は思う。どうして彼はこんなに優しいんだろう。
 は思う。どうして彼はこんなに寂しそうなんだろう。



落明愁夢 20



 が惚れ薬を飲んでから、5日が経過していた。

 克也から事情を聞いたは、兄の馬鹿さ加減に呆れて頭をぶっ叩いた。
 確かに惚れ薬を渡したのはだが、本当に使うと思っていなかったのだ。
 彼女はブルマと一緒にフライパン山へ行き、あの惚れ薬を作った薬草屋を訊ねた。
 解薬剤を欲してのことだったのが、返答は――。
 は髪を掻き乱して、奇妙な唸り声を上げる。
 向かいに座るブルマが、手を上下させて落ち着くよう言った。
「……解薬剤がないなんてねえ」
 ブルマはため息混じりに背を仰け反らせた。
「孫悟空はどうしてます?」
「ええ、に付きっ切りだわ。対して克也お兄様は?」
「同じくに付きっ切りー」
 拍子を合わせるように喋る2人。
「発汗で全部出るって話だし、そろそろ正気に戻るころかしらね」
「兄貴にしてみたら、残念かも知れないけどねえ。孫悟空のあの様子じゃあ、入り込む隙はないわ」



 最初の3日間、の容態は日に日に悪化して行っていた。
 呼吸は浅く、汗が次から次へと出てきていた。
 状態が回復し出したのは、ここ2日ほどのことだ。
 はベッドに仰向けに寝た状態のまま、隣に座っている悟空を盗み見、それから彼の奥、デスクチェアに座っている克也に視線を向けた。
 最初の頃は克也の姿が見えないと不安でたまらなかったのに、ここ数日はそうでもない。
 自分の気持ちを量りかね、はちょくちょく不安に駆られる。
 どれが本当の気持ちなのか、分からなくて。
 息をつき、悟空に視線を向ける。
 すると彼は当然のように、の視線に気付いた。
 彼は何をしていても、ちょっとした動きや気配で気付くみたいだ。
「どした? 水欲しいんか?」
 こくりと頷くき、悟空の手に支えられて起き上がる。
 彼はサイドテーブルの水差しからグラスに適量の水を入れ、の口元にそれを運ぶ。
 まるで子供にするように、ゆっくり彼女に水を飲ませる悟空。
「……ん、ありがと」
 飲みきり、は悟空に礼を言った。
 彼は微笑み、テーブルにかけてあったタオルを手に取ると、額や首の汗を拭う。
 そうしてから殊更優しく、ベッドに横たわらせた。
 ブランケットをかけ直してもらう。ぽんぽんと軽く叩かれた。
「だいぶ顔色よくなったな」
「そう、なのかな……。克兄も、そう思う?」
 に問われ、克也は微妙な笑顔を浮かべた。
「あ、ああ。そうだな……よくなったよ」
「…………克兄」
 は切なくなって、瞳を彼から外した。
 どうしてだろう、とは思う。
 克也が死ぬほど好きだったはずなのに、どうして――悟空が気になるんだろう。
 自分はこんなに簡単に、好きな人を変えてしまうような女だったのだろうか。
 優しくしてくれたなら、それでいい?
 ――そんなはずないのに。
 考えていると、温かな悟空の手が額に、頬にと触れた。
 彼の体温が気持ちよくて、思わず目を閉じる。
、今はなんも考えねえでいろ。おめえがこうやって、ここにいるのが大事なんだ。考えねえでいい」
 それは、凄く温かな言葉だった。
 気の楽になる言葉だった。
 は目を開き、悟空を見やる。
 ぜんぶを包んでくれるみたいな、優しい人。
 それなのに、どうしてか泣きたくなることがある。
「……チチさんと結婚するのに、優しくするのはどうして?」
 そう。多分、それこそが悲しくなる原因だと、は思う。
 何故悲しくなるのか。
 自分は、悟空が好きだったのだろうか。
 では、克也のことは?
 考える先から混乱が生じる。
 悟空のことを考えると、混乱をきたす。
 けれども乱雑に散らばった思考を纏め、現実に引き戻したのも、また悟空だった。
 彼はの額に口付けると、変わらず温かな笑みを浮かべる。
 容易に彼の口付けを受ける自分に、また違和感。
「言ったろ。オラ、結婚なんてしねえよ」
「でも」
「オラは決めたんだ。もし、おめえが克也を好きになっちまっても、もっぺんオラのこと好きになってもらえるように、頑張るって」
 は無言で彼を見続ける。
「おめえがオラと一緒になりてえって、チチのとこで頑張ってたみてえに、今度はオラが頑張る。頑張らせてくれ」

