ると、頬をくすぐるように撫でた。
 は目を閉じ、指先の感触に身を浸す。
 彼はしばらくそうしていたが、ゆっくりと手を離した。
「なんかあったろ。オラが寝てる間に」
「――どうして、そう、思うの?」
 不安や動揺を顔に出したつもりはない。
 けれど彼は、当たり前だろ、という顔をした。
「おめえさ、自分が思ってるほどオラに隠し事上手くねえぞ。……顔に出てる」
 思わず自分の頬を、ぺちっと叩く。
 分かっていた事だが、悟空はに聡い。
 が彼に聡いように、だ。
 それが幸いである事もあれば、今回のように少し宜しくない事もある。
 たいていの場合は、相談というか話を聞いてもらうのだけれど。
「教える気、ねえか?」
 隣に腰を下ろして話を促す悟空に、は瞳を伏せた。
「言わなきゃダメ?」
「無理に言うこたねえけどさ。……もしかして、オラの――もうひとりのオラの事でそんな顔してんのか?」
「え!?」
 パッと顔を上げて彼を見る。
 ――しまった。これじゃあ、そうですと言っているようなものだ。
 その様子を見た悟空は
「やっぱりなあ」
 考えは外れていなかったと、ほんの少し苦い笑みを浮かべた。
「……なんで、分かったの?」
「そりゃあさあ。なんつーか……場所が違ってもオラだしさ」
 頭をカリカリと掻き、彼は言う。
「おめえの事、よく聞いてきたしさ。それに」
「それに?」
「気付いてなかったんか? あいつ、おめえがいる時はずっと見てたんだぞ?」
 ……気付いてなかった。
 なんていうか、確かにちょっと見られてるかなという気は、しなくもなかったけれど。
 普通の状態なら気付いたかも知れないが、相手は次元が違うとはいえ悟空だ。
 髪の毛が違うから見てるのかなあとか、その程度の認識でしかなかったし。
 小さく息を吐き、は悟空を見つめる。
「怒らないよね?」
「オラが怒るような事したんか?」
 言い噤む。
 多分怒らない……と思うのだけれど。
 やっぱり言わない方がいいかもと、大きく息を吐く。
 けれど悟空は許してくれなくて。
「教えろよー。が言わなねえなら、もう一人のオラに聞くけどさ」
「そ、それはちょっと……」
「でえじょぶだって。ぶん殴りに行ったりしねえし、おめえの事怒ったりもしねえって」
 ――とか言いながら、本気で怒る時は怒るくせに。
 でも一生懸命な目で言われると、どうにも抗い難く。
 考えに考えた結果、結局言う事にした。
 どちらにせよ悟空がもうひとりの自分に聞きに行くのであれば、抵抗など無駄な代物かも知れないし、当人にずばり聞くよりは自分が言った方が、まだいいかもと考えたからだ。
 怒らないでよね、と前置きしてから、昨夜あった事を口にする。
 告白された事、口唇を奪われた事を。
 さすがにキスされたと言ったら、悟空は凄く険しい顔になった。
 隠しておけばよかったかもと思うのだが、今更な話だ。
 全てを話し終えると、悟空は何を思ったのか、の頤を掴んで引き寄せ、激しく口唇を奪った。
「っん!」
 驚きにほんの少し口唇を開くと、その間からするりと彼の舌が入り込んできた。
 体を引いて逃げようとしてみるも、抱きしめられる事で、逆に体を密着させる結果になって。
 なすがままにされ、何度も角度を変えて口付けられ――やっと離れた時には完全に息が上がっていた。
「な、な、なに、するの……」
「無防備なが悪いんだぞ」
 ――あ、やっぱり少し怒ってるみたい。
 キスのくだりは伏せておけばよかった。
 悟空はの隣に座りなおす。
 は川の流れの先に視線を向けた。
「どうしたらいいのかな。もう少しで帰れるから、距離を置いた方がいいのか――それともちゃんと話した方がいいのか」
「そうだなあ。――オラが話した方がいいかもな」
「え、だ、ダメじゃない? だって、その」
 不安そうな顔をしているに、悟空は笑った。
「でえじょぶだってー。殴ったりしねえ。約束する」
 確かに野蛮人じゃあるまいし、いきなり殴ったりはしなかろう。
 しかし。
 不安は、不安だ。
「わ、私も一緒に行く。万が一のためだけど……ちゃんと話したいし」
 昨日は何が何だか分からないうちに、事が全て終わってしまったので。
「じゃあメシ食ったら行くか」

