体が、どこかおかしいと思う。
 だけど、どこがおかしいのか分からない。
 考えるのも億劫で、は目を閉じたまま息を吐いた。



落明愁夢 19



「……が、帰って来てる」
 克也に告げられた言葉に、もブルマも――そして悟空も驚いた。
 特に悟空は驚きよりも喜びが顕著で、満面の笑みを浮かべての部屋に駆けて行こうとする。
「ちょっと待てよ孫悟空。は今しがた眠ったばかりだ」
 扉の前に立ちはだかる克也。
 悟空は少なからず険を帯びている。
 だが克也は引かない。
「それに、お前どの面下げて会うつもりなんだ? 誤解を招くような行動を取ったんだろう。そりゃあ、もちろんにだって見当違いの思い込みはあっただろうけどさ」
 悟空は何も言わず、克也を見つめる。
「……とにかく、頼む。もう関わらないでやってくれ」
「嫌だ」
 きっぱりと悟空は言う。
 たじろぐ克也。
 強い口調と視線。悟空の向けてくるそれに、克也は息を飲んだ。
 悟空はそれ以上何も言わず、部屋を出て行ってしまった。
「…………ふぅん、本気で腹括ったのかしら。」
 が悟空が出て行ったドアを見つめ、何となく呟く。
 ブルマは苦笑し、小さく溜息をついた。
「さあねえ。でもまあ、いいんじゃないの。戦い以外であんな真剣な顔するの、初めて見たし。丸く収まるかもねえ……が意地さえ張らなければ」
 克也は何も言わず、俯いた。
 そして意を決し、廊下へと出る。
「兄貴、どこ行くのよ」
の所だ。孫と2人きりになんてしておけないだろ」
「孫くんがになんかするって? ありえないわよ」
 ブルマが言うが、克也はそのまま廊下に出る。
 とブルマは顔を見合わせ、同時に溜息をついた。


「……
 悟空は彼女の眠るベッドに腰かけた。
 よほど深い眠りなのか、起きる気配はない。
 の顔にかかる髪を横に流してやった。
「なあ、。オラさあ……全部放って、おめえ連れて逃げちまおうかなあ」
 なんだか、たくさんのことが煩わしい気がした。
 元々、自分が発した、『結婚するか』というひと言でぜんぶが始まった。
 あの時にその言葉を言っていなければ、何か違っただろうか。
 今更そんなことを思っても、しょうがないのだけれど。
 頬に触れると、の目蓋が微かに動いた。
「ん、んぅ……克兄……?」
 出された克也の名に、悟空は体を強張らせた。
 眉をひそめ、頬から手を離す。
 は目を擦り、緩慢な動きで起き上がった。
 前傾姿勢でもう一度目を擦り、彼女は隣にいる悟空を見る。
「………悟空」
「あ、あのさあ、。オラ――」
「克也兄ちゃんははどこに行ったの?」
「――?」
 悟空は軽く目を瞬き、彼女の目を覗き込む。
 それを振り払うようには手を振った。
?」
「…………克也、どこ」
 虚ろな瞳で周囲を見やる
 悟空が困惑していると、唐突にドアが開いた。
 の表情に、不自然なまでの悦びが奔る。
 彼女は悟空の横をすり抜け、入って来たばかりの克也に思い切り抱きつく。
 男の胸に顔を埋めているを見て、悟空は脳の芯を揺さぶられたような気分になった。
 言葉が出てこず、まして体も動かず、ただと克也を見つめている。
 驚きは克也にも同様のもので、彼は自分の胸に縋るの肩を掴んだ。
 彼女は熱に浮かされたみたいに瞳を揺らし、頬を赤らめている。
「お、おい……? どうしたんだ」
 克也は戸惑い聞くが、は首を小さく振り、微笑んだ。
「克也、一緒にいよ。離れないで一緒にいて。あなたがいないと寂しいの」
 彼の背中に手を回し、服をぎゅっと掴む
 ――悟空の胸に、激しく赤い彩が灯る。
「……っ!」
 悟空は、力任せにを克也から引き剥がす。
 彼女は強い痛みに顔をしかめ、ひどく冷めた目で悟空を見つめた。
「邪魔、しないで。悟空は、チチさんと、結婚するのよ。私に、構わないで」
 額に汗を浮かせ、はまた克也に抱きつこうとする。
 それを悟空は止め、両肩を掴んで彼女を正面から見た。
「オラはチチと結婚なんかしねえよ、誤解だ! 全部勘違ぇなんだよ!」
「そんなの、知らない。私は、克也と結婚するの」
「……?」
 悟空は眉をひそめる。
「克也が、だいすき、なの。私、克也の、なの」
 の体から力がなくなっていく。
 悟空は慌てて彼女を支えた。
 ひどく苦しそうで、息が荒い。
「いや……克也……」
 触れられることを厭うように、悟空から体を放そうとするが、力が入っておらず倒れそうになる。
 克也は何に驚いてか佇立しており、動こうとしない。
 悟空は彼女の膝の裏に手を差し入れ、背中を支えて抱える。
 彼女がいやいやと首を振るが、無視した。
 ベッドに運び、横にする。
 それでも克也を求めて起き上がろうとするの両手を、悟空は片手でベッドに縫いとめておく。
 横向きに寝ている彼女の瞳は、悟空に留まることなどなく、克也を探して悲しげに歪められていた。
 苛立たしくてたまらない気持ちを抑え、悟空はに語り掛ける。
「でえじょぶだ。克也はそこにいる。だから、目を閉じて、少し休め」
 ひとつひとつの言葉を区切って言う悟空。
 の瞳が、ふぅ、と悟空に向いた。
 苦しげに喘ぐ口唇。微かに微笑みの形が浮く。
「休んだら、克也、いっしょに、いて、くれるの?」
「ああ」
 悟空は頷き答える。
「うん……じゃあ……休、む」
 彼女は目を閉じる。数秒もかからず、全身から力が抜けた。
 どこか苦しげな寝息。
 悟空はの額の汗を拭ってやり、そこに軽く口付けた。