 ――頑張らせて。
 そう言ったのは、確か私自身ではなかった?

「克兄」
 は戸惑い、克也に声をかける。
 彼は暫く黙っていたが、ゆっくりとに近づいてきた。
 どこか苦い顔をした克也は、大きく息を吐いた。
、もういいんだ。今夜ゆっくり休んで――目を開いたら、元の君に戻ってる。そうなるべきだ」
 意味が分からないと首を振る
 手を差し伸べるが、それが取られることはなかった。
 力なく落ちる手を、悟空が取る。
 自然な動きで指が絡む。
 指を絡ませたのはからだったが、それに彼女自身は気づかない。
 克也は言葉を続けた。
「違うんだ。が本当に好きなのは、俺じゃない。分かってるはずだろ?」
「わから、ないよ」
「分かるはずだ。心の底から好きになった男を、忘れる子じゃないだろ、は」
 彼は微笑み、
「俺はのところへ戻ってるから。早く元気になれよ」
 部屋を出て行ってしまった。
 は起き上がろうとせず、ただ克也の言葉を脳裏で反復する。
 呆然としているように見えたのだろう。
 悟空が不安そうに声をかけてきた。
「……、でえじょぶか?」
 は瞳を彼に向ける。
「悟空。寝て起きて、それで全部が元に戻ったら、悟空は嬉しい?」
 何かを考えて言ったものではなかった。
 克也は意図していなかったけれど、彼の言葉が本来のの感情を解放した。
 閉じていた蓋が、剥がされる。
 
「おめえが元に戻ったら、そりゃあ嬉しいさ」
「…………うん、そっか」
「でもな、だろ。だから、いいんだ」
 言い、笑う悟空。
 も微笑み、気を楽にして瞳を閉じた。
 ――起きたら、元の私。



 翌日。
 起き上がったは、隣で突っ伏して眠っている悟空を見、小さく笑んだ。
 妙に気分がすきっとしている。
 胸いっぱいに息を吸い、吐いた。
「悟空、おはよう。朝だよ」
 つんつん頬を突付く。
 彼はがばっと起き上がり、あくびを噛み殺して目を擦った。
「……オッス、
「おはよう。たくさん迷惑かけて、ごめんね」
 自然な笑顔。自然な物言い。
 違和感のないそれらに、悟空は目を瞬く。
……もしかして、ほんとに元に戻ったんか」
 こくりと頷く。
 克也が飲ませた惚れ薬の効果は、すっかり消えていた。
 昨日のように感情が極端に爆ぜることもない。
 あるのは、悟空が好きだということ、そして克也を友人として好きなこと。
 悟空は再度目を瞬き、そうして嬉しさのあまり抱きつこうとして、動きを止めた。
「悟空?」
「あのよぉ……チチとのことだけんど。誤解だぞ、オラ結婚しねえよ。準備だってしてなかった。いろんな奴に優しいから、誤解されんだって、ブルマに怒られたけど」
 申し訳なさそうに言う悟空。
 彼はフライパン山で、や牛魔王、薬草屋から効いたことを全部、に話してきかせた。