 もうひとりの悟空は、を見ると戸惑うどころか顔を綻ばせ、非常に嬉しそうに駆け寄ってきた。
 ヒステリーを起こしそうな状態のチチを説得し、彼を外に連れ出す。
 いつも悟空が――どちらも――修行している場所に移動すると、とにかく話を始めた。
 切り出したのはではなく、の夫の方。
「言っただろ? オラは、たとえオラそっくりのおめえだとしても、をくれてやるつもりはねえって」
「分かってるさ、そんな事」
 真っ直ぐな目をしてはっきりと言う彼。
 でも、とが小さく言う。
「じゃあ、どうして、その」
 言い淀むに悟空さん――もうひとりの悟空――は顔を向けた。
「分かってんだ。分かってんだけど……なんつったらいいか……胸が苦しくて、そんで、そんで――」
 ぽつり、言う。
 大切な想いを、胸に渦巻いている気持ちを、そっと空気に乗せて。
「離したくねえ」
 は隣にいる悟空を見やった。
 彼は押し黙り、何も言わない。
 どうしていいか分からない。
 分からないけれど――このまま放っておいてはいけないと、思う。
 しかられる前の子供のように、不安そうな瞳をしている悟空さんに近づくと、彼の手――拳を作っているそれ――を、両の手でそっと包み込んだ。
「……あのね。悟空さんの手は凄くあったかいよ。でも、それは私を護るための手じゃないの」
 自分の言葉が、どんな結果を生むかを考えると怖い。
 思いながらも、は口を閉ざす事をしない。
 この次元に来た自分と悟空には、何かしら理由がある気もしたから。
 チチさんに、申し訳ない事を言おうとしている自覚はある。
 あるのだけれど――やっぱり世界が違うとはいえ、自分の夫ではなくても、悟空に切ない顔をされてしまうと、はとても弱くて。
「今はチチさんを護る手だよ」
「でもオラは――」
 ぐっと唇を噛み締める彼に、諭すように言う。
「でもね、もし、もし悟空さんが、どうしても違う、って思うのなら」
 そう、それは可能性の問題。
 もしかしたらこの世にはないかもしれないけれど、決してゼロではない可能性。
「この世界にいる私を、探してみて」
 今のとは全然違うかも知れない。
 全く同じかも知れない。
 出会って、あまりの違いに嫌になるかも。
 やはりチチが良いと思うかも。
 でも、今の彼が自分を望むのならば、は言う。
 この次元に存在すると思われる私を探してみたら、と。
 悟空さんは目を瞬かせた。
「……この世界にいる、おめえ?」
「そう。私は別の次元から来た部外者だけど、ここにだって私がいないとは限らないでしょ? 私がこうやって存在する事を考えれば、いない方がおかしいぐらいで」
 だから。
「だから、探す気があるなら――おおよその位置ぐらいは話してあげられるけど」
「……」
 暫く黙っていた彼は、けれど静かに頷いた。
 瞳に決意を灯して。
「確かに今は、チチを護る手だ。でもやっぱ、オラは――」
「うん、分かった。でもね、ちゃんと覚えておいて。私を探しに行くなら、チチさんと別離してもいいと思うぐらいに、強い気持ちがないとダメだって」
 彼はもう一度深く頷いた。


 それから数日。
 転移マシンのエネルギーが溜まったため、と悟空は元の次元に帰る事に決めた。
 孫家を出、この世界の悟空に
「その気があるなら探して」
 と言ったあの日から、も悟空もチチには一度たりとも会っていない。
 彼女は彼女なりに思うところがあるのか分からないが、悟空さんに聞くところによると、彼女もまた誰かを探しているようだった。
 悟空さんの方も、この世界のを求めてあちこち飛び回っている。

「……もう帰っちまうんだな」
 転移マシンを前にした2人に、悟空さんは呟いた。
 は頷いて握手する。
「元気で。あの、チチさんにもよろしく言って。……ゴタゴタさせちゃって申し訳ないんだけど」
「オラが決めた事だし、おめえが気にするこたねえぞ。なんかすっきりしたしな」
 軽く言う彼に、悟空とは顔を見合わせた。
 悟空も握手すると、ニッと笑いあった。
 同じ顔なのに、やはり表情の違いはある。
「――頑張れよ」
「ああ、おめえもな!」
 固く握手をし、離れた。
 は悟空と手をつなぎ、転移マシンの――今はしっかり異世界と繋がれている――ラインに触れた。
 ――瞬時に視界が変わる。
 一人残されたこの世界の悟空は、自分以外誰もいなくなったその場所に、暫く佇んでいた。



 自分たちの世界の天界に戻ってきたと悟空は、すぐさまこちらの世界の時空転移マシンの接続を切った。
 前と同じ間違いはすまいと、慎重にラインを切る。
 これで、とりあえずこの場所からの接続は切れた。
 の友達のように、迷い込んでくるものはいなくなる――はず。
 神様とミスター・ポポにお礼をいい、すぐさま家に帰ると、洗濯物がはためいていた。
「……洗いなおした方がいいのかなあ?」
「やるならオラも手伝うぞ」
 微笑む悟空に、は首をかしげた。
「急にどしたの」
「別に。がいてくれるって、凄ぇ嬉しいからさ」
 異世界の自分を見て実感したと腕を組みながら言う彼に、は顔を緩ませる。
 ――ああ、この人は。とても子供っぽくて、優しくて、温かくて。
 きゅっと抱きつき、胸に顔を埋めて瞳を閉じる。
 悟空も何も言わずに抱きしめ返してくれた。

 どうか。
 誰もこの人を、奪いませんように。


2013・5・21