「……いってえ、どういうことなんだ」
 の眠っている室内で会話できず、悟空は克也を連れて廊下へ出た。
 扉1枚挟んだ向こうにはが眠っているが、先ほど見た彼女は、悟空の知る彼女ではなかった。
 自分を好いていないからだとか、そういう問題ではない。
 瞳が違う。聡明な光も、強さもない瞳は、のものではなかった。
はどうしちまったんだ? 帰ってきた時から、あんなだったんか」
「………違う」
 搾り出された克也の声には、苦悶が混じっていた。
「おめえ、なんか知ってんのか!?」
 ならば教えて欲しいと懇願し、まっすぐに克也を見る。
「…………惚れ薬だよ」
 言いながら、克也は胸ポケットから小瓶を出す。
 それは、チチが薬草屋とやらに作らせたもので、が持っていたもの――のはず。
 悟空はまさかと口を開き、何も言えず口を閉じた。
 後ろめたさも手伝ってか、克也は悟空の視線を真っ向から受け入れられず、床を見つめている。
 胸に小瓶をしまい込み、深い息をついた。
「まさか、効くと思わなかった。いや、効いて欲しいとは思ってた」
「なんでそんなモンをに使ったんだ!」
「しょうがないだろうっ! 俺は、お前に絶対に敵わないんだって、思い知らされながら生きてきたんだぞ!」
 克也は叫ぶ。
「お前なんかに分かるかよっ。は小さい頃から、誰に告白されてもお前が好きだって断り続けてきたんだ。その度、俺はもっといい男になろうって決めて……」
 だからが悟空に振られて戻ってきた時、克也は内心ひどく喜んでいた。
 彼女の不幸を望んでいたわけではないが、これで自分を見てくれるかも知れないと、そう思っていたから。
 だけれど悟空がやってきて、はまた闘う意思を持ってフライパン山へ行ってしまって。
「……が誰より先に俺のところへ現れた時、惚れ薬を使うなら今しかないと思ったんだ。はお前を絶対に忘れない。こんな物でも使わない限り、彼女を俺で満たすなんて、できやしないんだ。だから」
 悟空はぐっと拳を握り、克也の胸倉を掴む。
「おめえっ! あれが『』だって言えんのか! 光のない、人形みてえな目してるのがだってのか!」
 克也は何も言わず、口唇を震わせる。
 彼は悟空の怒気の強さに、自分のしたことが今更ながら、人として恐れるべきことだったのだと思い知った。
 悟空は奥歯を噛み締め、克也の服から手を離した。
「オラは、についてる。おめえはブルマに言って、惚れ薬っちゅーやつがどうにかならねえか、聞いてきてくれ」
「……わ、分かった」
 克也は軽く頷き、廊下を駆ける。
 残った悟空は荒い気を静め、の部屋へと入って行った。



克也くん暴走。あっさり後1話でお終いです。惚れ薬ネタは、また形を変えて書きたいなあ。
2006・7・21