「それじゃ、眠り薬で寝ちゃってて、悟空はチチさんと……その、何もなかったんだ」
「ああ。そんときが貰った惚れ薬を、おめえが飲んだ。んで、克也を好きんなっちまって……」
 はぁ、と大きく溜息をつく悟空。
 を窺うように見た。
「あ、あのさ……そんで、まだオラのこと、怒ってんか?」
「悟空を?」
 は小さく笑む。
「怒ってなんて、最初からいないよ。ただ、死ぬほど悲しかっただけだもん。私こそ、疑っちゃってごめん」
「――触って、ええか」
「看病してる時、すごく沢山触ったでしょ? 今更聞かなくたっていいよ」
 にこりと笑む。
 彼は勢いよくに飛びついた。
 ギュッと抱き締め、額に、頬に、口唇にと口付ける。
「ん、う……ちょっ、やりすぎ……!」
、結婚しよう」
 でも、まだチチに許可を貰っていないはずだと言うと、悟空は真剣な表情での瞳を射抜く。
「駄目だ。もう、おめえを泣かすの嫌だし、我慢効かねえ。結婚すんだ。――嫌か?」
 最後だけ、本当に自身がなさそうな声で言うものだから、は思わず笑ってしまった。
 悟空を抱き締め、息をつく。
 もういいだろう。互いに頑張っただろうという、父親の声が聞こえた気がした。
「あのね悟空」
「うん?」
「……キス、して?」
 彼は笑みを浮かべ、彼女の頬に触れた。



「ええっ!? 帰っちゃったの?」
 異世界転移装置のある部屋で、は思わず叫んだ。
 椅子に座ったブルマはパタパタ手を振る。
「そうよ。あんたと悟空によろしく、って」
「なんでそんな急に帰っちまったんだ?」
 首を捻る悟空。ブルマは頬を掻く。
「あわせる顔がない、とかなんとか。まあ、こちらの世界との繋ぎを渡したし。エネルギーが溜まればまた来れるわ」
 飄々と言うブルマに、は溜息をつく。
 たくさん迷惑をかけたのはこちらなのに、お礼も言えなかった。
 克兄とも、もっと話をすればよかった。
 には、本当にたくさん、助けてもらったのに。
 俯くの頭を、悟空が軽く撫でる。
「でえじょぶさ、また来れるってブルマが言ってるしよ」
「うん……」
 悟空はの肩を支えた。
 それを見たブルマが、にんまり笑う。
「やっと元の鞘に戻ったのかしらー? それで、結論は??」
 と悟空は顔を見合わせ、どちらともなく口付ける。
 ブルマが口笛を吹き、椅子から立ち上がる。
「それじゃ、準備しましょう!」
「なんの?」
「馬鹿ねえ。結婚式の準備に決まってるでしょ。ほーら孫くん、指輪買いに行くわよ!」
「え、は一緒でねんか!?」
 と引き剥がされ、不満顔の悟空。
 ブルマは指を振った。
「指輪選びは男の仕事。でもも一緒にね、ドレスあてるから」
「え、え、え、ちょっとブルマ……早……」
「いいから、言うこと聞きなさいっ! ああ、そうだわ、鞄持ってこなくちゃ。ちょっと待ってて!」
 至極嬉しそうな、いや、楽しそうなブルマは物凄い勢いで部屋から出て行ってしまう。
 
「……ブルマ、凄い勢いだね」
 半ば呆れ、出て行ったブルマを見やる。
 悟空は苦笑し、を背中側から抱き締めた。
 温かな体温に包まれ、やんわりと目を閉じる。
「なあ、
「なに?」
「――大好きだ」
 頬を染めるを、悟空は更に強く抱き締めた。
「泣かせねえように、頑張っからさ。オラの側にいてくれな」
 こくりと頷く。
 チチには一生許してもらえないかも知れない。
 けれど、はこの手を知ってしまったから。
 
「悟空、私、もう逃げないからね。絶対」
「まあ、逃がすつもりもねえけど」
 悟空はにんまり笑み、の首筋にキスを落とした。


結局一ヶ月以上かかってしまいましたが…これにて終了。何事をもフォローしておりませんが、機会があればオマケとかで書きたいと思います。
2006・7・25